4:It's not a bad birthday.
両親が離婚した子供達は、祝い事をどちらの親と過ごすか、一体どうやって決めているのだろう。後腐れなくサイコロでも振って、「ああ、今年はパパだわ。じゃあねママ、悪く思わないで」なんてシンプルに決められたならどんなに良いだろうか。
ノエルの親は母親だけだ。しかし、アレックスと言う後見人が居る以上、親の離婚した子供達と同じ悩みと毎年対峙せねばならない。否、悩みと言うと語弊がある。ノエルは、誕生日もホリデーも母親を優先させると決めており、今までそれを貫いてきた。ただ、残されたアレックスにその都度罪悪感を覚えねばならないのが苦しいのだ。
きっと露骨に不愉快な顔をするのだろう。ノエルは学校からの帰り道を足取り重く進みながら、小さく息を吐き出した。今晩はアレックスの家に泊まる日である。だが、夕飯は母親と食べる約束をしていた。マクマナス家は経済的に余裕のある家庭ではなかったが、一人息子の誕生日には奮発して感謝祭のようなご馳走を用意する程度の蓄えはある。勿論そのうちの何割かは、アレックスから受け取るバイト代と言う名の援助によるものであるが。
なんにせよ、普段あまり家事をしない母親が一から十までノエルの為に腕をふるってくれる貴重な日だ。はらを決め、アレックスの嫌味を甘んじて受けよう。意を決して通りの角を曲がったノエルは、顔をあげてアレックスの家へと目を向けた。
と、家の前には一台の大きなトラックが停まっていた。一瞬それが引っ越し業者のトラックに見えてノエルはドキリとしたのだが、車体に書かれている社名は配達会社のものだった――”キューカンバー・キャット・エクスプレス”。キュウリを見て飛び上がっている猫のロゴ……。
「そいつもガレージの中に入れてくれ」
開いたガレージの中から顔を出したアレックスが、業者の男に指示をしているのが見えた。珍しく上機嫌を隠しもせず、気の良い老人のようにふるまっている。ノエルは訝し気にその状況を眺めながら、アレックスへと近づいて行った。アレックスはすぐにノエルに気が付いた。
「よう、ノエル」
なんと弾んだ声だ。この声を出すべきなのは、バースデーボーイのノエルではないのか。
「アレックス。ねえ、これどうしたの?」
アレックスは二人がかりで冷蔵庫のようなものをガレージに運び込む男達を見守りつつ、にんまりと笑って見せた。
「臨時収入が入ったから、新しい機材を買ったんだ。最新式で、トロンに出て来るようないかにもSFっぽいデザインのやつだぞ。俺は欲しいものはなんでも作れるが、いかんせんデザインのセンスはないからな。かっこいい物が欲しい時は、既製品を買って自分でアップグレードするに限る」
「ちょっと、いくつ買ったの? これ全部ガレージに入れたら、車が入らないじゃない」
アレックスのビートルは今、一時的に家の前に退散させていた。確かにこの有様では、この先ずっと大切な彼女を路上駐車させなければならなくなる。アレックスは身をかがめて声を低くした。
「後で地下に持ってくに決まってるだろ、余計な事を言うな」
「ああ、そうか……降ろすの手伝おうか。あれくらいなら一人で運べると思うし」
先ほどの冷蔵庫のような大きな塊を指してノエルが言う。もちろん、小さな両手でもってえっちらおっちら運んでいく訳ではない。アレックスは眉根を寄せて鼻を鳴らした。
「新品の精密機器をお前に任せる? ゴリラに運ばせるのと大差ないな。万一ぶつけたら、この先一生お前はタダ働きだぞ」
「そんな高価なものこんなにたくさん買ったの? 臨時収入って、まさかテロリストに武器でも売ったんじゃないよね?」
「テロリストって言葉は地球限定か? それとも違う惑星でも使われてるのか」
「ヴァレンタインさん、全て運び込みましたよ」
額の汗を血管の浮き出た太い腕で拭いながら、男がアレックスにクリップボードに挟んだ書類を突き出した。アレックスは手早くそれにサインをすると、なんと景気よく100ドル札を人数分取り出して彼らに渡したではないか。屈強な男達は大好きな主人を見たゴールデンレトリバーのような顔をして、礼を述べながら去って行った。
「……ほんと、マジで、違法な事して稼いだんじゃないよね?」
呆れを通り越し恐怖さえ感じながらノエルはアレックスを見上げる。アレックスは、さも頭の中を覗いてみろとばかりに両腕を広げてみせた。彼が違法な事をするのは正直珍しい事ではないのだが、今回稼いだ大金はクリーンな金であるとの主張を曲げる気はないらしい。
「ま、簡単に言うとだな」
アレックスは自慢気に目を細めた。
「俺の発明の一つが良い値で売れたんだ」
「え、ほ、本当!? それって、わあ、凄いよ! おめでとう!」
「まあ、たいしたもんじゃないがな」
自己顕示欲の強い人間は、自らの功績を話せる機会を逃さない。アレックスがしめたとばかりに自分の発明について語ろうとした時、不意に彼のスマホが鳴ってそれを妨害した。メッセージやアプリの通知の類ではない、電話の着信音だった。
邪魔をされたアレックスが忌々し気に白衣のポケットからスマホを抜き出した途端。
パチン。
「え?」
電気が突然消えたような。風船ガムが割れたような。小さな小さな”終わり”がノエルの頭の中で弾けた……否、アレックスの頭の中で弾けた。ノエルはそれを感じ取っただけに過ぎない。全く突然に、アレックスの幸せが途絶えたのだ。
驚いてアレックスを見上げると、彼は先ほどまでの生気を一気に失い、無表情でじいっとスマホの画面を見つめていた。電話は彼の節くれだった手の中でまだ鳴り続けている。
「……アレックス?」
恐る恐るノエルが声をかけると、彼ははっと我に返ったように鋭く息をのみ、先ほどより少し強張った顔をノエルに向けた。
「鞄、置いてこい」
「え、あ……うん……」
淡々と、しかし有無を言わさぬ口調でノエルにそう言い放つ。ノエルはよっぽど食い下がろうと思ったが、アレックスの気迫に押されて大人しくその言葉に従って家の中に入っていった。
家の扉が完璧に閉まったのを確認してから、アレックスは電話の通話ボタンをタップした。頭の中ではそんな事をするなと警告する自分の声が聞こえるのに、体が勝手に動いている。まるで自分の意識が別の人間の体に閉じ込められ、動き回る生きたロボットの殺戮を成す術もなく見せつけられているような感覚だ。
「……もしもし」
「……アレックス?」
高く、甘い声。
あまりにも懐かしいその声を聴いた瞬間、アレックスの頭皮から一気に汗が噴き出して、鼻腔に香水の幻が香った。作り物のバラの匂い……。
「……まさか、電話番号を変えてないとはな」
掠れた声でアレックスが言うと、彼の耳を柔らかい吐息のような笑い声がくすぐった。
「貴方こそ」
「……イヴリン」
この名前を口にするのは実に十八年ぶりである。
「一体なんの用だ」
「ごめんなさい、いきなり電話して。ただ、昨日たまたま貴方の名前を聞いたのよ。マルコムって覚えてる? 同じ研究所に勤めてた人。彼と昨日食事をしてたんだけど、彼が勤めてる会社が貴方の発明品を買ったって話題になったのよ。それって本当なの?」
「あいつがどこで働いてるかなんて知らないが、確かに発明品は売れたよ」
「すごい!」
彼女は少女のような声をあげた。アレックスは指先が冷たくなっているのを感じ、次いで脱力が足から這い上がって来る事に気づくと急いで手近な段ボール箱の上に腰を下ろした。この中にはまだ拝んでもない高級な精密機器が入っていると言うのに。
「それって本当、素晴らしい事じゃない。実はね、私、貴方が研究を辞めちゃったんじゃないかって心配してたの」
「”心配”?」
「本当よ。だって、貴方から研究を取り上げるのって、サッカー選手から両足を取り上げるようなものじゃない。だからもし、貴方が研究を辞めてたらどうしようかと……その……私のせいで……」
少しの間沈黙があった。イヴリンはアレックスを伺うように息を殺し耳をそばだてている。アレックスは突如気管が半分ほどにまで細くなってしまったように、ちょろちょろとしたか細い呼吸をするので精一杯だった。これが他の者であれば、自分の怒りをしっかり言語化した上で、立派な武器として振り上げ、相手を完膚なきまでに叩きのめす事が出来る。だが、彼女にはそうはいかない。
ややあってアレックスは、冷え切った片手で顔を拭いながら唸るように呟いた。
「なんの用なんだ」
「会いたいわ」
矢のような一言だった。
「……君は……」
「結婚してる。ええ、分かってるわ。だからこそ構えないで欲しいの。友人として会いたいのよ。ただ……貴方が元気かどうか、この目で見たいの」
「絶対にがっかりするぞ」
「どうして? 物凄く太ったとか?」
「老けたんだよ。君が思っているよりもずっと」
「それはお互い様よ、私だってもう50なんだから。もし貴方さえよければ……私と会う事をよく思わない人が、貴方の隣に居なければの話だけど」
アレックスは言葉に詰まった。勿論真っ先にノエルの事が浮かんだが、あの少年を他人が理解できるように説明できるとは到底思えない。本来なら、昔の恋人の登場なんてメロドラマじみた事件が入り込む余地なんてないほど、ノエルとアレックスの関係は込み入っているのだから。
耐えきれなくなったのか、先にイヴリンが口を開いた。
「……ごめんなさい、そうよね、貴方なら彼女か奥さんくらい居るわよね」
「いいや、居ない」
嘘ではない。嘘ではないのだが、彼は完全に嘘を吐く時の白々しさでその言葉を舌にのせていた。
「だが……ああ……また連絡するんじゃ駄目か」
「勿論いつでも連絡してちょうだい。こうしてお互い、電話はまだ通じるって分かったわけだしね」
「ああ、そうだな」
「それじゃあ……都合のいい時に連絡ちょうだいね。待ってるから。貴方が研究を続けてたこと、本当に嬉しい。またね、アル」
穏やかな彼女の挨拶にアレックスは返事も出来ないままぷつりと通話を終了させた。”アル”。その呼び方をされるのもまた、十八年ぶりだった。
アレックスは気の抜けたようにぼんやりと表の道路を見つめていたが、ややあってゆっくりと腰を上げた。ポケットにスマホを戻し、新品のプラスチックの匂いが充満するガレージの中を一瞥する。ああそうだ、こいつらをやっつけてしまわなければ。
彼が電話を終えるのを待っていたのか、ビニールを引き裂き始めると同時におずおずとノエルがガレージの中に顔を出した。少年はアレックスの顔色を窺いながら、同時に、その頭の中を覗き見ようとしていた。
「アレックス、大丈夫?」
「ああ」
「今の電話……」
わざわざ声に出して聞く必要もなかったし、アレックスが答える必要もない。彼の頭の中をほんのちょっと見てみれば答えはそこにあるのだ。ノエルは緑の瞳を大きく見開いた。
「イヴリンって誰?」
もし、アレックスと関わりのある人間を蜘蛛の巣のように表示して可視化したら、そよ風程度で破れてしまうこの上なく貧相な巣が出来上がるだろう。そこに表示される僅かな人々の事をノエルは大体把握しているつもりだったし、女性に限定するとなれば三人しか見当たらない。アレックス自身の母親と、ノエルの母親と、近所のスーパーでいつも喧嘩寸前まで嫌味をぶつけあうレジ係のおばさんだ。
イヴリンなんて名前の女性は、存在しないはずなのに。
「古い知り合いだ」
アレックスはそっけなくそう言った。テレパシー能力の弱点は、相手が今考えている事は分かるが、思考外の事は分からないという点である。記憶の宮殿に土足で踏み込んで好き勝手荒らしまわれるわけではなく、あくまで今この瞬間その事を考えていてくれないと分からないのだ。
けれどノエルは馬鹿ではない。アレックスの変化にはしっかり気づいていたし、彼にここまでの影響を及ぼす女性がノエルの与り知らぬ過去でどんな役割を担っていたか容易に想像できる程度の想像力も持ち合わせている。
「昔付き合ってた人?」
「そんなところだ」
淡々とした返事を聞き思わず怒りに任せて何か言おうとしたのだが、ノエルは自分が何をしでかそうとしているかに気づいて、慌てて唇の上下をぴったりとくっつけた。
ノエルはアレックスの恋人ではない。彼は56歳で、よもや誰とも付き合った事が無いわけではあるまい。彼の過去に対して(そもそもノエルは生まれてさえいないのに!)どうして自分がとやかく言う事が出来ようか。アレックスが昔の恋人から電話を受けた事に対して自分が怒るのは、あまりにもお門違いではないか。
思い上がりも良い所だ。
「……なんの電話だったの」
冷静になろうと努めた結果、当たり障りないだろう言葉を放る。アレックスは不意にノエルに視線を合わせると、手の中でぐしゃぐしゃになった梱包用ビニールを丸めながら口端を持ち上げた。普段よりは力のない笑みであったが、それでも彼らしい笑い方だ。
「”緑の目をした怪物”か?」
ノエルは頬がカッと熱くなるのを感じた。恥かしさもそうだが、いきなりいつもの調子に戻られた怒りもあった……バツの悪さを誤魔化す為のハリボテのような怒りだったけれど。
「なに、違うよ、妬いてない! 何言ってんの!?」
「嫉妬する度にこのフレーズでからかわれるなんて、目が緑色の奴は可哀そうだな。まあお前の場合、昔の女から一回電話が来たくらいでいちいち妬いてるんだから、からかわれても仕方ない。実際会ったわけでもなし」
「だって、でも、あ、会いたいから電話来たんじゃないの!?」
「感傷的でくだらん昔話で時間を浪費するなんて、まったく馬鹿げている。俺にはやる事が山積みなんだぞ!」
確かに、ガレージの中には文字通り”やる事”が”山積み”だ。まさかこれらをほっぽって、あのアレックス・ヴァレンタイン博士が元カノになんて会いに行くはずがない。早く新しいマシンを組み立て、スイッチを入れたくてうずうずしているのだから。
すっかり生気を取り戻したアレックスを見上げ、ノエルはほっとしたように肩の力を抜いた。
「なんでもいいけど……。それじゃあ、えと……僕、そろそろ行くね」
「ん、どこに?」
「今日は、ほら、夕飯は母さんと食べるから……」
だいぶ話がずれてしまったが、本来ノエルがしなければいけなかった話はこれだ。彼がおずおずそう言うと、アレックスは興味なさそうに軽く肩をすくめた。
「そうか、ならちょうどいいな」
「……ちょうどいい?」
「俺は今日はこいつらにかかりっきりになる。何時に帰って来るのか知らんが、勝手に寝ろよ」
ノエルへの嫌味も、ノエルの母親への嫌味もなし。アレックスは地下の研究室に機器を運ぶための準備に集中してしまい、あとは雹が降ろうが核戦争が始まろうがどうでも良いという態度である。
まるで今日がなんでもない日であるかのように振舞うアレックスに、ノエルは困惑した。アレックスがノエルの誕生日を忘れた事はない。母親との食事が終った後にはなるが、おめでとうを言ってくれるしプレゼントだって毎年渡してくれていた。なのに彼は、今日はもう地下から上がって来るつもりはないに等しい宣言をしている。
頭の良い彼に限って忘れているとは思えないが、けれども、ノエルの誕生日以外のイベントが今日はたくさん起きてしまった。楽しみにしていた新しい機材の到着、そしてそれを好きなように眺めて弄って遊べる期待、とどめに元カノからの電話まで出揃ってしまったら、毎年嫌でもやって来る誕生日なんて色褪せてしまうに決まってる。
この状況では、忘れられても仕方がないのだ。
「ああ、うん……分かった……」
ノエルはぼんやりした声で返事をすると、既に少年の事など眼中にない様子のアレックスをしり目に歩き出した。今日が自分の誕生日だと覚えているかなんて、とても聞く勇気はなかった。
まあ、そのうちふと気が付くだろう。それが今すぐでも、ノエルが帰ってきてからでも、明日の朝になってからでも構わない。アレックスには重要な用事があるのだから、まずはそれと向き合ってもらった方が良いだろう。自分は母親に祝ってもらえるわけであるし。
沈んだ顔をしないように努力しつつ、ノエルは足早に自分の家へと歩いて行った。日はもうだいぶ傾き、西日が彼の右頬をじりじりと焼いている。この時間は好きだ。夜行性の動物が巣穴から現れてきたような、独特のけだるい賑やかさがある。あまり治安のよくない地域柄なのかは分からないが、ともすると昼より活気に満ちている気がした。
三十分ほど歩いて自宅に帰って来ると、扉の前に立ってポケットをまさぐった。美味しそうな匂いが扉の隙間から溢れてはこなかったが、この時間であれば母親は料理を始めているはずだ。メニューはなんだろうと考えながら取り出した鍵で扉を開けると、二歩も行かずに足を止めた。
室内は白く煙っており、青臭いような甘ったるいような独特の焦げた香りがした。ノエルはこの匂いの正体を知っている。それに気づいた途端、絶望で見開かれた瞳がなんの支度もされていないキッチン兼ダイニングとリビングを仕切るビーズのカーテンへ向けられ、キラキラ光るプラスチックの玉の隙間から、ソファに座っている母親とジェイラスの姿を見止めた。
いきなり床がスポンジケーキにでもなってしまったように足元が覚束なくなった。それはきっとノエルのバースデーケーキだったに違いない。それを踏みつけながら、やっとの思いでカチカチと高い擦れあう音を立てるビーズのカーテンをくぐると、ソファの二人に目を向けた。だらしなく座った二人の前に置かれた白い皿の上には、吸いかけのものと、吸い終わったものと、一緒くたになって大麻が置かれている。リビングは噎せ返るようなにおいの強さだった。
「よう」
ジェイラスはへらへらした笑みを浮かべ、気安い調子で声をかけた。結局母親とこの男は元のさやに収まったのである。残念ながらこのグズグズの関係は正されず、いつものように破局と復縁を繰り返しているわけであるが、少なくともジェイラスは多少なり反省はしているようで、勿論心を入れ替えて真人間になるなんて事はなかったものの、ノエルに手を上げようとはしなくなったし、そもそも距離をとろうとしている様子だった。
しかし、だからなんだと言うのだろう。ノエルに今の所暴力を振るっていないと言う事が、なんの慰めになると言うのだろう。ノエルはジェイラスに引きつったような笑みを返してから、母親を呼んだ。ヒルダはワンテンポ遅れてノエルを見やり、力の抜けきった笑みを浮かべてのろのろ両手を持ち上げた。
「ハァイ、あたしのバースデーボーイ」
ああ、少なくとも誕生日である事は覚えていたようだ。この状況とその事実の不釣り合いさがあまりにも滑稽で、ノエルの胃がしゃっくりのような笑いに震えた。
「ああ、あんたが帰ってきたなら、ええと、あー、あれをしなきゃね……晩御飯」
「いいよ、母さん。気にしないで」
「何言ってるの、誕生日なんだから! 今日で17よ。ねえ、見てよ。いつの間にこんなに成長したの?」
急に充血したヒルダの目に、涙が沸き上がってきた。この情緒不安定さは誰の手にもおえるものではなく、残念ながら放っておくしかない。ジョエルはやっぱり充血した目でノエルを見やり、緩く眉を持ち上げた。一体どこが成長したのか、教えてもらいたいと言いたげな顔だ。
「ここで息子と夕飯食うつもりか?」
「ええ、そうよ」
「ヒルダ、さっき俺とニックのとこに行くって行ったじゃねえか」
「あたしが?」
「そうだよ」
こんな状態で他愛ない会話の内容など覚えていられるはずもないだろう。ノエルはもう何を感じるでもなく、大きな赤ん坊が二人目の前に居ると思いこんで、優しく声をかけた。
「僕は良いから、せっかくだし行ってきなよ、母さん。今から料理したんじゃ遅いしさ。僕、アレックスと食べるから」
「でも、ノエル、あんた今日誕生日なのよ」
「去年もやったし来年だってやるだろ、毎年必ず一緒に過ごさなきゃいけないわけじゃないんだから。それに僕、もう17だよ?」
「よく言った、それでこそ大人の男だぜ。いい加減、ママのおっぱいからは卒業しないとな」
ジェイラスの手が服の上からヒルダの胸をいきなりわし掴んだ。すぐにヒルダはその手を払いのけたが、大麻のせいかあまり力が入っていない。男友達に下品な冗談を見せつけるような顔で笑いながらこちらを見やるジェイラスに、ノエルはなんの反応も出来なかった。こんなものを見せられて取り繕えるはずもない。殺してやりたいという強い思いが、頭の中で弾けたのだ。
その瞬間、皿の上に置かれていた全ての大麻が突如として炎を吹き上げた。あくまで皿の上での出来事であるからそれほど大きな火柱ではなかったものの、ぼうぼうと燃える音がしっかり聞こえ、ソファに座っていた二人は仰天して飛び上がった。
「おいクソ、なんだよ!」
口汚く罵りながら、ジェイラスは机の上にあった缶ビールの残りを皿の上へとぶちまける。あっけなく炎は消えたが、新たに生まれた濃い灰色の煙がもうもうとリビングの中にたちこめている。ジェイラスは窓を開けて煙を逃がしながら、忌々し気に咳き込んだ。彼は今の出来事を特に不思議がってはおらず、残っていた火種が引火して一気に燃えたとでも思っているようだった。
しかし、ヒルダは違った。彼女はノエルの母親なのだ。ヒルダは呆れたような怒り顔でノエルを睨み、かぶりを振った。ノエルがやった事を見抜いたようだ。けれど母親は気づいていなかった。ノエルが火を出したのは、今回が初めてだった事を。
ノエルが使える力は所謂念力とテレパシーであり、他の能力が飛び出た事は覚えている限りではない。だのにここに来て、17歳の誕生日と言うこの日に、新しいパワーを手に入れてしまった……発火の能力を。ノエルはその事実に、さっと顔色を変えた。
ものを燃やす事が出来るなんて今までの能力とは訳が違う。これは純粋な暴力だ。一歩間違えれば人の命を奪う結果に繋がってしまう。
……殺したいなんて思ったから……?
「しょうがねえな、もう行こうぜヒルダ」
ジェイラスは先ほどまでの上機嫌を煙諸共窓の外に逃がした様子で唸った。ヒルダは彼の後に続きつつ、途中でノエルの前に立つと形式的なハグを送った。
「夕飯は明日にしましょう、食べたかったらケーキも用意するから」
「ううん、要らないよ、ありがとう。夕飯だけで十分」
「寝室にプレゼントがあるから、後で見て。それと、机の上を掃除しておいて。あんたがやったんだからね」
怒っていると言うよりは秘密の共有を楽しむ子供のような口ぶりで、母親は自分のそれとよく似た息子のちょっと上向きの鼻を摘まむと、最後に頬にキスを送って出て行った。パタンと言う扉の閉まる音の余韻が消えると、後にはノエルと噎せ返るような大麻の匂いだけが部屋に取り残された。
ノエルは少しの間立ち尽くした後、机の上に形成された大麻の葉の破片が浮かぶビールの海を掃除し、寝室のベッドの上に置いてあったプレゼントを開けてみた。包まれていたのは香水だった。透き通った青色のボトルに入っていて、これが高いものなのか安いものなのかノエルには分からない。なにせ香水なんて生まれてこの方つけた事などないのだから。
ベッドに腰かけたままスプレーの噴射部分に鼻を近づけて、どんな香りがするのか嗅いでみた。
ジェイラスのようなにおいがした。
それからノエルはベッドに寝転がって、暗い自室でどうしたものかと天井を眺めながら考えた。すぐにアレックスの家に戻っては、母親とのディナーがキャンセルになったとバレてしまう。適当な冷凍庫の食品を食べて、テレビを見て、時間を潰してから戻れば良いだろうか。しかし、例え冷凍食品であっても料理をする気は微塵も起きてこない。近所のファストフード店で済ませてしまった方が楽かもしれない。
それにしても、母さんはちゃんと食事が出来る所に連れて行ってもらえただろうか。アレックスは熱中しすぎるあまり食事を忘れたりしていないだろうか。自分が一緒に居れば、彼らにちゃんと食事を摂らせることが出来るのに。
目をつむって色々考えるうちに眠気が少年の細い足首を掴んだ。と、突然ポケットの中でスマホが震え、ノエルの意識はふっと浮上した。のろのろとスマホを引っ張り出す。メッセージが一件……差出人はリサだった。
”お母さんとご飯中? 終わったらちょっと私の家に来れない? 誕生日プレゼント渡したいの”
リサは今朝、学校で姿を見かけた途端におめでとうを言ってくれた……それに、このメッセージと同じ事も。同じアパートの同じフロアに住んでいるのだから、わざわざ学校でプレゼントを渡す必要もないのだ。
一人きりの暗い部屋で、画面の光の中に浮かぶ無邪気な文字を暫く見つめていたノエルは、ようやくその暖かな申し出が自分へのものである事が実感できると、起き上がって家を出た。リサの家は角部屋だ。7メートルもない。
扉の前まで来たところで急にノエルは不安になり、スマホを取り出して自分の顔を確認した。目は緑だ。変なものはついていない。捨てられた子犬のような顔にもなっていない。全くいつも通りのノエル・マクマナスであると確信できてからようやく、彼は呼び鈴を鳴らした。
「はーい」
扉の奥から明るい声がして、まもなく扉が開かれた。リサは少し驚きつつも笑顔でノエルを見下ろした。
「わあ、早かったね。返事なかったからまだご飯食べてるのかと思った」
「あ、そうか、ごめんね」
いくら気心の知れた間柄とは言え、今から訪ねても良いか一言聞くべきであった。そんな気遣いも忘れてしまうほど、リサの誘いに縋ってしまったのだ。ノエルは慌てて謝ったが、リサは少しも怒った様子ではなかった。
「今持ってくる。ご飯もう食べたの?」
「うん」
笑顔も、嘘も、反射的でありながら完璧に自然なものだった。しかしそんな幼馴染を見つめてリサは少し黙り込んだ後、殊更優し気な笑みを浮かべた。
「……食べてないんでしょ? よかったらうちで食べてかない?」
「えっ。い、いや、なんで、大丈夫だよ」
「そんなにマリファナのにおいぷんぷんさせて、ご飯なんか食べてたわけないでしょ。貴方みたいに人の心が読めなくても嘘くらい分かるのよ」
これはぐうの音も出ない。ノエルは惨めさと恥かしさと、少しの物悲しさに襲われて口の端をひきつらせた。ここは貧困層の者が集まるアパートだ。ここに住む子供達がどれだけまっとうに生きようとしても、小学校に上がる前には大麻のにおいや怒声には慣れっこになってしまうのである。
ノエルが戸口でまごついている間に、リサは家の中の両親にノエルを招待しても構わないか聞き、二つ返事でオーケーをもらってしまった。すぐにリサそっくりの母親と、あんまり似ていない父親が彼女の後ろから現れた。
「ノエル! 来てくれて助かったわ、ガンボを作りすぎたのよ!」
二人の大人はノエルに纏わりついたにおいを露程も気にせず、半ば引きずり込むように小さな少年を家の中に招き入れた。
ロビンソン家の部屋はマクマナス家の古臭くて統一性のない部屋とは違い、住人を象徴するように暖かで家庭的で心地よかった。恐らくこのアパートの中で最も素敵な部屋だろう。
ミセスロビンソンとミスターロビンソンは、まるでノエルが元々来る予定であったかのように彼を食卓に案内し、あっという間に彼の前に食事を用意すると、四人の夕食を開始した。ロビンソン家の皿には半分ほどのガンボ。彼らを待たせるわけにはいかず、ノエルはいつもの倍のスピードでスプーンを口に運んだ。
「ねえ、ノエル。貴方今日誕生日なのよね! お誕生日おめでとう! 顔を見て言えてよかったわ!」
「それで、何歳になったんだ?」
「馬鹿なの、ハロルド! ノエルはリサと同い年なのよ!」
「分かってるよ、ただの冗談だろうが!」
「もう、二人ともやめてったら!」
両親はユーモアのある喧嘩をし、娘がそれを嗜める。まるで目の前でシットコムでも繰り広げられているような、非現実的なまでの家族愛を目の当たりにして、ノエルは彼らと自分の間に透明の壁があるような気分になった。否、きっとこれが”普通”の家族なのだろう。ただ自分には見慣れないだけで。
「ノエル、何か面白い事あった?」
ノエルの食べるスピードが空腹故でない事に気づいたミセスロビンソンが、それを指摘する代わりに話題を振った。ノエルは一瞬何を言うべきか躊躇った。彼らと共有できる話題があるだろうか。いいや、一つもなさそうだ。
「いいえ、特に何も」
ミスターロビンソンはよく動く眉毛を八の字に歪めた。
「ああ、ケーキでもあればよかったんだが」
「そんな! 気にしないでください、いきなりお邪魔したのは僕の方だし」
「誘ったのは私達だよ。と言うか、娘だな」
ノエルとリサはちらりと目配せしあい、小さく笑ってしまった。リサと目が合うと自然とにっこりしてしまうのがノエルはいつも不思議だった。彼女にも特殊な力があるのではと疑ってしまいそうになる。
ミスターロビンソンはそんな二人を満足げに見やって続けた。
「リサは本当によく君の話をするんだよ、他に友達が居ないんじゃないかって心配になるくらい」
「パパッ!」
リサの焦りようときたら凄かった。お尻は半分椅子から浮いていたし、声はひっくり返っていたし、恥かしさのあまりチョコレート色の頬が本当に溶けだしてしまうんじゃないかと思ったほどだ。妻に怒られても、ミスターロビンソンは何も悪い事は言っていないという態度だった。
「貴方はもう一言も喋らないで! 二人は17歳なのよ!」
「そんなの知ってるよ。若者なんだから、青春を楽しんだらいいさ。ノエルは良い子だし、小さい頃なんかは二人して……」
「パパ、私がここに座り続ける理由が一つでもあるなら言ってみてよ」
「あるよ」
いい加減、友人として……人生で一番長い時間を過ごしてきた幼馴染として、ノエルはリサを助けねばなるまい。一触即発の彼女に、ノエルはおどけた調子で言った。
「まだガンボが残ってる」
ペースを落としたことにより、ノエルはようやくちょっとお米が柔らかすぎるガンボの味に舌鼓が打てるようになっていた。
複数人で食卓を囲むのはノエルにとって随分と久しぶりの事だった。四人は全てを平らげると暖かいお茶を飲んで一息ついた。それからリサはノエルを自室に呼び……17歳の女の子の部屋。シンプルで自然のぬくもりが残るものが多い洗練された印象だが、壁紙が子供時代のまま、たくさんのハートで覆われている部屋。嗅ぎなれない良い匂いがする部屋……そこで当初の目的であったプレゼントを手渡した。合皮で出来た茶色の財布だった。
「今の財布、もうボロボロでしょ?」
「なんで知ってるの?」
「こないだ、自販機でお菓子買ってる時に見えたの」
確かに、今のノエルの財布は小学生の時から使っている、スーパーで投げ売りされていたポリエステルの安物だ。チャックはしまりづらいし、ほつれた糸が飛び出している。ノエルははにかみながらお礼を言った。リサはノエルが必要なものがなんなのか誰よりも分かってくれている。それが形として目の前に存在するのが、たまらなく嬉しく、恥ずかしかった。
不意にリサが口を開いた。
「ねえ、まだ時間平気?」
時刻は七時過ぎ。後一時間はアレックスの家に行かなくても良いだろう。それどころか、二時間後でも三時間後でも構わない。地下に潜って研究に没頭するアレックスには、ノエルの帰宅時間など関係のない事だ。
「うん、平気だけど」
「散歩しない?」
「散歩? でも、夜だよ?」
「二人なら危なくないでしょ?」
悪戯っぽくそう言うリサの柔らかな笑顔に、ノエルは心臓が縮こまるのを感じた。幸いにも顔が赤くなったりはしなかったが、突然、頭を抱えて叫び出したい気分になった。
リサは両親に声をかけ、近くを散歩してくると告げた。地域が地域だけに少々渋い顔をされたが、家の近く、人通りがあるところ限定の条件で彼らはノエルとリサを送り出してくれた。治安は悪いが、ここは彼らの地元なのだ。歩き方は分かっている。
外は明るく賑やかで、涼しい夜風が吹いて気持ちが良かった。どちらからともなく歩き出し、さてどこへ向かおうとノエルが思ったのもつかの間、リサがついてこいと言った。行きたい場所があるようだ。これがリサ以外の人であればノエルを路地裏のドラッグパーティに引きずり込むのではと警戒するところだが、彼女は別だ。善人である。
リサの後に続いて大通りを一本奥に入り、住宅地のさほど広くない路地を歩いていくうちに彼女がどこに向かおうとしているのか分かった。それはノエルとリサが生まれた時から住人の居ない一軒家で、最早廃墟の称号を与えられても良いだろう程に朽ちた、子供達御用達の”呪われた家”であった。ただし、呪いは存在しない。ここでは人どころか犬だって死んだことはない。ただ子供達がそう呼びたいから呼んでいるだけだ。
二人も勿論、小学生の時分にはこのお化け屋敷に不法侵入し、うんと探検を楽しんだものだ。最後に人が住んでいたのがいつなのかは知らないが、その家族が住んでいた痕跡はまだ残っており、一家の子供が持っていたのだろう人形を見つけては、呪われているだのとはしゃいでいた。
ああ、それに。ノエルは落書きだらけの扉を押し開けて中に入るリサに続きながら、ぼんやりと意識の中で過去の亡霊を追った。ノエルとリサはここで一つ、秘密の事故を起こしていた。その事故こそが二人の絆を決定的な物にしたせいで、それは恐ろしい記憶でありながら、幼い頃食べたチェリーパイの安っぽい甘酸っぱさを不意に思い出すような、どこか抗い難い甘美さをノエルに覚えさせる。つまり彼は、それを良い思い出の引き出しにしまっていたのだ。
「久しぶりに来たね」
リサはスマートフォンのライトで家の中を照らしながら場違いな程に明るい声でそう言い、そのままずんずんと勝手知ったる様子で地下室に続く扉を開いた。そう、ここだ。ノエルは静かにかび臭い空気を吸い込んだ。地下室こそがその現場だ。
地下に続く木製の階段は、不良どもと両手の指では足りない歳月にさんざん踏みつけられていたにも関わらず、酷い軋み音でこれ以上働かせるんじゃないと抗議するだけで、踏んだ瞬間腐り落ちて二人の足に食らいつくような真似はしなかった。
とは言え、いつ自らの空腹に気が付くか分かったものではない。慎重に階段を下り切ると、ホコリに覆われたガラクタが所狭しと並べられた隅にある剥き出しの井戸に二人はつま先を向けた。この家よりも古くからあるように見える石造りの井戸はもう枯れてはいたが、蓋もされないままに、餌を求める鯉さながらその空虚な口をぽっかり天井に向けて開けている。
「……これ絶対危ないよね。蓋とかして封鎖した方が良いよ」
「そうだね、結構大きい井戸なのに」
「どっちが先に落ちたんだっけ?」
ノエルはそれをはっきり覚えていたが、恥ずかしくて答える事はなかった。
七歳の夏だった。三度目の探検で地下室の井戸を見つけた時、興奮して身を乗り出したノエルはこの枯れ井戸の中に落ちた。それを助けようと手を伸ばしたリサもバランスを崩し、結局二人して約三メートル下の地面に激突する羽目になったのだ。全てはノエルのせいなのである。
リサがふとノエルを見やり、にんまりとチェシャ猫のように笑ってみせた。
「ねえ、中に入ろうよ」
「えっ、だ、駄目だよ、危ない!」
「大丈夫だよ、中に何も危ないものなんかなかったでしょ! ほら、私から入れて!」
両手を広げて準備は万端だと言わんばかりのリサ。ノエルは困り果て暫く唸っていたが、やがて折れ、仕方なく意識を集中させた。人を浮かせるのはまだ不安がある。ゆっくり、そうっと、慎重に……地面から足が離れた瞬間リサが楽しそうな声をあげたが、ノエルは努めて間違いが起きないよう集中し続けた。
厚さ一ミリのガラス板を移動させるような繊細さでゆっくりゆっくりリサを井戸の底に下ろすと、自分でもびっくりするほど汗をかいていた。力を使ったせいではない。緊張のせいだ。
「すごい、完璧ね、ええと、サイコ……キネシス? だったっけ。それのプロだわ!」
「そんな事ないよ……」
「疲れたりしてない? 貴方も来れそう?」
「待って、すぐ行くから」
自分を運ぶならそこまで気を遣う必要はない、ノエルは厚さ一ミリのガラス板じゃないのだから。ただし、自分で自分を浮かせるというのは少し難しい芸当だった。意識の持っていき場や感覚が、自分以外のものとは違うせいである。足の裏にだけ集中すればひっくり返るし、体全体では上手くいかない。お腹に長い針が刺さったようなイメージで意識を集中させると、比較的バランスが上手くとれると気づいたのはつい最近の事だった。
ノエルはふらついて井戸の壁を何度か擦りながら、リサの横へと着地した。井戸の中は水こそ枯れているものの湿っぽく、カビと土の匂いが充満している。上を見上げれば遥か頭上に井戸の口が開いていて、三メートルとは思えない程遠くに感じられた。
「ねえ、ほら」
不意にリサは嬉しそうな声音でノエルを呼び、しゃがみ込んで石壁の一部を指さした。彼女がそこに携帯のライトを向けると、風化されてはいるがかろうじて読める文字が彫りこまれているのが確認できる。NとL……二人の名前だ。
「うわ、まだ残ってたんだ」
それは、助けを待つ間に恐怖と不安で押しつぶされそうになった二人の子供が、どうにか気を紛らわせようとした結果の産物であった。しかし、地面に転がっていた石で壁を削るのは中々骨が折れる作業であったため、アルファベットを一文字彫った時点でもうやめてしまったのだ。
「他に何も彫られてないし、落書きもないし、よじ登ろうとした血の跡と剥がれた爪もない。つまり、この井戸に落ちた間抜けな子供は私達だけって事ね」
「他に誰も居ないから、まだ開きっぱなしなんだよ」
「それもそうか」
暫く井戸の中を観察した後、リサが平然とその場に腰を下ろしたので、ノエルもそれに従った。勿論枯れ井戸の底の湿った土に座ったらジーンズがどんな被害を被るか想像できなかった訳ではないのだが、女の子のリサが座ったのに男の自分が汚れを気にして立っているのは忍びない。
二人は柔らかい土に並んで座ったまま耳をそばだて、何か音がするだろうかと息を殺してみた。期待していたわけではなかったが、家の中はどこもかしこも夜のしじまがみなぎっていて、肝試しに来た子供の足音も、鼠がコソコソ走り回る音も、勿論、存在しない”父親に殺された子供の幽霊”の泣き声も聞こえない。二人の耳には二人の息遣いだけが聞こえた。
と、突然リサが小さな笑いの吐息を漏らした。
「あの時、もっと早くここから出れば良かったのに」
彼女の声に責める調子はまるでなく、むしろそれは失態を笑い話にする事でその人の恥をも笑い飛ばそうとしているようだった。それでもノエルはバツが悪そうに首をすくめた。
「力の事、誰にも言うなって言われてたんだよ」
「お母さんから?」
「アレックスからも」
「でも最後には力を使って助けてくれた」
「そうしなきゃ死んでたかもしれないだろ、こんな所まで探しに来てくれる人なんか居ないんだから」
結果から言って二人がこの井戸の中に閉じ込められていたのは三時間なのだが、七歳の子供達には丸一日のように長く感じられた。何せ二人とも落ちた衝撃で体中痛かったし、地下とは言え真夏の気温が体力と気力をどんどん奪っていくし、どれだけ大声を出したところで何の返事も得られなかったのだ。
泣いたせいで喉はカラカラ。お腹もすいて、外はすっかり暗くなっている。親はそのうち自分達が帰ってこないのを心配し探し始めるだろうが、ここを発見してもらえる可能性が高いとは思えない。そもそも、よく探検にくる悪戯っ子ならまだしも、大人達はこの家の地下に井戸があるなんて知らないだろう。
ノエルはギリギリまで母とアレックスの言いつけを守っていたが、弱り果てたリサがもう泣かなくなってしまうと、守るべきなのは言いつけより彼女だと気が付いてとうとう生まれて初めて他人の前で能力を使う事を決意した。その頃はまだコントロールもろくに出来なかったのだが、火事場の馬鹿力的な幸運に恵まれ、二人はどうにか脱出する事に成功したのだった。
さて、この尋常ではないカミングアウトに、けれどもリサは冷静だった。もしかしたら疲労困憊で驚く気力もなかったのかもしれない。ただノエルに心からのお礼を述べ、二人は呪われた家を探検中に階段から落ちたと口裏を合わせて帰宅した。親からは、後三十分で帰ってこなかったら警察を呼んでいたと大目玉を食らったけれど、とにかく二人はそのようにして帰還を果たしたのだ。
こうして二人の事故は秘密のまま、あの井戸に子供が落ちたという事実も秘密のまま、そしてノエルの能力の事も秘密のままに、二人の信頼関係が確固たるものになったのである。
二人は何も言わなかったが、これらの思い出を少しばかり楽しみながらそれぞれ思い返していた。ノエルにとってそうであるように、リサにとってもまた、これは良い思い出なのである。
ノエルが僅かに身じろぎすると、靴裏が石を擦り静かな空間では大きすぎるほどの音を立てた。
「もしもあの時」
その音に誘われたようにリサが口を開いた。
「私達が井戸に落っこちてなかったら、ずっと私に言わないつもりだったの?」
今度は、少し責める調子が含まれていた。
ノエルはすぐには返事をせず、彼女の真剣な声音に報いようと真剣に思考を巡らせてみた。リサはその間、何を言われても傷つくまいと覚悟でも決めているように口をきゅっと結び、黙って暗闇に沈む井戸の壁を見つめている。いくつものシミュレーションを頭で描いた後、ノエルは消え入りそうな声で呟いた。
「……言わなかったと思う」
微かにリサが息を吸い込んだ音が聞こえ、ノエルは自分の言葉の余韻と一緒に消えてしまいたくなった。
「別に君を信頼してないとか、そう言うんじゃないよ。ただ、僕の周りって結構面倒な事が起きるから、それに巻き込みたくないんだ……君が思ってる以上に、僕の生活って……普通じゃないから」
「貴方の生活が普通じゃなくても、貴方自身は普通の子よ」
ノエルが弾かれたようにリサの方を見た瞬間、地面についていたノエルの手にリサの手が重なった。ぎょっとするほど柔らかく、温かい手だった。
「なんでも私に話してよ。でないと、寂しいじゃない」
「…………ごめん」
ひっくり返った声で謝るノエルに、リサは暗い井戸の中でも分かる程眩しい笑顔を見せると、身を傾いで彼の肩にしなだれかかった。リサの方が背が高いのでしなだれかかると言うよりはほとんど寄りかかったと言った方が良いのだが、ノエルには突如密着した左腕が燃え上がるように感じられた。
リサからは井戸中のどんな匂いをも凌駕する甘くていい匂いがした。ノエルは冷静になる為にそれをシャンプーの匂いだと思い込み、どの銘柄だろうと知っているシャンプーのメーカーを片っ端から呪文のように胸中で唱え始める。ああ、先ほどまで心地よかった静寂が今は憎らしい。今わの際のカエルのように暴れまくるノエルの心音がリサに聞こえているに違いない。
「……そう言えば僕、火が出せるようになったよ」
「手から?」
「ううん、念じると物が勝手に燃えるんだ、多分」
「へえ、かっこいいね」
「……かもね」
二人は暫くそのままの状態で身動きもせず、二人だけの世界を堪能した。生命の気配をまるで感じさせない静けさのせいで、最早この世の人類は自分達以外消滅してしまったような錯覚を覚える。この井戸を出ると全ては滅びており、この世にはノエルとリサの二人きりになっているのだ。まるでアダムとイブのように。
それはそれで良いのかもしれない。ノエルは少しずつ体の力を抜きながら考えた。それが現実になれば、自分は全ての悩みから解放されるだろう。最早苦しみはなく……嗚呼、けれど、平穏こそあれ、心を震わせるような喜びもない世界。だって良くも悪くも劇的な感情を自分に与えてくれるのは、たった一人しか居ないとノエルは知っているのだから。
「……ねえ」
存外甘えた声でリサが言った。ノエルは自分の考えを見透かされたような気がしてギクリと僅かに身じろぐ。
「な、なに……?」
「プロムは私と行ってくれない?」
「プロム? 僕ら二年生だよ?」
「そう、だから来年の話。だって早めに予約しておかないと、来てくれそうにないんだもん」
「来年の事なんか分からないよ! 進路だってまだ決まってないのに」
「分かるわよ、一緒にプロムに行くの! 他の人に誘われても断ってね、私が一番に貴方を誘ったんだから」
「……僕、踊れない」
「私がリードする」
こんな調子で二人は、会話をしては黙り、黙ってはまた話し出すを繰り返して過ごした。重なった手はもう何も感じない程になっていたが、ノエルの掌が触れている地面は少年の手汗を吸って湿り気を帯び始めている。彼らは時に悪友のように、時にはほとんど恋人同士のように会話をし、尚且つそれをしっかりと自覚してもいた。
気が付くと夜もだいぶ更けてきていたが、二人はまだそこから立ち上がれずに他愛ないお喋りを続けて「そろそろ……」とどちらかが言い出さないように互いをけん制し合っていた。ノエルにはリサがまだ帰りたくないと思っているのが読めているし、リサもノエルの様子でそれは察している。
時間を食いつぶしていく焦燥感を二人がかりで黙らせながらするお喋りは、これ以上ないほど無意味で、これ以上ないほど心地いいものだ。時間が許す限り、リサの両親がもう二度とノエルには会わせんと激怒しないギリギリの時間まで。携帯で時計を見つつ、二人が名残惜し気にぐずぐずといつまでも座り込んでいるうちに、気づけば一時間以上が経過していた。
二人が幼い頃一緒に見たテレビの人形劇がどれほど不気味だったかを話をしている時、不意に頭上から物音が聞こえた。二人はハッと息をのみ口を噤む。それはどうやら扉が開いた音で、すぐにくぐもった足音が続いた。誰かがこの呪いの家に侵入してきたのだ。
ギシギシと床を踏みしめる足音はよどみなく、明確な目的をもって移動していた。と、再び扉の開く音。先ほどよりもその音が明瞭に聞こえた理由は、他でもないこの地下室の扉が開かれたからであった。例の階段が悲鳴を上げ、闖入者が地下に下りて来るのをノエルとリサに警告している。
二人は無言で素早く目配せをした。一瞬肝試しに来た子供かと思ったが、足音が一つである事を考えるとその可能性は低そうだ。では雨風をしのげる寝床を求めた浮浪者か? それなら何故一直線に地下室になんか下りて来る? まるで二人が居るのを分かっているような動きじゃないか。
そしてどうやらこの人物は、本当に二人が居るのを分かっているようだった。階段を下りきり靴底がアスファルトの床を叩く音は、間違いなく井戸の方へ向かってきている。ノエルは静かに腰をあげ、狭い井戸の中で可能な限りリサを自分の後ろへと隠した。
足音は井戸の淵まで来ると止まった。ノエルは重心を落とし、びっくり箱から飛び出そうとしているピエロの人形のように機会を伺う。頭上で何かが閃いた。と思った瞬間、光が……恐らく懐中電灯のもの……井戸の淵を這って壁を伝い、そのまま底の二人をスポットライトのように照らし出した。
「おい、冗談だろ」
眩い白の閃光に視力を奪われ、自分達を覗き込む者の顔は見えなかったのだが、上から降ってきたその声には嫌という程聞き覚えがあった。ノエルは目がチカチカするのも気にせず懐中電灯とその先を見上げた。
「ア、アレックス!?」
アレックスは懐中電灯の光を脇にずらし、二人に自分の顔が見えるようにした。ただでさえ人相の悪い彼が井戸の上から見下ろしてくる様は、この家に新たな呪いの歴史を刻まんとする殺人鬼然としているが、幸いにもその手に握られているのは斧ではなく懐中電灯である。ノエルとリサはお互いの驚いた顔を見、それから再び上を見た。
「そこで何してるの?」
「お前がそれを言うのか? 本気で? ガールフレンドにくだらん手品を見せびらかしたくて、わざわざ汚い廃墟の汚い枯れ井戸の中に入ったわけか?」
「ちょっと話してただけだよ」
「そんなに自慢したいならもう一回やって上がってこい。さあ、今すぐ!」
苛立ちを隠しもせずそう言ったアレックスが視界から消えると、二人はまた目を合わせバツの悪そうに肩をすくめる。言われた通りノエルがまずリサを、それから自分を浮かせて井戸から出て来ると、これ見よがしに腕を組んだアレックスが仁王立ちをして子供達を待ち構えていた。
「それで?」
「それでって?」
「言う事はないのか」
「ないよ」
間髪入れずにアレックスはノエルの頭を平手ではたいた。暴力に慣れていないリサが怯えてひゅっと息をのんだのに気づいたノエルは、慌てて間抜けな程に大げさな痛がり方をして彼女を安心させようと試みる。これはいつものコミュニケーションで、ガサツな男同士の挨拶みたいなもんだ、君が考えているようなものではないんだよ、と。
「イッタア! もう、ぶたないでよ! 話してただけだってば!」
「いいか!」
アレックスは節くれだった人差し指を突き付け口を大きく開けたが、一瞬の逡巡の後にその大きさを半分にした。と言うのも、アレックスが説教をしようとした内容はリサの知らぬ事だったのだ。彼女はノエルの親友で超能力の事こそ知っているが、ノエルが既に数えきれない死を経験しているなんて事は夢にも思っていないだろう。
もしここで「人より何倍も死にやすいお前がこんな危険な所をふらついて、もし井戸の中で死んだら残されたリサはここから出られなくなるんだぞ! よしんば死んでも俺が過去に戻ってなかった事にしてくれるなんて思ってるなら、無責任も程がある!」と勢いに任せて怒鳴りつけたなら、リサは五歳の子供よりしつこくその言葉の意味を訊ねて来るだろう。それに、責任について説く資格が自分にはないという自覚もある事だし。
だからアレックスは努めて冷静になり、唸るように子供達を脅しつけた。
「どっちのアイディアか知らんが、17にもなってこんな真似、恥ずかしいとは思わんのか! もう良い歳なんだから、危険な事とそうじゃない事の区別くらいつくだろ! こんな事で俺を煩わせるな、やる事があるってのに!」
「そもそも、なんでここに居るんだよ。どうしここだって分かったの?」
「半径三十センチ以上の動きが一時間以上見られない場合通知がくるようになってる」
吐き捨てるようにそう言うとアレックスは踵を返し地下室から出て行ってしまった。なるほど、アレックスはノエルがまた死んだのだと思ってここまで来たのだろう。ノエルはリサに可能な限り”なんて事ない”印象を与えられるよう、不必要なまでにおどけた顔で舌を出して見せた。
「ごめんね、あの人過保護なんだ」
「ううん、私が言い出したことなのにごめん」
「そんな事ないよ! 僕も君と一緒に……」
ノエルは自分の瞳孔が広がるのを感じた。
「……居たかったし」
頭と頬がカッと熱くなり、自分が何を言おうとしてるか自覚した時にはもう止まれなかった。全てを言い終えたノエルは井戸の中にもう一度飛び込んでしまいたい衝動に駆られたが、それより先にリサが嬉しそうに微笑んで手を握ってくれたので、未遂で済む事が出来た。
「帰ろうか」
「う、うん……」
家の中に戻ると玄関のドアが開いていてアレックスはもう居なかった。二人はドアの近くまで手を繋いでいたが、そこをくぐる時にすっとノエルの方から離れていった。リサは何も言わなかった。恐らく、アレックスにからかわれるのが嫌だと思ったのだろう。でも本当は、そんな無邪気な理由で手を離したわけでは無い。
アレックスは子供達に車に乗るように命令すると、そのままわき目もふらずアパートへと帰宅した。幸いにも彼女の両親は遅くなった事は許してくれたが、二人のお尻が土で汚れているのには柔らかい注意を頂戴してしまった。仕方ない、リサのズボンの汚れをとるのは母親の役目なのだから。
ノエルとリサは扉が閉まり切るその瞬間まで視線を絡ませ、名残惜し気に微笑みあって別れた。今日の出来事が十年前のそれと同じように良い思い出になるだろうと、無言のままに確かめ合いでもしたような時間であった。
こうしてようやくリサと別れたノエルは、さてアレックスと家に帰ろうと振り返った。しかし、先ほどまで後ろに立っていたはずの彼の姿が見当たらない。声をかけながら数歩進んで、ノエルは突然彼がどこに居るのかを悟り冷や水を浴びせられたようにぞっとした。
自分の部屋の扉が開いている。アレックスはマクマナス家の合鍵を持っている。彼は、暖かく愛に溢れた母子のバースデーディナーが行われた痕跡のかけらもない暗く冷たい部屋に入ってしまったのだ。
ノエルは声も出せずに戸口に立ち尽くし、キッチン兼ダイニングで何も載っていないテーブルを見下ろすアレックスの背中を見つめる事しかできなかった。暫く鋭い沈黙が二人をその場に釘付けにしたが、ややあってアレックスは振り返った。頭の中を覗く必要もなく、怒っているのは一目瞭然だった。
「今度こそ何か言う事があるんじゃないのか」
低い声に心臓を鷲掴まれながら、ノエルはひりつく喉から何とか言葉と呼べる音をひねり出す。
「ちゃ、ちゃんと、夕飯は食べたから……」
「なんだ、マクドナルドでも食ってきたのか?」
「リサの家で……夕飯に招待してもらって……」
「お前の母親はどこに居る」
言いながらアレックスは何の遠慮もなくキッチンのゴミ箱を覗き込んだ。ビールでぐしょぐしょに塗れたティッシュには明らかに煙草の葉ではないものがこびりつき、不快なにおいを立ち昇らせている。ノエルはアレックスがそれを見つけた瞬間、彼が全てを理解してしまった事を悟って諦めが体中の筋肉を緩ませるのを感じた。
アレックスは振り返り、大股でノエルへと近づいてきた。普段は明るい青の瞳の中に、真っ赤な怒りの炎がごうごうと燃え盛っている幻が見える。突き飛ばすようにノエルの肩を押して場所をあけさせると、ドアの施錠をしてから少年の細い腕を掴み、ほとんど引きずるように歩き出した。
腕が痛いと何度か訴えたものの、激昂ているアレックスには何の意味もない。彼は一言も喋らずノエルを車に押し込み、けれどもその怒りがありありと浮かぶ乱暴な運転で家へと向かった。何かにつけて怒鳴り散らす彼が黙りこくる時は、本気で怒っている証拠であった。
けれどこんな状況にありながら、助手席で縮こまるノエルは少しだけ喜びを感じていた。アレックスは自分の為に怒ってくれているのだ。その矛先が大切な母親であるのが忍びないが、自分の為に誰かが怒ってくれると言うある種の安らぎめいた充足感を与えらる機会は滅多にない。ひねた幸せと自覚しつつも、ノエルは自分の気持ちに嘘はつけなかった。
家に着くなりアレックスはノエルを置いて自室に引っ込み、すぐに一枚の紙を持って出て来ると有無を言わさぬ調子でノエルに詰め寄った。
「お前の、アバズレな母親は、どこに居るんだ」
「そ、」
そんな呼び方は例えアレックスであっても許さない。ノエルがそう叫ぼうとした時、少年の緑の瞳はアレックスの手に握られた書類の文章を掠めてしまった。ノエルは我が目を疑った。それは、養子縁組の書類だったのだ。
アレックスは急にノエルの視線が自分の手元に釘付けになったのに気づくと、最早隠すことも無くそれをノエルの鼻先に突き付けた。
「今までさんざん我慢してきたが、今日と言う今日はこれにサインさせるからな」
「待っ、て、待って、待ってよ! 何馬鹿な事言ってるの、僕を息子にするつもり!?」
「お前の母親はクソったれだ!」
唾を飛ばしながらアレックスは叫んだ。
「息子をほったらかしてクスリ漬けで男と遊びに行ったんだろう、他でもない実の息子の誕生日に! 相手は誰だ、どうせこないだお前を殴ったジャンキーだろ! 息子に手を挙げる男を見限らない母親がどこに居る!」
「母さんには母さんの人生があるんだ、ほっといてよ!」
「お前だって分かってるんだろう、あいつは母親失格だって!」
「母さんは僕の母親だ、何があってもそれは変わらない!」
「お前を股からひり出した以外でどんな親らしい事をしたか言ってみろ! 血が繋がってるんだから情が湧くのは仕方ないが、一回冷静になって自分が何をされたのか客観的に思い返せ! 確かにあいつはお前の母親で、それは変えられない。だからっていつまでも縛られる必要はないんだ、お前は血を分けた実の母親を見捨てたってかまわない! お前の母親はとっくの昔にお前を見捨ててるんだからな!」
「そんな事ないっ!」
ノエルが吠えた瞬間、握られていた書類が突然豪快な炎を吹き上げてアレックスの手の中で燃え上がった。全く予想外の出来事にアレックスは仰天して悲鳴をあげ、大急ぎで書類を手放すと靴底で何度も踏みつけて消火にあたる。一体何が起きたのかと驚いたのも束の間、睨みつけて来るノエルの瞳が真っ赤に染まっているのに気が付いて、アレックスは全てを理解した。
「お前、物を燃やせるようになったのか?」
「そうだよ、だから何枚書類を持ってきても全部燃やしてやる!」
「まったく、お前は次から次へとトラブルばかり!」
「どっちが! 養子縁組なんて気が狂ってるとしか思えないよ、あんたが父親なんて絶対に嫌だ!」
「法律上親子関係になるだけで今までと何も変わらん、パパと呼べと言うとでも思ったのか? お前が俺の戸籍に入れば、何かあった時に手続きが楽になるんだよ! 俺が死んだらこの家ごと遺産もそっくりやれる」
「死ぬのは僕の方だろ! あ、あんたは、あんたは死なない、絶対に! それに、それに、母さんは僕を見捨ててない、愛してるんだ、僕だって母さんを愛してるし、それに……!」
アレックスは頭こそ良いが、まだ17歳の――それも今日17歳になったばかりのティーンエイジャーの心がどれほど脆いかをすぐ忘れてしまう大人だった。いくら豪快に噛みついてきたところで、17歳の精神はいきなり風船のようにはじけ飛ぶ。決定打になったのは、母親への暴言ではなくアレックスがアレックス自身の死を持ち出したせいだった。
ノエルにとってアレックスがどれほど大きな存在かノエル自身でさえまだ把握しきれていないと言うのに、当の本人が自分が去ってしまった後のやたらに具体的な話をしたのだ。傷つくのは当たり前である。母親はジェイラスと一緒にノエルを置いて行ってしまった。優しいリサもここには居ない。この期に及んでアレックスまで自分の前から居なくなる話をするなんて、もう耐えられなかった。
「今日は誕生日なのに……っ!」
両手で顔を覆いはしたが、情けない声の震えで泣き出してしまったのはバレバレだった。ここまで打ちのめされて尚、理性を失って目につくもの全てに当たり散らさなかっただけ、ノエルは偉いというものだ。殺しきれない嗚咽が聞こえてくると、アレックスの怒りはバケツで水をかけられた焚火のようにすっかり鎮火されてしまった。
「……ああ、そうだな」
ため息と共に静かな声でそう言うと、アレックスはノエル前で膝をつく。泣き顔など見られたくなくて少年は顔をあげなかったが、アレックスは気にせず、自分が出来る最大限に愛情を込めた手つきでノエルの二の腕を撫でた。かなりぎこちなかったが、彼は間違いなく最善を尽くしていた。
「誕生日おめでとう、ノエル」
「…………ありがとう」
「良い誕生日だったか?」
まさかの質問にノエルは思わず笑ってしまい、涙をぬぐいながら顔をあげた。
「悪くはなかったよ」
「そうか。童貞卒業を邪魔されなきゃもっと良い日になったろうが、あんな汚い所でヤるもんじゃないぞ。感染症になる。女の体はデリケートなんだ」
「は、ち、違う、そんなんじゃない! 話してただけだってば!」
「リサは良い子だ、大切にしろよ」
せっかく一瞬温かくなった心がまた凍えてしまった。まるで父親の助言めいた事を言うアレックスに、ノエルは苦し気な表情を浮かべて歯を食いしばる。アレックスからは、アレックスからだけは、リサの話を聞きたくなかった。彼はノエルの青春を応援をすべき人物ではない。否、唯一してはいけない人物とさえ言える。
アレックスはノエルの表情に気が付いたが、ちらりと見ただけで何も言わず背を向け、冷蔵庫を漁り出した。またきっと愛だのなんだの言いだすに違いないと思ったのだ。何を言われたところでアレックスはノエルを突き放す以外の選択肢を持っていない。会話をして傷ついたり消耗したりするだけ無駄である。
「……さっきの書類」
唸るようにノエルが言った。
「養子縁組は絶対にしないけど、婚姻届けにだったらいくらでもサインするよ」
「ハア!?」
素っ頓狂な声をあげてアレックスは振り返った。ノエルはまるでいじめっ子と勇猛果敢に対峙しているような毅然とした態度で、その場に両足で踏ん張っている。少年は続けた。
「配偶者なら何かあった時の手続きも楽だし遺産も受け取れる。養子縁組と一緒だろ」
「気でも狂ったのか、全く別物だろうが! お前は、何を馬鹿な……リサはどうなる!」
「リサと付き合う気はないよ、僕は彼女を幸せに出来ない」
「なんだそりゃ、スパイダーマンの引用か?」
「考えなくても分かるだろ、僕は普通じゃない! 誰と一緒になったって、幸せに出来ないんだよ」
「そうかい、俺は幸せにしなくてもいいから結婚したいって?」
「そうだよ!」
アレックスは目を丸くして固まった。ノエルは真っ向からアレックスを見据え、目尻に湧き上がってきた涙がこれ以上こぼれないように必死に目を見開くと、声が震えないようにはっきりと言った。
「一緒に不幸になっても良いと思えるのはあんただけだ」
二人はそれきり頭が真っ白になってしまい動けなかった。何やら目の前で一つの命の終わりでも目撃したような衝撃が全身を強張らせ、その余韻が消えるまでは筋肉の一つはおろか脳細胞の一つさえ動かす事も叶わない。ようやく体が瞬きと言う動作を思い出すと、油の差し忘れたロボットのような動きでアレックスが冷蔵庫の扉を閉めた。
「今日は……今日は、お前の誕生日だ」
カラカラに乾いた声で言う。
「面倒な話は無しにしよう、誕生日だ、ノエル、誕生日なんだ」
最早それは提案と言うより懇願に近いものだった。ノエルはアレックスが十も老け込んだように見え、この哀れな老人がいきなりぶっ倒れてしまうのではと不憫になりその要求を呑むことにした。どちらにせよ、言い合いには着地点が必要である。これがそうなのだ。
「……そうだね。部屋に戻るよ、アレックスは自分の仕事を続けて」
「ああ、俺は地下に行く……。待て、そうだノエル、プレゼントがある」
「え、忘れてなかったの?」
「忘れるわけないだろ、なんでそう思った? 新しいマシンが来たからか? 俺の元カノから電話が来たからか?」
「それに母さんと夕飯食べるって言っても怒らなかったから」
「ああ……お前はもう17だし、いい加減意見は尊重しようと思ってな。例えどれだけ間違ったアホらしい意見でも」
「ええと、ありがとう……」
白衣のポケットから手のひら大の箱を取り出したアレックスは、それをノエルに手渡した。箱にはハミルトンとブランド名が記されており、見るからに高級感が漂っている。恐る恐る開けてみると、中にはピカピカの腕時計が収まっていた。
「お前もそろそろ一本くらいまともな腕時計が要るだろう?」
曇り一つないシルバーのベルト。まろい三角形を横にした独特のデザインが特徴的なケースの中で誇らしげに時を刻む矢のような秒針。黒地のダイヤルには数字の代わりに銀色のドットが配置され、中央を横切る尖ったウェーブの模様も、全体的なフォルムも、SF映画に出て来る未来のアイテムのようにかっこいい。
ハミルトン社の腕時計ベンチュラ。それが、アレックスからの誕生日プレゼントだった。
「ア、ア、アレックス、駄目だよ、こんな、高いの……!」
「良いからつべこべ言わず受け取れ。その代わり来年の誕生日プレゼントはつまようじだぞ」
「あ、ありがとう、大切にするから……!」
ようやくノエルは、今日初めて心からの笑顔をアレックスの前にさらした。そうしてそれこそが、この偏屈な老人が望んでいたものであった。アレックスは乱暴にノエルの頭を撫でて、家の奥へと押しやった。
「明日も学校だろう、さっさとシャワーを浴びて寝ろ」
「アレックスも夜更かししすぎないでね」
家の奥に入っていく小さな背中を見送ると、アレックスはエレベーターで地下に下りていき、中途半端にセッティングがされたまま放置されている機材に向き直った。さっさと終わらせて試運転にこぎつけたいと言う思いはあるのに、アレックスはその場に突っ立ったまま、ぼうっとそれらを眺めて動こうとはしない。
おかしい。さっきまであれほど自分を夢中にさせていた最新鋭の機械たちが、今はただの大きなプラスチックの塊か何かに見える。アレックスは一度意を決してタッチパネルに指を置いたのだが、結局すぐに手を下ろしてしまった。いくら説明文を読んでも全く頭に入ってこないのだ。
彼は早々に白旗をあげ、手近な椅子にどっかり座り込むと物で溢れたデスクに上半身を伏せた。もう何もする気が起きない。頭の中を回るのはただ、先ほどのノエルの言葉ばかり。
”一緒に不幸になっても良いと思えるのはあんただけだ”
惨めなアレックスの掠れた呟きは、地下の研究室の中を惨めたらしくいつまでも漂い続けた。
「ああ、畜生、なんて事言いやがる、クソガキめ……」