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グレゴリーの災難な一日

 


 お決まりのパターンてやつね。

 


 学校のベルの音が鳴ると同時に、子供達は我先に食堂へと移動し始めた。ここはノースリバーという町にある小学校、ノースリバー第一小学校。第二は無いのに第一小学校。

 アニタとブルースも含めたノースリバーの子供達は全員この小学校に通っていたし、生まれてからずっとこの町にいる大人も全員この小学校の卒業生だ。

 そんな伝統のある小学校に、死神のグレゴリーが居るというのは奇妙な光景だった。明るい子供達の間を黒いフードをすっぽり被ったガイコツが歩いているのだ。場違いである。

 グレゴリーは不服気に顔をしかめながら、一年生の教室に向かっていた。

「アニタ、ブルース!」

 

 教室の出入り口から二人に呼びかけると、授業の片づけを中断して二人はやってきた。グレゴリーはアニタの手にピンク色の可愛らしい傘を握らせる。

「ママさんに忘れ物を届けろと言われた。それとブルース、お前の忘れ物は弁当だ! もう三回目だぞ!」

 

 ランチボックスをブルースに手渡しながらグレゴリーが苦い顔をする。アニタの家のみならず、グレゴリーはブルースの家からもちょくちょく頼み事をされるようになっていた。

 

 ボスからの伝言では二人にこき使われろと言われたので、勿論断る事などできやしないのだが、ブルースの忘れ物癖にはほとほと弱ってしまう。

 礼も言わずにアニタはグレゴリーを眺めると、訝しげに眉根を寄せた。

「アンタの傘は?」
「俺の? どうして、そんな急に雨が降るもんか」

 ザアアアアッ!

「ほらね。今度から天気予報をきちんと確認しなさい」
「……。」

 突如振り出した横殴りの豪雨に、グレゴリーは口をあんぐりあけて固まってしまった。こんな雨じゃローブはおろか骨の髄までびしょ濡れになってしまう。

 アニタは情けない死神を一瞥すると、ため息をついて傘をグレゴリーに放り返した。

「一回家に帰って、学校が終わる頃また迎えに来なさい。その時は自分の傘を忘れないでよ」
「むう、うむ……」

 一瞬喜びそうになったグレゴリーだが、家までの道のりをこの可愛らしいピンクの傘をさして歩くのは中々勇気のい行動である。

 しかめ面のグレゴリーを追い出そうとしたアニタの後ろで、不意に一人の女の子が声をかけてきた。あまり話したことの無い子だが、名前は確かエリーだ。

「ハイ。ねえアニタ、その素敵な人紹介してよ」

 頬をほんのりバラ色に染めて、ちらちらとグレゴリーを見ながらエリーが言う。アニタはグレゴリーとブルースを交互に見やってから首を振った。

「エリー、残念だけどここにアンタの言う素敵な人なんて居ないわ」
「ま、私に紹介したくないなんて、やきもち焼いてるの?」
「私は事実を述べたまでなんだけどね」
「その……カッコイイガイコツの人よ」

 きゃっとアニタの後ろに隠れたエリーを、アニタは信じられないといった顔で見つめていた。当のグレゴリーはカッコイイといわれて何だか嬉しそうである。

 それがとても癪に障ったのだが、ちらちらとグレゴリーを盗み見ては黄色い悲鳴をあげているエリーがうっとうしいので、アニタは仕方なくグレゴリーを紹介してやった。

「私の僕よ……死神のグレゴリー」
「どこに住んでるの?」
「うちよ」
「まあ羨ましい!」

 エリーはおずおずとアニタの後ろから出てくると、はにかんだ笑みで体をくねくねさせながらグレゴリーを見上げた。エリーが目をパチパチさせるもんだから、アニタがこっそりおえっと言ったのにすら気づかない。

「私、エリー・ブラウンよ。エリーって呼んで、グレゴリー」
「ああ、うん、俺は、グレゴリーだ。よろしくエリー」

 エリーはきゃあきゃあ騒ぎ、感極まった様子でグレゴリーの骨の手を握って、頬を紅潮させながら叫んだ。

「デートしましょう、グレゴリー!」

「デ、デ、デ、デート!?」
「ええ、そう、今日デートしましょう!」

 突然の申し出に、グレゴリーは心底びっくりした顔をした。驚いたのはアニタとブルースも同じで、ぎょっとした顔でエリーを見つめている。

 エリーは更にヒートアップして、どこそこの公園が良いとか、ローブのセンスが抜群だとか、早口でグレゴリーに言いまくった。

 ようやく我に返ったのはアニタで、喋り倒しているエリーに「ちょっと」と声をかけてやっと静かにさせた。

「だめよ、それ私のだから。仕事があるの」
「良いじゃないの、ケチ! 貴女の恋人じゃないんでしょう?」
「冗談じゃないわ」
「ねえデートするだけ。一時間だけ。良いでしょう?」
「待て、俺の気持ちはどうなるんだ!」
「アニター、そろそろ食堂言ってお昼ごはん食べようよう」
「アニタ、アニタ、お願いよ……」

 ブルースとグレゴリーまで加わり、三者三様の意見をいっぺんに言われては流石のアニタも訳が判らない。とうとう「黙りなさい!」と一喝すると、静かになった三人をにらみつけた。 

「エリー、良いわ、一時間だけよ。でもお金がかかるわ」
「いくらなの?」
「1ドル」
「俺の価値は1ドルぽっちなのか!」

 エリーは喜んでアニタに1ドルを払い、グレゴリーとデートの約束をこぎつけてからようやく離れて行った。

 離れ際までグレゴリーに熱い視線を送るエリーの姿が見えなくなるまで睨みつけると、アニタはブルースと食堂に向かおうとする。グレゴリーが慌てて叫んだ。

「何を考えてるんだ! なんで俺が六歳の女の子とデートなんか!」
「小遣い稼ぎと思って我慢しなさい。たったの一時間よ」
「でも、でも……!」
「私の、言う事が、聞けないの?」

 ずいっとアニタに凄まれては、死神も形無しである。すごすご学校から退散すると、ピンクの傘を差して仕方なく帰路へとついた。

 ああ全くなんて災難だ。学校が終わらなければ良いのに。

 はてさて、例え安全で素敵な街にも悪い奴は必ず一人は居ると言うもの。このノースリバーも例外ではなく、わるういわるうい考えを持っている男が居まして。ああ、可愛そうなグレゴリー! 今まさに彼はその男の家の前を通りかかってしまったのだから、さあ大変!

「むむ!」

 男のギラついた瞳が、雨の中を歩くグレゴリーにひたりと向けられた。ただでさえ目立つグレゴリーがピンクの傘を差していたら嫌でも目に付いてしまう。

 男はぱっと家の外に飛び出すと、グレゴリーの腕をむんずと掴みゴーグル越しにじっと見つめてきた。グレゴリーは吃驚仰天、見ず知らずの男に腕をつかまれたのだから。

「おお、何と言う事だ! 君は、人間じゃないね!」
「ああ、うん、死神だが……」
「死神だって!」

 土砂降りに濡れるのも構わず、男は飛び上がって喜んだ。グレゴリーはとても気味が悪くなり、さっさと立ち去りたくて腕をぶんぶん振るう。けれど、男の手はがっちりとグレゴリーの腕を掴んで離さなかった。

「今日の私はついてるぞー! 死神だなんて悪いエネルギーの塊みたいなもんじゃないか! 来い、実験に協力してくれ!」
「じ、じ、実験!?」

 有無を言わさずグレゴリーを引きずって家の中にはいっていく。家の中を通りすぎ、地下室に入り込むとそこは大きな研究施設だった。色々な機械が所狭しと並べられ、扉は頑丈な鉄で出来ていた。

 およそ民家にそぐわない地下室に呆然としているグレゴリーを、男は手術台のようなものに縛り付けた。ベルトでがっちり固定して、逃げ出せないようにするとつるりとした頭蓋骨に奇妙なボウルを被せる。ボウルの先から何本もコードが飛び出て、機械に繋がっていた。

 グレゴリーは辺りをキョロキョロ見回した後、機械を弄っている男の背中を眺めた。雨でびっちょり濡れているが、よく見てみれば白衣にゴーグルにニタニタ笑いと爆発ヘアー。どう見てもイカレタ博士といった風貌である。

「おい、何をする気だ! 離せ!」
「ふははは、今から君の邪悪なエネルギーを頂くのさ。そうして私の五歳の時からの夢、そう、世界征服に利用させてもらうんだ! この世界を悪で満たし、私は邪悪な世界の王となるのだ! 歴史に名を刻んでやるぞー、偉大なる王、ハーヴィー様とな!」
「失礼な奴だな。死神は邪悪なんかじゃないぞ! 全く、人間界での死神のイメージはどうなってるんだ!」
「ふふん、おしゃべりはもう終わりだ。ご協力感謝するよ、死神クン!」

 イカレタ博士ハーヴィーは、そう言うと同時にバチンと機械についていたレバーをおろした。その途端グレゴリーにビリビリと電撃が走り、たまらず悲鳴を上げる。

 バチンとハーヴィーがレバーをあげると、グレゴリーはひくひく痙攣しながら焼け焦げた臭いを放っていた。機械に目をやっていたハーヴィーは低い声で唸る。

「ふうむ、弱かったかな。ちっとも邪悪エネルギーが溜まってない。どれ、もっと強くしよう」
「や、や、や、やめてくれ……」

 ビリビリ、ビリビリ!

「おかしいな、まだ足りないか。こうなりゃ最大にしてやる」
「ひい、ひい、やめて……」

 バリバリ、バリバリ!

「くそ、機械の調子が悪いのか! 持久戦だ、溜まるまでひたすら待ってやる!」
「ぎゃー!」

 死神なのに死を覚悟した瞬間、とうとう頭に来たグレゴリーは懇親の力でベルトを引き千切り、ボウルを床にたたきつけて爆発させた。

 ハーヴィーがぎょっとして後ずさるのをギラギラした目で睨みつけ、まさに死神と言わんばかりの恐ろしい表情で徐々に近づいていく。陥没し何も無いはずの両目の闇に、突如としてカッと赤い光がともった。

「もう、もう勘弁ならん! なんて酷い奴だ!」

 グレゴリーが骨の手を天に突き上げると、しゅうしゅうと奇妙な音を立てる黒い霧が掌に集まっていった。そしてそれを一気に振り下ろすとお馴染みの大鎌にさっと変わり、グレゴリーはぎらりと光る刃をハーヴィーに向けた。

 ハーヴィーは情けない声で叫び、大慌てで逃げていく。グレゴリーの怒りは収まらず、今まさにハーヴィーが居た空間を、後ろの機械ごとずっぱり切り落としてしまった。

 逃げ回るハーヴィーを追いかけ、めちゃめちゃに鎌を振りまくっていた結果、機械やケーブルがどんどん使い物にならなくなっていく。ガスンと嫌な音を立てて大きな機械に鎌をめり込ませた時、火花が飛び散って何やら怪しげな煙が昇っていることに気がついた。

 

 しかし、時既に遅しである。色々な電化製品を滅茶苦茶にしたのだから、後はどうなるか。皆さんご存知のとおり。

 盛大な爆発音と共に吹っ飛んだ地下室は、グレゴリーとハーヴィーをはじめとする色んなものを吐き散らしてもうもうと土煙と炎を巻き上げていた。

 ハーヴィーが叫び声をあげて燃え盛る家を見ているが、グレゴリーは良い気味だとばかりに鼻を鳴らす。ハーヴィーの嘆きを背に、さっさと家に帰ってしまった。

 ようやく平和を手にしたグレゴリーであったが、ハーヴィーに捕まっていたせいで随分時間を食ってしまったようで既に学校の終わる時間が迫っていた。忘れていた、デートをしなければならないのだ。

 どうしてこんな雨の日に公園でデートしなければならないのか、しかも六歳の女の子と! グレゴリーだって一応は男であるからして、アニタの母親のように美人な女性であれば文句なんかないのだけれど。

「あら、帰ってきたばかりなのに何処に行くの?」
「少し用事があって……」
「そう。夕飯までに帰ってらっしゃいね、今日はヤキソバなのよ」

 にっこり微笑む母親に行って来ますと告げると、グレゴリーは玄関にかかっていた紺色の傘を差して再び雨の中へと出て行った。

 待ち合わせの公園は、アニタとブルースと初めて出会ったあの公園だった。ちょうど学校が終わりの時間で、傘を差した子供達を時折見かける。今の天候よりもどんよりした気分で、グレゴリーは公園に向かった。

 指定された場所に行くと、そこは屋根のついた休憩スペースで雨風は凌げる場所だった。既にエリーが待っており、そわそわと辺りを見回している。グレゴリーを見つけると、立ち上がって手を振っていた。

「女の子を待たせるなんていじらしい人ね!」

 軒下に避難し、傘をたたんだグレゴリーは促されるままにエリーの隣に腰掛けた。エリーは目をパチパチさせてじっとグレゴリーを見つめるが、グレゴリーが見るとさっと目を反らしてしまう。

 ここに来てまだ一分も経っていないのに、もう帰りたくて仕方なくなった。

「あのね、私達、まだ会って少ししかたってないでしょう? だからお互いをもっと知らなきゃいけないと思うの」

 十分知っているとも、世間知らずのお嬢ちゃんで怖いもの見たさに死神にデートを申し込む愚か者だ。喉元まででかかったこんな台詞を、グレゴリーは慌てて飲み込んだ。

 雨音にも暴風にも負けず、エリーは突然饒舌になりべらべらと自分の事を喋り始めた。父親は偉い博士なんだとか、音楽が一番好きな教科だとか、テレビはこれを見ているだとか、好きな食べ物だとか・・・。

 聞くだけで済んだのは幸運だが、時間が経つにつれてグレゴリーの表情はどんどん険しくなっていく。なんて面白くないんだ。大体、こんな暴風雨の中公園でデートだなんてどうかしている。

 恐ろしく退屈な一時間がようやく過ぎてくれると、約束どおりエリーはおしゃべりをやめた。雨は多少弱まっているが、夕方に見える綺麗な夕日は到底拝めそうに無い。グレゴリーはすっかりむくれた顔をどうにか元に戻すと、名残惜しげに立ち上がるエリーに続いてベンチから立ち上がった。

「ねえ、私とっても楽しかったわ。またデートしてくれる?」
「ああ本当に、最高、のデートだった。……機会があればな」

 はたして子供に皮肉が通じるはずもなく、エリーは頬を染めて嬉しそうににっこりすると、ピンクの傘をさして雨の中を帰っていた。それは何度もグレゴリーを振り返りながら。

 一方やっとの思いで解放されたグレゴリーの胸には、何故だかもやもやとした感じが残っていた。エリーと別れられてすっきりしたはずなのに、何故?

 ややあって、ピンクの傘が見えなくなると急に記憶がよみがえってきた。そして、さっと血の気が引いていく。

「ああ、ヤバイ……」

 なんて事だろう、アニタを忘れていたのだ!

 グレゴリーは死に物狂いで学校へと走った。この位の雨なら、もしかしたらブルースと一つの傘に入って帰ったかもしれない。あの性格だ、まさか律儀に待っているなんて事は……。

 しかも最悪な事に、グレゴリーはアニタの傘を忘れていた。ハーヴィーのイカレタ実験に拉致された事や、ありえないほど退屈なエリーとのデートで心身ともに疲れきっていたのである。

 学校が終わる頃に迎えに来なさい、とアニタの声が頭の中でこだまする。約束を破った事により、どんな恐ろしい目に遭うかと思うと、雨の寒さだけではなくぶるりと背筋が震えた。

 息せき切って学校に到着すると、既にそこひっそりと静まりかえっていた。僅かに人影の見える教室と職員室以外は、墓場のようにしんとしている。グレゴリーは大急ぎで昇降口に飛び込んだ。

 クラスの下駄箱の前にアニタは居た。たった一人で、静かな昇降口にしゃがみこみ、じっと床を見つめている。ブルースや他のクラスメイトはもうとっくに帰ったのだろう、不服気な表情も怒りの表情も最早なく、無表情を貼り付けたままアニタはしゃがんでいた。

「……アニタ」

 何故か一人ぼっちでいるアニタがかわいそうになり、グレゴリーはぜえはあ言いながらアニタの元に駆け寄った。アニタはゆっくり顔をあげ、何の感情も無い顔でグレゴリーを見つめる。

 青の瞳が、ぐしゃぐしゃで濡れているローブと必死に酸素を吸い込もうとしている口を眺め、満身創痍だと傍目で判る顔を眺める。グレゴリーはようやく息を整え終えた。

「……遅れて、すまない」

 アニタは何も言わず立ち上がった。そっとグレゴリーの側に立ち、じっとその顔を見上げてくる。グレゴリーもアニタを見下ろし続けた。アニタはやおら薄らと唇をあけると、小さな声で呟いた。

「やくたたず」
「え?」

 その瞬間、アニタは懇親の力でグレゴリーの脛を蹴り上げた。あまりの痛みに叫び声をあげ、たまらずグレゴリーは蹴られた脛を手でさする。屈んだグレゴリーの顔に、今度はようしゃなく右フックが叩き込まれた。

「私を待たせるなんて何様のつもり? 学校が終わってからもう一時間半も過ぎてるのよ!」

 アニタがグレゴリーの顔を蹴り上げると、パコオンと良い音がして頭蓋骨が吹っ飛んでしまった。体にも蹴りをいれ下駄箱にふっ飛ばし、落ちてきた頭蓋骨を足の裏で踏みつける。

 それは恐ろしい顔でグレゴリーを見下ろしたものだから、グレゴリーは頭だけで震えるという器用な芸をやってみせた。

「わ、わ、忘れてたんだ。悪かった! けれど今日は災難続きで、イカレタ博士に捕まるわ、エリーとのデートに行かなきゃならないわで……」
「言い訳なんか聞きたくないの。アンタは、私より、エリーを優先させた。そうでしょう? 先に傘を届ければ良いものを、わざわざ一時間デートなんかに付き合って」
「デートしろって言ったのはお前だろう、1ドルぽっちのために!」
「黙りなさい! それに私の傘はどうしたのよ」
「う、そ、それがその……忘れてきた……」
「この、役立たず! 役立たず! 役立たず! 滅びてしまえ!」

 紺の傘が曲がるまで、しこたま殴りつけられること数分。ようやく気が済んだのかたんこぶだらけの頭蓋骨を足で蹴り飛ばし、見事胴体にくっつけるとアニタは鞄を背負いなおして昇降口から出て行った。

 グレゴリーは痛む体をさすりながら大急ぎでアニタの後を追い、彼女が濡れないように曲がった傘をさしてやる。これ以上のお仕置きは困るので、自分の半身が濡れてもアニタがすっぽり傘の下に入れるようにした。

 息の詰まるようなピリピリした空気の中で、ずっと無言の時間が流れていた。今日が雨の日でよかったかもしれない。もし何の音も無かったら、気が狂ってしまいそうだ。

 グレゴリーは疲れきってへとへとになりながら歩いていると、じろりとアニタが睨んできたので無理やり背筋をしゃんとさせた。けれどもそれも長くは続かず、体は痛いわ疲れているわ精神的にももう限界だわで、今にも倒れそうである。

 アニタはそんなグレゴリーをちらりと見やると、不意に足を止めた。そして急に方向を変えて街角にたっている自動販売機へと向かう。グレゴリーがひいひい喘ぎながら何とかアニタを濡らすまいとそれについてきた。

「……どうしたんだ、何をしているんだ……」

 掠れた声が、言外に早く家に帰ろうと切に訴えてくる。アニタは何も言わずポケットから小銭を取り出すと自動販売機に押し込んでホットココアを買った。今日みたいに寒い雨の日にはうってつけである。

 再び帰路へつきながら、缶を軽く振って蓋を開けた。白い湯気が飲み口からあがり、アニタは両手で缶を持ってふうふうと息を吹きかけながらそれを冷ましている。

 再び無言の歩みが続いたが、やがてアニタがココアを飲む音が聞こえた。熱いのか、少しずつちびちびと飲むものだから、液体をすするちょっと無作法な音が聞こえる。

 しばらくそのまま二人とも黙って歩いていたが、不意にアニタは缶をグレゴリーに向かって突き出した。

「……あげる」

 グレゴリーはぎょっとしてアニタを見下ろした。呆然としていると、アニタがさっさと受け取れとばかりに睨んでくるので、慌てて空いているほうの手で缶を受け取る。驚いた事にまだ半分も中身が残っているではないか。

 戸惑っていたグレゴリーだが、黙って歩いているアニタをちらちら見ながら恐る恐るココアを一口含んだ。口内に、甘くて暖かい液体が広がり、何故だか元気が湧いてくるような気がする。お腹がほっこり温まってグレゴリーは嬉しそうに目を細めた。

「美味いな」

 素直な感想を告げてもアニタは黙ったままだったが、俯いた顔の眉根が少し柔らかくなったのをグレゴリーは確かに見た。

 そういえば、アニタに何かを貰うと言うのは初めてかもしれない。・・・キックやパンチは別にして、だ。何だか飲みきってしまうのが勿体無いような気がして、グレゴリーもアニタのようにちびりちびりとココアを飲んだ。

 雨音だけの帰り道、だけれど二人の間の沈黙はもう怖いものじゃなくなっていた。

 

 


「遅かったわね、心配しちゃったわ!」

 半ばぐっしょりのグレゴリーとすまし顔のアニタの帰宅を知った母親は、安心したとばかりにホッとした笑顔でそういった。

 グレゴリーは母親に謝り傘を戻し、アニタは言われるままにバスルームに向かう。ローブの水をキッチンの流し場で絞っていると、アニタに着替えを渡した母親が戻ってきた。

「それで、こっちの生活にはもう慣れた?」

 途中だった調理を再開し、親切そうに母親は問いかける。グレゴリーはぎゅうっとローブを絞りながらこくこく頷いた。

「元々知らない世界じゃないし、何よりママさんの料理は美味しい」
「ありがとう。そう言われたら頑張らないわけにいかないわね」

 悪戯っぽい笑みを向けられると、自然とグレゴリーも笑顔になってしまう。ローブの反対側も雑巾みたいに絞っていると、母親はキャベツを切りながら言った。

「ねえ、アニタの事なんだけどね」
「ああ」
「あの子少し変わってるけど、本当は良い子なのよ。ちょっと誤解されやすいけど……。私達じゃ出来ない事は、貴方にお願いして良いかしら。あの子は貴方を受け入れたわ、だから貴方もあの子を受け入れて頂戴」

 いつになく真剣な話をしている母親の横顔は、感情の窺えない笑みだった。そんな横顔を眺めて、グレゴリーは何の脈絡もなく似ている親子だと思った。

 グレゴリーはしばらく不思議そうに母親を眺めていたが、それきり母親が黙ってしまったので口を開いた。

「ああ、うん。できる限りの事はするつもりだ。ママさんは心配しなくて良い」
「ありがとう。仲良くしてやってね」

 ふと手を止めた母親は、嬉しそうな微笑を浮かべてグレゴリーに笑いかけた。毒気を抜かれてしまうようで、グレゴリーが曖昧に笑っていると、不意に母親は包丁をしっかりと握りなおす。グレゴリーの顔からさっと笑みが消えた。

「でもね、あの子まだ小さいから変なことしたら許さないわよ。危ない事させるのも……貴方大人なんだからちゃんとわかるでしょう?」
「ま、ママさん、とりあえず包丁を置いて……」
「ねえ、わかってくれるわよね?」
「もちろん!」

 包丁片手にじりじり近寄ってこられては、いくら笑顔でも恐ろしいというもの。更に禍々しいオーラがにじみ出ているのだからたまったものではない。

 グレゴリーが頷いて了解するのを見ると、母親はころりと可愛らしい笑顔に戻ってありがとうと礼を述べた。

「……親子だなあ」

 性格は違えど、根底は同じ。グレゴリーは濃い血縁を目の当たりにした気がして、呆然と呟いたのだった。

 その後、心身ともに疲れ果て倒れこんだグレゴリーのベッド脇にある小さなタンスの上に、空になったココアの空き缶が置かれていた理由は、誰も知らない。

 

 

 


「パパ、パパあ、聞いて今日は素敵な人とデートしたの! 死神なんだけど、彼ってとてもクールなのよ!」
「死神? ガイコツの顔した黒いフードの奴かい?」
「そうだけど、どうして知ってるの?」
「いや、少し……顔見知りでね……。ふっふっふ、都合が良いな。その人と仲良くなったかい?」
「彼ってシャイだから……。でも、近いうちに必ず私のものにして見せるわ。グレゴリーをアニタに渡すもんですか! ……ところで、どうしてお家が半分ないの?」
「う。ちょっと事故でね……」

 ハーヴィーが愛娘エリーと半壊の家の中で楽しそうに語らっている。彼の発明で、あの後家は少しずつ修理されていったのだが。

 グレゴリーは、今日の災難が後々の大きな災いの始まりでしかないことなど、夢にも思わなかった。

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