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2人目

愛する人
愛する人

あなたになら身も心も全て捧げる

そう誓ったはずなのに
その気持ちに偽りはないのに

愛する人
愛する人

報われないのは私の努力不足か

それとも……

 

 

 

 

 

 


「いらっしゃいませお客様、ドリームホテルへようこそ!」

 ホテルに足を踏み入れた途端、ほんの一秒前まで誰も居なかったカウンターから明るい声が飛びかかってきて、客は上ずった悲鳴をあげて肩を弾ませた。慌てて横を見やれば、にっこりと笑顔を浮かべる男が一人。黒いスーツに身を包み、黒髪を丁寧に撫でつけている彼は、大股でカウンターから出てくると両腕を歓迎の意味を込めて広げて見せた。

「お待ちしておりましたよ! あら、お荷物は御座いませんね。では貴女のお部屋にご案内致しましょう」
「あ、あの、待ってください、どういう事ですか? 私、予約も何も……」
「随分前からご予約されておりましたよ」

 ずいっと男の顔が客の顔に近づき、彼女は思わず一歩後ずさった。しかし、男は意に介した様子もない。

「とうとうお越しくださいましたね、いやあめでたい! どうぞ好きなだけ夢を叶えていってください!」
「夢……?」
「ここは夢のホテル。お客様の夢が何でも叶う場所です。まあ、夢が全て良い物とは限りませんけどね。さ、こちらへこちらへ。ああ、申し遅れましたが、私、当ホテルのオーナーで御座います。何か御座いましたら、なんなりとお申し付けください」

 目の前に名刺を差し出され反射的に受け取りはしたものの、そんな小さな紙切れを手に入れたところで客の困惑が解消される事はない。オーナーの身形同様真っ黒なその名刺をとりあえずポケットに突っ込みながら、客はさっさと歩き出した彼の後を追いかけた。

「すいません、何が何だか……」
「おや、ご自身の夢に御心当たりが御座いませんか?」
「いや、夢って、言ったって……!」

 勿論、夢と呼べるものの一つや二つくらいは持っている。学校で開かれる次のミスコンで優勝したいし、アイドルにだってなってみたい。テレビに出たり、たくさんのファンに囲まれて歌ったりしてみたい。宝くじを当てることだって夢だ。海外で色んな人に出会うのも良い。

 しかし何よりの夢は。

 客は細く息を飲んで目を細めた。

 愛する人と結婚し、幸せな家庭を築くこと……。

「こちらのお部屋で御座います」

 オーナーの声にはたと現実に返った客は顔をあげ、一時遠ざかっていた現実を見せつけられた。なんと質素な部屋だ。あるものと言えば、ベッドと箪笥、書き物机も兼ねた鏡台が一つだけ。床にはラグの一枚もなく、寝る以外に何もする事がないただの四角く区切られた空間。とても”ドリームホテル”なんて名のつくホテルの客室とは思えない。

 客が愕然としている隙にオーナーは彼女の手に鍵を握らせ、ニコニコと戸口まで後退した。

「何か御入り用でしたら、内線をお使い下さい。叫んで頂いても結構ですよ」

 今一度室内を見回した。電話なんて置いていない。

「お望みでしたら、今から食堂にご案内致しましょうか?」

 食堂。

 その単語が聞こえた瞬間、突然殴りかかられたように客は凍りついた。
 食堂。食堂。それは勿論、食事をする場所を意味する。食堂。食事をする場所。食べ物を食べる場所。
 やがて病のように体中に広がっていく脂肪を体内に摂りこむ、恐ろしくグロテスクな場所!

「結構です!」

 悲鳴じみた声をあげ、客は一歩後ずさった。

「わ、私、何も食べくありません!」
「……さようでございますか」

 客の豹変ぶりにほんの少しオーナーは目を見開いたが、すぐに先ほどと同じ人のよさそうな、それでいて不穏さを孕んだにっこり顔に戻るとドアノブに手をかけた。

「とは言え、お腹がすかれましたらいつでもおっしゃってくださいね。お部屋にお持ちする事も出来ますので。それでは、心行くまで夢をお楽しみください。失礼致します」
「……夢?」

 そうだ、オーナーは先ほどから夢と言う言葉を繰り返している。夢を叶えるホテルだなんて、今時小学生でも信じるはずのないあまりにも胡散臭すぎる文言だ。それなのに、こんなにも当たり前のように繰り返されると、いつの間にか「そう言うものなのか」と納得してしまっている自分が居る。

 ここはドリームホテル。夢を、叶える、ホテル。

 廊下を歩いている最中、彼女の頭の中で踊っていた幸せな夢の数々は、けれども本当に自分が望んでいるものではなかったと突然客は気が付いてしまった。何よりも叶えたい夢なら、たった一つじゃないか。

「……あの」

 出て行こうとしたオーナーが振り返って客を見た。

「はい?」
「本当に、その、夢が叶うんですか……?」

「ええ、勿論。稀に力及ばず失敗される方もいらっしゃいますが、そちらはレアケースです」
「どんな夢でも良いんですか?」
「おや、何か見つかりましたか? 叶えたい夢」

 深い深い沼のような緑を湛えたオーナーの目がすっと細まり、笑みと言うよりは客を値踏みするような視線を投げる。客はそれに気づく事はなく、言うべきかどうか迷っている様子で拳を握りこんだ。しかし、沈黙は長ければ長いほど毒だ。彼女は可能な限り早く腹をくくると口を開いた。

「私、あの……痩せたいんです」

 思ったよりもはっきりと言葉を発する事が出来たのに感謝しつつ、客はオーナーを見た。正直な所、次にくる反応は予想がついていた。

「痩せる? そんなに細くてらっしゃるのに!」

 やっぱりこれである。そう、細いのだ。自分でもそう思っているし、周りからの認識も同じ。スカートから覗く足を友達に羨ましがられた回数なんて覚えていられない程だし、実際数値としても、平均体重を十キロも下回っていた。つまり、本来ならば痩せる必要なんてまるでないのである。

「確かに、私はその、太ってはいないんですが……まだ、十分じゃなくて」
「何にです?」
「彼氏の……」

 みなまで言わずともその単語だけでオーナーは察した様で、呆れた顔を隠す事もなく客を見下ろした。客自身、その説明が恥ずかしいものだという自覚はある。しかし事実である以上仕方がないし、他にうまい言い訳も思いつかないのだから、本当の事を言うより他はない。

「なんと言いますか、恋人の趣味に自分を合わせる事が悪いとは申しませんけども、ええ、勿論」

 オーナーはわざとらしい程考え込む素振りをしてみせる。

「とは言え、それ以上痩せるとなりますと、最早やつれると言った方がしっくりくるかと」
「でも、痩せられるんですよね?」
「まあ、やってやれない事はないと思いますが……そうだ、痩身エステなどはいかがです? お客様のためだけに、特別なプランをご用意致しますよ! 少々お値段張りますが」
「ど、どれくらいですか……?」

 しめたとばかりにオーナーが値段の交渉に入ろうとした時、扉の向こうからふわふわと揺れる明るい茶色の髪が現れた。ウサギである。ウサギは客と目があった途端、喋りかけたオーナーを押しのけて部屋に飛び込んできた。

「あっ、新しいお客さんですね! こんにちは、私ウサギって言います! わー、こんな綺麗な方見るの久しぶりだなあ」

 せっかくのビジネスチャンスを黄色い声でかき消され、オーナーはすかさず不服丸出しでウサギの名を呼ばわったのだが、ウサギにひるんだ様子はまるでない。既にこの性別不詳の青年は、客の手をとってにこにこと笑みを振りまいていた。

「もう、オーナーってば、こんな綺麗な人が来たならすぐ教えてくださいよう」
「私が教えなくても嗅ぎつけてくるだろうが! アフリカゾウか、お前は! ウサギから改名しろ!」
「気にしないでくださいね、オーナーは大げさなんです」
「お前みたいな片っ端から客に手を出すトラブルメーカーに言われたくない! ……ああ、でも、今回は多少役に立つかもな」

 よもやオーナーからお許しにも似た言葉が聞けるとは思っておらず、ウサギは赤い目を丸くしてオーナーと客を交互に見やった。

「そちらのお客様は、痩せる事が夢なんだそうだ」

 オーナーの説明を聞くやウサギは驚いて背筋を伸ばし、大きく見開いた目で客を見下ろした。

「ええっ、そんなに痩せてるのに!? それ以上痩せたら骨と皮だけになっちゃいますよ!?」
「分かってるんですけど、その、彼氏が……」
「彼氏!?」

 ウサギの声がひっくり返る。

「こんなに痩せてる貴女に、更に痩せろって言ったんですか!?」
「痩せてる子が好きなんです……」

 ああ、こうして音に出すとどんどん自信が失われていく。頭の中でなら客は胸を張ってこう言えるのだ、「私は愛する彼の為に努力を惜しまない女なのだ」と。しかしいざ自分の現状を口に出してしまうと、途端に「異常な男の言いなりになっている馬鹿な女」のような気がしてならなくなる。

 実際、彼氏の要望が常軌を逸しているのは、彼女も理解している事ではあった。彼は少しおかしい。いきすぎている節がある。けれど、好きで好きで、どうしようもないのも事実だ。バツが悪そうながら頑なな様子を見せる客にウサギは弱り切った顔で唸った。

「正直、それ以上痩せろなんて貴女の事を大切にしているようには思えないので、そういうタイプはやめた方が良いと思うんですけど……でも、好きなんですもんねえ。無茶ぶりされても応えたくなる気持ちは分かりますよ」
「ほ、本当ですか?」
「恋は盲目ってやつですね」

 何とも言えない表情で笑った後、ウサギは握っている客の手の甲を優しく指の腹で撫でた。彼女の年頃であれば、もう少し柔らかく滑らかで、みずみずしさに溢れていてもよさそうなものだが、肌はかさついている。ウサギは大きく息を吐き出した。

「痩せるなら、健康的に痩せましょう。無理なダイエットは駄目ですよ。必要なのは適切な栄養と運動です、食べなきゃいいってわけじゃないんですから」

 客の顔色がさっと変わった。

「駄目です、食べたら太ります!」
「食べた分動けばいいんですよ」
「でも、食事をしなきゃもっと痩せられますよね!? さ、最低限の栄養は勿論、摂るつもりですよ。俳優が激痩せした食事法で、ツナ缶と林檎だけを食べるって言うの見たんです。だから、もし食べるならそう言う……!」
「ほらほら、落ち着いて」

 不意にウサギは客をやんわりと抱きしめた。彼女の体に予想していた柔らかさはなく、骨が自らの形を主張してばかりいる。その事実と、今にも泣き出しそうな程狼狽する客を見て、ウサギは慰めるように優しく微笑んだ。

「今まで頑張ってきたんですね、でもちょっと無理をし過ぎたみたいです。私が手伝いますから、体を壊す様な真似はしないでください。大丈夫、ここはドリームホテルです。痩せたいって言う貴女の夢は、ちゃあんと叶いますよ」
「本当ですか……?」
「私を信じて!」

 こんな風に自分を包み込んでくれる存在は久しぶりだったのだろう、客は両目に涙を浮かべて熱心にウサギを見つめた。ここ数か月、決して超える事の出来ない問題として聳えていた「痩せる」と言う壁のてっぺんを、急に視界に捕えた気がする。

 手伝ってくれる人がいる。支えてくれる人がいる。難しいかもしれないが、決して不可能なことではない。この、ドリームホテルでなら!

 しかし、やる気を奮い起された客の横で一人取り残されたオーナーは、こんな展開ほんの少しも美味しくはない。彼は必死の思いで営業スマイルを張り付けながら、腰を折って客に顔を近づけた。

「あのう、お客様。痩身エステの方は……」
「あ、えっと……」
「オーナー、まだこんな若い子に、クーリングオフも出来ない高額エステなんか売りつけちゃ駄目ですよ! どうせ分割払いにすると利子が高すぎて一生払い終われないんでしょう!」

 オーナーは鬼のような形相でウサギを睨みつけたが、その言葉が一字一句本当であったのでぐうの音すらでない。残念ながら、新たなる客のダイエットプランに痩身エステの文字を捻じ込むことは叶わなかった。

 

 


 遠回しな要求が直接的な命令になり、やがて罵倒と言うナイフを振るう頃には、客の食に対する恐怖心は病的なまでに進行していた。デブだと彼氏に言い続けられ、今となっては油っぽい食事を見ただけで気持ちが悪くなる有様。ここ最近口にしているのはサラダばかりで、それも少量。無糖のヨーグルトや、ナッツ、時には水だけを飲んで凌いだ時期だってある。それ程、自分の体内に何かが吸収されるという事が恐ろしくて仕方なかった。

 だから、数か月ぶりに目の前に置かれた肉を見て、客は咄嗟に椅子から立ち上がりそうになってしまったのも無理はない。

「ウサギさん、これ!」

 引きつった声で皿を指差す。皿の上には、血の滴るような赤々として色を誇るローストビーフが数切れ綺麗に盛り付けられていた。黒いソースはビネガーだろうか、久しく嗅いでいなかった食事らしい良い匂いが漂ってくる。ウサギは客の横に座った。

「大丈夫、肉は肉でも赤身はダイエットにぴったりなんですよ」
「でも、肉なんですよ!? 脂肪の塊じゃないですか!」
「よく見てください、脂肪なんかどこにもないでしょう? 赤身はカロリーや脂質が低いのに高たんぱくで、しかも脂肪を燃焼させる上に、リバウンドまでしにくくなるんですよ!」
「そ、そうなん、ですか……?」

 赤身が良いとは聞いた事があったが、しっかり調べた事はなかった。何せ食事制限や運動によるダイエットを試みる前に、彼氏の言葉に耐え切れず、食べないという選択肢をとってしまったのだ。それが一番手っ取り早く、如実に効果が出ると思っていた。

 しかし今、必死になって避け続けていた肉を目の前に出されると、口内に溢れ出る唾液を止める事が出来ない。ダイエットを始めてからここ数か月、口にするものの味に対して何かしらの感慨を持つことが無かった。全ては「食べたくないが死なない為には摂取しなければいけない栄養素」でしかなかったのだ。そのはずなのに、彼女の脳みそはまだ、肉の美味さを忘れてはいなかった。それに何故だが安心感を覚える。

「……食べないなら、僕にちょうだいよ……」

 客がどうした物かと皿を見下ろしていると、目の前の椅子に座っているステーキがぼそりと呟いた。客とウサギが食堂に来た時は違う席に座ってぐったり机に伸びていたが、二人が席につくとのそのそこちらにやってきたのだ。客はステーキのガリガリの体を酷く羨ましげに眺めたが、それをやんわり制したのはウサギだった。

「食べても大丈夫ですよ。ステーキが痩せてるのはちょっと特殊な事情なので、貴女とは違うんです。貴女は貴女の方法で痩せましょう」
「はい……」

 それでも客は暫く食べるのを戸惑った。目の前には自分よりはるかに痩せているステーキが座り、これから肉を食べようとしている自分を見つめている。これは何かの皮肉か? 自分のなりたい姿を目の前にして、豚のように食べ物を口にするなんて。

 そこではたと、客はステーキを見つめた。彼を見て何より目につくのは鼻から下をぐるぐると覆っている太い鎖だが、その更に下から伸びる首の、干からびたような細さはどうだ。机の上に放り出された、枯れ枝のような腕。ひび割れ、黒ずんだ爪の並ぶみすぼらしい指。街で見かけたならつい凝視してしまうような、病的に痩せ細った体。

 ……これが、自分のなりたい姿なのか?

 客は一瞬の間を置いてから、フォークでローストビーフを突き刺し口に運んだ。途端、口内に広がる肉のうまみとビネガーの程よい酸味。歯切れがよく、適度な弾力のそれを噛みしめていると、更に唾液が溢れてきた。頭が真っ白になるような衝撃に、思わず唇からため息がこぼれる。

「……美味しいです」

 そう呟いた途端、彼女はせきを切ったように泣き出してしまった。美味しい。美味しいのだ。食事と言うものは、こんなにも美味しかった。生命維持を続けるためだけに摂取する栄養源ではない、幸せと喜びを与えてくれるものなのだ。同時に客の脳裡には、彼との初めてのデートが蘇ってきた。二人で笑いながら、美味しいパスタを食べたあの晩。昔はあんな風に楽しく過ごせていたのに、今はどうだ。

「さあさあ、ゆっくり食べてください」

 様々な感情の爆発に耐え切れず嗚咽をもらしながら、それでも咀嚼を止める事はない客の背中を撫でつつウサギが穏やかに言う。ステーキはじっとりと羨ましげに客の食事を見守って空腹を訴え続けていたが、彼の小さな声は客の泣き声でかき消されてしまった。

 続けてウサギは今後の客の献立について教えてくれた。勿論それは、ドレッシングも許されない野菜の切れ端の寄せ集めのようなサラダと呼ぶのも躊躇われるものではなく、炭水化物こそないものの、空腹で気がおかしくなるなんて事はあり得ない健康的なメニューばかり。

 それらを食べていいと言うだけで客には天国のようだった。たとえ食堂の奥にある厨房が真っ暗で、シェフと呼ばれる人物が一向に見えなくても構わない。久しぶりにしっかりとした食事をし、胃袋に自分の役目を思い出させた後、更にウサギがデザートとして糖質オフのアイスクリームを持ってきてくれたものだから、客はまだ泣いてしまった。

「このホテルには、ナイチンゲールって看護師が居るんです」

 溶けないように、それでも最大限幸せが続くように、ゆっくりゆっくりとアイスを頬張る客を見ながらウサギが言った。

「彼女は看護師なんですけど、ダイエットの事も詳しくて。この食事のメニューも考えてくれたし、今からする運動のメニューも考えてくれたんですよ」
「運動は、何をすればいいんですか? こんなに食べたんだから、どんなハードな運動でも頑張ります!」

 食事は特に客の精神面を著しく復活させたようで、既に先ほどまでの鬱々とした雰囲気が消えかかっている。ウサギは喜んで彼女をジムへと案内した。

 ジムは客が予想していたよりもずっと現代的で、このクラシックな雰囲気で統一されているドリームホテルの内装とはお世辞にも相性がいいとは言えなかった。しかし、ジムの内装よりも客が目を奪われたのは、室内に立っていた一人の(恐らく)女性である。

 彼女は一昔前のナース服を着ていたが、そこから伸びる四肢、首、頭と、全てに包帯が巻かれていたのだ。そのあまりの異様さに、一瞬客はミイラのコスプレか何かかと思っただが、巻かれた包帯の年季の入り具合を見るにコスプレなんて生半可なものではないのは一目瞭然だった。

「彼女がナイチンゲールですよ」

 ぽかんとしている客にウサギが言う。ナイチンゲールはゆっくりと包帯の隙間から覗く血走った瞳を客に向け、小首をかしげた。

「別にいぃ痩せなくて良いじゃないいいぃ……」

 耳障りな掠れた声は、なんだか今わの際のようにも聞こえ、客の腕にはほんのりと鳥肌を絶たせた。しかし、自分の為に色々としてくれた人に対してあまりにも失礼な態度だ。見た目や声が怖くても、良い人なのは間違いないのだから。

「でも、どうしても痩せなきゃいけなくて」
「あんまり細いとおぉお解剖しづらいわよおおぉ……」
「解剖……?」
「ナインチゲール、彼女は解剖しちゃだめですよ」
「ちょっとも駄目なのおぉお……?」

 ナイチンゲールは哀れっぽい声をあげてウサギを見た。

「お腹だけぇえ……五センチだけだからぁあああ……内臓抜いたりぃしないからああぁ……!」
「だあめ」

 ……良い人ではないのかもしれない。たまらず一歩後ずさると、ウサギが困ったように笑って客の腰に腕を回した。

「待ってください、大丈夫ですから。確かに彼女は解剖大好きさんですが、承諾が無ければ貴女にメスを向けたりしませんよ。常識はありますもんね?」
「ダイエット手伝ってあげたんだからあぁ、ちょっとくらい解剖させてくれてもいいのにぃいい……」

 確かに、内臓をとってしまえば手っ取り早い体重減少にはなるだろうが、そんな恐ろしい事出来るはずもない。客が返答に困っているのを察したウサギがどうにかナイチンゲールを宥め、三人は改めてダイエットメニューへと取り掛かる事となった。

 自分専用のトレーナーをつけ、計画を立て、ダイエットをするというのは、本来ならかなりの値段がするものであるから、こう言ったダイエット法は客にとって未知の領域だった。だから与えられたメニューが一般的に見てハードなのか初心者向けなのかも分からない。が、とにかくその内容は彼女にとって厳しいものであった。

 中学、高校とテニス部に所属していた客は、自分の運動能力をそこまで低いと思った事はない。けれど最近のダイエットが祟っているのか、はたまた純粋に運動がきついだけなのか、特訓は毎日客の限界を超える程激しいものとなった。

 勿論食事が出来るから空腹や栄養失調で倒れる事はないものの、疲労で倒れる事は毎日で、部屋に戻るとそのままベッドに倒れ込んで毎晩泥のように眠るようになった。そうして気が付くと朝。体は筋肉痛で悲鳴どころか絶叫を張り上げている。

 けれど不思議な事に、日を追うごとに客の気分は良くなっていった。そもそもこんなにぐっすり眠るのも久しぶりだ。前は色々な事を考え込みながらやっとの思いで浅い眠りに逃げ込んでいたのに、このホテルに来てからと言うもの、夢を見る余地さえない程深く眠れている。

「あれ、ジムなんて出来たの?」

 ある日シーフがひょっこり顔を覗かせて、興味津々にジムの中を覗き込んできた。どうやらこのホテルでは各客に必要な部屋がその都度現れるらしく、前はジムなんてなかったらしい。(だからこそ、オーナーが使用料としてふっかけようとして来ると言うトラブルもあったのだが)

「なんで君みたいな子がこのホテルに居るわけ?」

 ランニングマシーンで走っている客を見て、シーフは眉根を寄せて唸る。ウサギが笑って手を振った。

「凄いでしょう? かなり順調なんですよう」
「なんかその人健康過ぎてここの雰囲気に全然合わないじゃん、変なの。でも良いなあ、ピカピカの機械がたくさん。僕も遊んで良い?」
「壊さないでくださいね」

 それから更に数日が経った。正確に何日このホテルに連泊しているのかは分からないが、ナイチンゲールのメニュー最終日がやってくると、あんなに苦しかった日々が驚く程あっという間に過ぎてしまった事実と共に、何とも言えない消失感と、寂しい気持ちが湧き上がる。もっともっと運動を続けたい。このトレーニングを辞めたくない。そう言えば自分は運動が好きだったのだ。

 しかし、そんな優しい悲しみを味わっていた客を打ちのめす現実がすぐに突きつけられた。笑顔でウサギが持ってきた体重計。そこに乗って、表示された、電子数字。

「太、った……!?」

 客は真っ青になって、目玉がこぼれんばかりに目を見開いた。

 表示された数字は、自分がここに来た時から二キロの増量を示している。あまりのショックに客は口を押え、わなわなと震えだした。

「あんなに、頑張ったのに……なんで……なんで!」
「大丈夫ですよ、これは……」
「やっぱり食事のせいですか!? 肉なんて食べたから! こんなに太って、どうしてくれるんですか!? 私は痩せたかったんですよ!? 酷い、こんなの、こんな、こんな……!」
「落ち着いてください、ほら!」

 取り乱す客の手を握り、ウサギは彼女を鏡の前へと導いた。そこには、狼狽する真っ青な客の顔。そして、どう見ても細くなっている自分の体が映っていた。そう、痩せているのだ。腕や足は細くなり、顔のラインはすっきりし、くびれがよりハッキリと出来ている。客はそれに気づくと素っ頓狂な声を出した。

「あ、あれ……?」
「ね?」
「な、何がどうなってるんですか、私太りましたよね?」
「太ったんじゃなく、筋肉がついたんです」

 ウサギは鏡の中の客を指差す。

「筋肉は重いですから数字としては増えます。でも、見た目は逆に細くなるんですよ。体が引き締まって全体のシルエットがずっとシャープになってるでしょう? 運動と食事で健康になって肌質も良くなったし、髪もサラサラになったし!」

 まさにその通りだった。彼女の体は細いながらも綺麗にメリハリがつき、自分が見ても思わずじっくり眺めてしまうような美しい曲線を描いている。引っ込む所は引っ込み、出る所は出、それに何より肌の輝きが全く違う。ここに来てから必要最低限のスキンケアしかしておらず、特別パックだってしていないのにこの変化はなんだ。

 頬は明るく健康的な薔薇色で、カサついていた唇も今はリップクリームだって要らないくらいプルプルとみずみずしい。栄養不足で痛んでボサボサだった髪は、いつの間にか本来の素直さを取り戻して、キューティクルを誇らしげに輝かせているではないか。

 こんなに良い状態の自分は見た事がない。二キロ太ったなんて信じられない位……否、二キロの増加でこんなに綺麗になれるのなら痛くも痒くもない。ゆっくりと客の顔色は戻っていき、同時に笑みが広がった。久しぶりに見る自分の笑顔だった。

「それに何より」

 ウサギが穏やかに微笑んだ。

「自分が綺麗だって貴女が気づけたのが、一番の収穫です」
「き、綺麗だなんて!」
「綺麗ですよ、今自分でもそう思ったでしょう! 自分で自分を綺麗と思うのはとっても良い事で、大事な事なんですよ。美しさは数字では計れません、目で見て感じるものなんですから。体重計の数字より、自分の目を信じましょう。貴女は綺麗で、素敵な人ですよ。自信を持って」

 どこまでも優しいウサギの笑顔を見つめるうち、客は鼻の奥がツンと痛くなるのを感じて慌てて下唇を噛みしめて堪えた。こんな風に言ってくれたのは、この若者が初めてであった。

「はい……!」

 確かに数字としてのダイエットは失敗した。しかし代わりに何を手に入れた? 引き締まった美しい体、滑らかな肌、きらめく髪、瞳に光を灯す自信。どう見たって、今の自分の方が良いに決まっている。彼だってこの姿を見れば、納得してくれるはずだ。

 数字なんて関係ない。体重なんて関係ない。美しさはそんなものに比例しないのだ!

 客は身支度を済ませると、カウンターで渋るオーナーにどうにかチェックアウトをお願いし、ホテルから出て行った。ウサギは彼女が見えなくなるまで手を振り、その背中に応援の言葉を投げかけくれた。ここまで付き合ってくれたウサギの気持ちを無駄にする訳には絶対にいかない。

 感謝と嬉しい報告をお土産に、ドリームホテルに帰るのだ!

 

 

 


 久しぶりの大学は、なんだか別世界のように思えた。こんなに日のさす校舎だったろうか、どこもかしこも輝いて見える。道行く生徒達は彼女を見やると、少し驚いた様子で釘付けになっていた。理由は至極簡単。彼女が綺麗になっていたからである。

 友達は皆黄色い声をあげ、彼女の変身を嫌味なしで褒めそやした。前の細さは不健全に見えたが、今はとても健康的に見える。それが美しいと。彼女もその意見に大賛成だ。

 そしてとうとう、その時が来た。自分の少し先を歩く彼を見つけたのだ。暫くぶりに見る彼は全く変わっておらず、友達とバカ話をして笑っている。彼女は息を吸い込むと、それほどの勇気も要らず彼に話しかけた。

「おはよう!」
「ああ、おはよう」

 挨拶のみ。そこで会話は終わった。彼女は一、二度目を瞬かせ、困惑した。他の皆は気づいてくれたのに、この変化に気づかないとは……まあ良い、元々変化に気づく方ではなかった彼だ、期待するのが間違っていたのだろう。

「ねえ、あのさ、私痩せたと思わない?」
「えー?」
「ほら」

 そう言って二の腕を見せる。白く、すっきりとのびた二の腕を見て、男は面倒くさそうに目を細めた。

「あー、少し細くなったかも」
「でしょ!?」
「でもまだムチムチじゃん」

 まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃が客を襲った。ムチムチ? 一体どこが? 急いで自分の腕を見下ろす。いや、どう見てもムチムチなんて表現をされる腕ではない。自負でも驕りでもなく、それは純然たる事実だ。世界中が自分に嘘をついていて彼だけが真実を言っているのでもない限り……もしかして、そうなのか?

 ウサギは自分を元気づけるために、友達は気を遣って、自分を痩せているのだと、綺麗だと言ったのではないだろうか。本当は彼氏の言う事が正しくて、自分はまだまだ太っているのではないだろうか。確かに脂肪が減って筋肉のついた腕だが、世間的には細くもなんともないのではないか。

 油を差し忘れたブリキの人形のように、ギシギシとした動きで彼女は周りを見回した。自分と同じ年頃の女の子達。自分と同じ位細い子は僅かに見受けられるものの、自分より細い子はまず目につかない。どう見ても自分は平均より痩せているはずだ。

 それとも、私の目が、頭が、おかしいのだろうか?

「でも……ダイエット、凄く頑張ったの……」

 掠れた声で彼女が呟くと、男は馬鹿にしたように薄ら笑いを浮かべた。

「頑張ったつっても、結果出なきゃ意味ねえじゃん。間違ったダイエットでもしたんじゃねえの?」
「……間違ってた?」
「いや、俺は知らんて。まあ、その調子でダイエット頑張れよ、デブなんか隣に連れて歩きたくねえからさ。お前デブだからどうせ四十キロ以上あんだろ? 四十キロきったら、ご褒美にデート連れてってやるよ」
「よんじゅ……?」

 よんじゅっきろ。まるで海外の言葉のように、それは耳に入っても脳に届こうとしない。よんじゅっきろ。ヨンジュッキロ。四十キロ。

 四十キロを、きる? 二十一歳で、身長が百六十二センチの、自分が?

「三十五キロ以上とかただのデブだろ、ありえないわ」

 彼は相変わらず、未知の言葉で喋りつづける。

「で、お前今結局何キロあんの? 四十二くらい?」

 彼女は何も言わずぼんやりと彼を見つめ返した。もし、二キロ増えたと言ったならどうなるだろう。今さっき自分で、彼女を細くなったかもと言ったのに。

「お前マジ、病気だよ」

 不意に彼の友達が助け舟を出してくれた。顔は笑っているものの、彼の発言を単なる笑いの種にするには少々厳しいと言う様子が浮かんでいる。

「俺らの年で四十きってたら栄養失調だろ、それ」
「リコちゃん、マジでコウジの彼女やめなよ。こいつイカれてるよ」
「イカれてねえだろ! 好みだよ、好み!」
「だから三十五キロとか普通じゃないんだって!」
「分かってるって、だから好みだって言ってんだよ! 別に平均体重がそうだとは思ってんねえよ、俺にとってはデブかどうかって話じゃん! そんでリコは」

 彼は彼女の肩を抱き寄せると、友人達に戦利品でも見せつけるように胸を張った。

「俺のためにめっちゃ頑張ってくれてるって話。愛のなせる業だろ?」

 至近距離で咲く、彼の笑顔。愛しい愛しい彼の笑顔。この期に及んで尚、彼女が実感したのは、彼への深い愛情であった。彼の友達の言う事は正しい、他の誰の言葉も。彼は酷い男だ。

 それでも、自分は彼を愛している。彼との将来をつかめるのなら、どんな事だってする。

 いくらでも、頑張れる。

「お帰りなさいませ」

 気が付くと、またここに戻っていた。

 エントランスホールに立ち尽くす客に、横から絡みつくような声がかかった。カウンターに両肘をつき、組んだ両指の上に顎をのせたオーナーが、目を細めてにんまりと笑っている。

「お戻りになる頃だと思っておりました」
「……何でですか」
「そりゃあ勿論、お客様がまだ夢を叶えてらっしゃらないからです」

 細く長い彼の指先に、ふいとルームキーが手品のように現れた。客は無表情でそれを見つめ、静かに彼に近寄ると鍵を受け取る。夢。客はその単語を胸中で繰り返した。

 美しくなる事。健康になる事。自信を持つ事。輝く事。素敵な女性になる事。それらは自分の夢ではない。

 叶えたい夢はただ一つ。痩せる。それだけだ。

「……では、存分に夢を叶えてくださいね?」
「あれ!」

 楽しげに囁く彼の笑顔から視線を外し客が歩き出そうとした瞬間、階段の上から大きな声が聞こえた。ウサギだった。ウサギは客を見るや子供のようなあどけない笑みをぱっと浮かべたのだが、彼女の表情を一目見るなり、全てを察して顔色を変えた。

「そんな」

 ウサギは飛ぶように階段を駆け下りてきた。

「だってあんなに頑張って……」
「……もう良いんです」
「じゃあ違う方法を考えましょう! ナイチンゲールを呼んできますよ!」
「本当に、もう良いんです」

 客は干からびた声で、それでも淀みなくはっきりと言った。

「どうしたら良いか、もう分かってますから」

 彼女の足音はカーペットに食まれ、覇気も音もなく歩き出す後ろ姿はまるで亡霊のようだった。ウサギは何も言えずにその場に立ち尽くす。それを見ていたオーナーは、すっと笑みを殺して深い緑の瞳をウサギへと向けた。

「誰の差し金だ?」

 突拍子もない言葉にウサギは驚き、きょとんとした顔でオーナーを見やる。彼はその顔に警戒すら滲ませて、至極真面目にウサギの事を睨んでいた。思わずウサギは振り返り、辺りの様子を伺ってしまった。自分に言われた事だと思えなかったのだ。

「何の話ですか?」
「あの客を助けろと言われたんじゃないのか?」
「ええ? 誰から?」

 なんとも要領を得ない会話だ。ウサギはオーナーのひやりとする程の殺気を和ませるために、わざと大げさに笑って見せた。オーナーは暫く探るようにウサギを見つめた後、やがて諦めたのか溜息をついてカウンターから出てきて言った。

「まあ良い、面倒事は起こすなよ。これ以上あの客に関わるんじゃないぞ」

 そう言って去っていく彼の後姿を見届けると、ウサギは所在なさげにその場に立ったまま視線を床に落とした。意味もなく手を擦って、下唇を噛む。関わろうが関わるまいが、それが彼女にとって何の意味もなさないと言う事は明白だった。

 客は部屋から何日も出てこなかった。数回ウサギが様子を見に来たが、食事も水も受け付けず、ウサギが何をしようともぼんやりとベッドに横になっているだけで反応はない。このホテルの不思議な力が働いているのか、それとも人間の体は元々しぶとく出来ているのか、客は弱りこそすれ、死にそうな様子は見られなかった。

 せっかく輝きを取り戻した肌からはみるみるハリも潤いも失われ、いつしか老人のようになった。動かないせいで筋肉も萎み、細くはなったがどうにもシルエットがぼんやりしたように見える。目は充血し、唇はひび割れ、髪はボサボサになった。

 しかし、ここまでしても限界と言うものは存在する。ある程度体重が落ちると、そこから体重計の数字はうんともすんとも言わなくなってしまった。三十八キロ、まだ三キロも太っている。けれどこれ以上自分ではどうする事も出来ない。食べなくても、飲まなくても、動かなくても、これ以上痩せる事が出来ない。

 おぼつかない意識の中で、客はナイチンゲールを訪ねていた。彼女は客の変わり果てた姿に少し驚いた様子だったが、次の言葉を聞いて更に驚いた。

「手術、してくれませんか……」
「手術ぅ……? なにするのおぉ……?」
「要らないもの、とって欲しいんです」

 客は力の入らない足に鞭うって、ドア枠に身を預けながら呻く。

「肋骨、何本か抜いてください。それに、なくても死なない内臓も、ありますよね。それもとってください」
「うぅうん……切らせてくれるのはぁ有り難いけどおぉ、内臓とるとぉ死ななくてもお生活に影響ぅうでるうわよおぉ……?」
「もう、運動したりするわけじゃないんで、良いです。二個あるものは、一個にしてください。腎臓も、肺も、目玉も、盲腸も要りませんよね、たくさんの人がとってるんだから。それから、死なない所、は」
「子宮」

 ひたりと客の呼吸が止まった。その言葉だけは、ぜいぜい言うナイチンゲールのものとは思えない程はっきりした声で耳に届いた。

 子宮は、とっても死なない。どれくらいの大きさだろう。どれくらいの重さだろう。子宮をとったら何グラム痩せられるのだろう。一グラムだって多く痩せたい。それが、自分の夢なのだから。

 不意に客の脳裡を何かが過ぎった。温かくて、愛しくて、尊い物。彼の笑顔……そして、その横に咲くもう一つの幼い笑顔。小さな唇が動いてかすかに「ママ」と呼ぶ声が聞こえた。しかし全ては一瞬だった。その幻は瞬きする間に霞む分厚い思考のベールの向こうに追いやられ、もう自分が今何を考えていたのかも分からない。

 客の中を突然、冷たい風が吹き抜けた気がした。それが腹の底から胃を舞い上がり、食道を駆けのぼり、口から吐き出された時には、荒涼の地を荒れ狂う恐ろしい一陣の凍える風となって、どこからか運んできた恐ろしい言葉を纏っていた。

「とってください」

 答えた途端に、客の唇は歪な笑みを浮かべ、乾いたそこに亀裂が走り血が流れた。

「子宮も、胸も、お尻も、いけそうなところは全部」

 彼の為ならば、それくらいの努力、何てことはないのだから。

「とって、ください」

 ――目が覚めると、全ては終わっていた。客は手術台の上に横たわったまま、自分の体がぴくりとも動かせない事に気が付いたが、別段怖くも思わなかった。頭がぼーっとする。麻酔のせいだろうか。

「手術は終わりましたよ」

 のろのろと声がした方に目玉を動かすと、何故か手術着を着ているオーナーが見えた。何故ホテルのオーナーがそんな恰好でここに居るのだろう。まさか医者なのか? 同じ手術着を着ているナイチンゲールがオーナーの後ろで血の付いたメスをうっとり眺めているのが見えた。

「お疲れ様でした。とったもの、ご覧になります?」

 トッタモノが何を意味するのか客が理解するより先に、オーナーはさっと目の前に銀色のトレイを突き出してきた。その上には、大小さまざまな体の部位が乗せられており、客は僅かに目を見開く。あれは目玉だ、ああ、だから視界が変な感じなのか。となるとあれは肺、あれは腎臓か。肋骨は思ったより太いんだな、切除された乳房がトレイの上に聳えている様は酷くシュールじゃないか。

 そうして彼女の瞳は自然と、自分の子宮に吸い寄せられた。ピンク色で、テラテラ輝いていて、まるでスーパーで売っている鶏肉に見える。どこか遠くの方で、水の中から聞こえるようにくぐもった誰かの声が聞こえた気がしたが、よく分からない。分かる必要も、もうない。

 一つになってしまった目玉からは、ついぞ涙は流れなかった。ただ、勝手に自分の臓器を売ると言い出し喜んでいるオーナーを眺めているうち、抗えない倦怠感に襲われて目を瞑るなり眠りに落ちてしまった。

 

 

 動けるようになって真っ先にした事は、体重計に乗る事だった。これでようやく三十四キロ。ギリギリ及第点だ。体中を蝕む激痛に絞りカスのような脂汗を滲ませながらも、客は止まることなくずるずると廊下を歩いていた。

 血走った瞳で暗い廊下を見つめ、一歩ずつ自分の部屋を目指す。これで彼も喜んでくれるはずだ。さあ帰ろう。胸を張って彼に会いに行ける。きっと褒めてくれる。抱きしめてくれる。自分がどれだけ愛しているかを実感し、あの笑顔を咲かせてくれる。その空想だけを頼りに、やっとの思いで歩を進める。

 壁に手を突き、足を引きずり、そうやって歩いていると、不意に声が聞こえてきた。一瞬、あまりに会いたいせいで幻聴が聞こえたのかと思った。しかし、違う。確かに彼の声がする。客はどうにか頭をもたげ、声のする方へ向きを変えた。廊下の奥、角の向こう。

 足の裏をカーペットに擦り付けながら歩いていくと、そこには一枚の扉があった。他の部屋の扉と変わらない、木製の古びたもの。しかし、奥から彼の声がする。客は戸惑いながら、ノブに手をかけ扉を押し開いた。

 中は独特な造りをした部屋で、けばけばしい色の壁紙の中に大きなベッドが据えられ、テレビや椅子と言った僅かな物だけがあった。一歩踏み出すとひんやりとしたタイル張りの床が客の足を受け止める。すぐ横には大きな風呂場。壁があるべき場所はガラス張りで、外から丸見えではないか。

 ラブホテルだ。客はすぐにその部屋の正体を悟った。そして、ベッドの上に座ってこちらに背を向けている男の正体も。

「……コウジ?」

 弾かれたように彼は振り向いた。そして、客の姿を認めるや驚きのあまり顔を真っ白にして目を見開く。それはそうだ、誰もいないはずのホテルの部屋に、しっかり施錠したはずの扉を開けて彼女が現れたのだから。

「リコ? え、なに、なんで、は? なに?」
「何してるの?」
「いやいやいや、お前だよ、お前何してんの?」
「私はこのホテルに泊まってるの」
「はあ? なんでラブホに泊まってんの?」
「ここはドリームホテルだよ?」
「はあ?」

 その時、彼の奥からひょいと誰かが顔を覗かせた。今度は客が驚く番だった。その顔はほとんど頭蓋骨に皮膚が張り付いているだけに見えるほどげっそりとやつれ、一目で客に衝撃と恐怖を与えた。女だ。恐ろしいほどに痩せ細った女。顔と同じ様に体もガリガリで、その異常な細さのせいで、彼の陰に隠れて全く見えなかったのだ。

「誰、その子」

 客が呟くと、彼はバツの悪そうに客に向き直った。女もまたおずおずとベッドの上に座りなおしたが、顔色が悪いのはこの状況のせいか元々なのかは定かでない。彼は服を着ていたが、女は下着姿であった。それ故に骨の浮き出た様がよくわかる。彼女の体はただただ、痛々しかった。

「違う、そう言うんじゃない」

 彼はぶっきら棒に言った。

「貴女、大丈夫なの?」

 思わず客は女に声をかけていた。彼女の体を見た途端、湧き上がるかと思った怒りも悲しみも全てが一瞬で消え去り、とにかく女の事が心配になってしまったのだ。

「どうしたの、そんなに痩せて。大丈夫なの?」
「……あたし、病気だから」
「うん、病院は? 薬は?」
「余計な事言うなよ!」

 激昂したのは彼だった。ベッドから立ち上がり、まるで庇うように女と客の間に立つと、彼は客をまっすぐに睨みつけて大声を出した。

「人を精神異常者みたいに、よくそんな酷い事が言えるよな! お前人の気持ち考えろよ!」
「そんなつもりじゃ……」
「この子はこのままで綺麗だろ!」
「……綺麗なの?」

 客は彼の後ろの女を見た。自分より肌は乾き、必要最低限の筋肉の形も見受けられないその体。体が華奢なせいで必然的に頭は大きく見え、そこから生えている髪は鳥の巣のようだ。長さのある本来なら見事なはずの足は、膝が異様にぼっこりと膨らんで浮き出、転んだ拍子に折れるどころか千切れてしまいそうだった。

 瞳は淀み、色も悪く、俯いた女の物悲しげな様子は見ているだけで胸が張り裂けそうだった。彼女は拒食症を患っているに違いない。そしてそれを苦しんでいる。客自身その気があって、物を食べた後に指を突っ込んで無理やり食べ物を吐き出す辛さが急にまざまざと思い出された。

 自分より苦しんでいるこんな可哀想な子を、下着姿にさせて、これから何をしようとしていた? こんなに痩せ細り、身も心も弱り切って、安寧を必要としているこの子に、何を?

「彼は、綺麗って言ってくれたの。彼だけは」

 女はか細い声で呟いた。途端に客の中で何かがはじけ飛んだ。

「綺麗なの?」

 手術着に手をかけ、一気に脱ぎ捨てる。

「じゃあこれも?」

 彼も女も絶句した。女程とは言わないが痩せた体のそこかしこに、悍ましい手術の跡が赤々と残されている自分の裸体。乳房はなく、尻も削がれ、肋骨も抜かれたせいで引きつれたようなぬるいくびれが出来ている。客が一歩踏み出すと、まだくっついていない傷口から血が零れた。本来なら子宮があった場所だった。

「お、お前、それ……!」
「これで、三十四キロ。もうデブじゃないでしょ」

 それから客は女に目を向けると、脱ぎ散らかしてある服をよたよたと拾って突き返しながら言った。

「この男ね、優しいんじゃないの。死ぬほどガリガリの女が好きなイカレた奴なの。もし貴女が病気を克服して、普通の体に戻ろうとしたら全力で止めてくるよ。信じちゃ駄目。だって、良く見てよ、どこが綺麗なの?」

 女はこぼれんばかりに目を見開き、客を見上げた。その乾燥した顔に、客の涙がぽつぽつと降り注ぐ。こんな体になって尚、涙だけは変わらず温かかった。

「私達、ちっとも綺麗じゃない。でも綺麗になれるの……綺麗になれたの」

 綺麗に、なれた、のに。

 客は硬い女の体を一度抱きしめると、服を抱える彼女の耳元で「行って」と囁いた。女は乾いた体に客から流れ出た血を染み込ませながら、泣きそうな顔をして部屋から飛び出していった。後には、凍りついたままの彼と客。

「……ダイエット、凄く頑張ったの」

 一歩近づくと、彼はひゅっと情けない音を立てて息を飲み、後ずさった。

「わ、分かってる、マジで凄い痩せたよ!」
「でもあの子よりデブだって思ってるんでしょ。あの子何キロ? 三十キロある? まだこれでも私、努力足りないかな。これでもデブかな。もっと痩せてた方が良いかな」
「そんな、事ないって! もう十分、十分だから!」
「私、コウジが本当に大好きだったの!」

 客が叫び声をあげると、傷口から血が噴きだした。

「だから望み通り、これ以上無理ってくらい痩せてあげる」

 言うと同時に、手術痕に指を滑らせる。血で濡れた冷ややかな表面から中へ、皮とごくわずかな肉を押し広げて体内にもぐりこんだ指先は、泣きたくなるほどの温かさに迎えられた。冷静でいられたのは、そこまでだった。

 渾身の力をこめて、客は自らの肌を引きちぎり始めた。傷口を広げ、布を裂くように両手で上下に肌も肉も裂いていく。ビリビリと小気味の良い音はせず、ブッ、ズ、と汚らしい音ばかりが聞こえ、上手く裂けずに薄っぺらな肉片をちょっとずつむしりとるのが精一杯だった。

「見える、ほら!?」

 客は金切声をあげ、血で染まる自らの胸骨を彼に見せつけた。赤く汚れた白い檻の奥では、破裂せんばかりに脈打つ心臓の乱舞が見える。その横では片方しかない肺がそれを真似るように収縮を繰り返している。客が首の付け根からブチブチと胸の皮膚を引っ張ると、見事にぽっかりと、胸部の中身があらわとなった。

「要らない、要らない、要らない、こんなもの!」

 自らの胃を胃をわしづかみ、力任せに引きちぎった。続いて腸を両手で掻き出す。ブルブルと揺れながら地面に落ちていく様は、子供の頃駄菓子屋で売っていた安っぽいオモチャのように見えて、こんな時だというのに笑いそうになってしまった。

 彼がとうとうその場にへたり込み、もう何も出来なくて、おごりのように震えながら客を見つめる頃には、客のほとんどの骨格はあらわになっていた。足元には脱ぎ捨てた”不要”なもの。首から顔に向けて両手でむしっていくと、客の顔は失われ、血塗れの頭蓋骨が現れた。

 髪を握り引っ張ると、ぶどうの皮でもむくようにずるりと頭皮ごと綺麗に落ちた。客は最後に目玉と心臓を自らの指で引っ張り出すと、それを彼に向かって投げつけた。

「どう、綺麗?」
「ご……ごめ……俺……!」
「これがあんたの綺麗なんでしょ、ねえ? 細ければ細いほど綺麗なんだもんね?」

 骨の足が床を踏むと、硬質なカタカタ言う音が僅かに聞こえる。腰が抜けて逃げられない彼に客は覆いかぶさると、真っ白の骨の指で優しく彼の頬を撫でた。柔らかく、温かい、人間の頬を。

「私だけなら構わない、でも他の子まで私みたいな思いをさせるのは絶対にだめ。あの子がどれだけ辛いか分かってる? 私がどれだけ辛かったか分かるの?」
「や、やめ、て」
「人の弱みに付け込んで、助かったはずの子を引きずり落とすなんて許せない。これ以上、誰の被害も出させるわけにはいかない。だから、私がここで終わらせるの」

 尖った骨の指先が、彼の目玉にゆっくりと這い寄る。

「私の夢は痩せる事だった、でも、貴方の為じゃない。とことん、徹底的に、もう引き返せないところまでいけば」

 そして、ひたりと瞳孔の真上で止まった。

「私一人の犠牲で、自分が異常なクソ野郎だって自覚してくれるでしょ?」

 抉った瞳から噴き出す血の温度は、骨の指ではもう感じる事は出来ない。骨だけになった体のどこにそんな力があるのか、彼がいくら死にもの狂いで暴れようと、客の腕はびくともしなかった。ただ無心に、正確に、よどみなく、穴と言う穴に指を入れ、そこから引き裂き、肉をむしっていく。

「これくらいで暴れないでよ、私はもっと辛かったんだよ」

 耳を劈く絶叫は徐々に汚れた嗚咽となり、暫くすると静かになった。もう彼は暴れない。ずっと作業がしやすくなったことに気を良くして、客は鼻歌を歌いながらぞるぞると骨に付着する全ての細胞をこそげおとしていき、そしてとうとう、一体の綺麗な人骨を取り出す事に成功した。

 相手には尋常ではない細さを求めておきながら、いざ自分も同じ体になろうとなると全力で抵抗したのは(もう客にはない)はらわたが煮え返る思いだが、動かなくなった骨を見下ろすとダイエットの成功では得られなかった満足感とともに何とも言えない虚しさが湧き上がってきた。

「あんなに皆、言ってくれてたのに」

 客は彼の体を抱きしめて、がらがらと恐ろしく空虚な音を立てて笑い始めた。友達の忠告を無視し、こんなくだらない恋の虜になんてなったばかりに、この有様。もしあの時、ウサギとナイチンゲールの努力によって自分が最高に綺麗になれたあの時に、目が覚めていたら。

 自分より弱り切った女に手を出している様を見なければ、この呪縛は解けなかったのだろうか。その頃には全て遅かったと言うのに。自分にはあんなにもチャンスがあったと言うのに。

 これ以上の犠牲者が出ないと言う透明なバッジを掲げて、愛情の失われたからっぽの骨身で、どうすればいいんだ。

「おやおや、お客様」

 開きっぱなしの扉から、不意にオーナーが顔を覗かせた。部屋の中央で寄り添う二体の骸骨。周りには飛散した肉塊。オーナーは一瞬呆れた顔をしたが、人二人分のそれであるならそこまでの被害ではないと思い直し、客へと近づいて行った。

「見違えるほど細くなられて」
「……私はこれから、どうしたら良いんでしょう」
「とりあえず、こちらのお部屋は掃除させて頂きますので、一旦お部屋にお戻り頂いてよろしいですか?」
「はい……」

 のろのろ客が立ち上がると、骨が擦れる乾いた音が響く。客は彼の骨をそのままにして、力なくオーナーを横切り部屋の外に出て行こうとした。そこで不意に、オーナーが口端を持ち上げた。

「ところでお客様」
「はい」
「骨だけでどうやって動いてるんです?」

 突然放られた爆弾に、客は呆然として自分の体を見下ろした。骨だけ。筋肉はない。模型のように関節を繋ぎとめるボルトがあるわけでもないし、糸がついているわけでもない。骨だけなのだ。

 動けるはずがない。

 気づいた途端、あ、と声を出す間もなく関節と言う関節から骨が外れ、甲高い音を立てながらその場にバラバラと崩れ落ちていった。オーナーをそれを見てくつくつと喉で笑い、骨の山になってしまった客に近づく。山の上にカロンと音を立てて転がった頭蓋骨を見下ろし、オーナーは哀れっぽい笑みを浮かべた。

「狂い切れば良かったのに、下手に現実が見えるようになるからいけないんですよ、お客様。中途半端ですねえ」
「……オーナーさん」

 頭蓋骨がかすかに震え、歯の隙間から声が漂ってくる。

「クズ男を捨てきれない馬鹿女って、こんな仕打ちを受けるほどの事ですか……?」

 真っ暗な眼窩に最後に映し出されたのは、耳まで裂けんばかりに深い笑みを見せるオーナーの顔だった。

「はい、勿論」

 それきり、骨はもう何もしゃべらなかった。

 オーナーはふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、屈みこんで元客の骨を拾い始めた。大腿骨だろう太い骨を一口齧って、すぐに眉根を寄せて唾を吐き出す。

「ううん、栄養失調の骨じゃあダシにもならないか。まあ良い、シェフに渡せば何か作ってくれるだろ……ん?」

 ふと顔をあげると、いつの間に来たのか戸口にウサギが立っていた。室内の惨状を見、オーナーが拾っている骨を見、全てを察して僅かに肩を落とす。

「駄目だったんですね」
「馬鹿は自然淘汰されるのがこの世の摂理だからな」

 オーナーは立ち上がると、ウサギの手に小さな骨を渡した。小さく、サンタクロースの帽子のような三角形をしている。小指の骨だった。

「とっとけ」
「え、なんで?」
「さあね」

 ウサギを押しのけ外に出て、部屋の扉を閉める。オーナーは骨を抱え直すと、意地の悪い笑みを浮かべた後、食堂に向かってい歩き出した。

「弔いか戒めか、好きにしろ」

 去っていくオーナーの背中から、視線を目の前の扉に移す。扉を開けたらまだあの部屋に通じて、客だったものを見る事が出来るだろうか。それとも、ドリームホテルの誰もいない部屋に戻っているのだろうか。

 ウサギは静かに掌に転がる骨を見つめた。彼女が細い指をしていたのは分かっているが、いざ骨として見ると冗談のような細さだと改めて思う。こんなになって、生きていたのだ。

「救えたのに」

 突然声が聞こえた。耳にではなく頭の中に直接響いたもので、高い子供の物悲しげな声だった。その声は酷くかすかであったが、ウサギの脳内で閃光のように炸裂すると、開いた花火の輝きがゆっくり落ちていくようにウサギの頭の中に沁みわたった。

 その通りだ。

「救えたのに」

 自分なら、彼女を。今度は自分の唇から自分の声として滑り落ちた言葉を耳で聞き、ウサギの頭は真っ白になった。確かに恋に溺れた子だったが、まだ未来はあったのだ。自分ならなんとかできたはずだったのに。そう思った途端、じわりと目頭が熱くなる。

 この時ウサギは、普段真っ赤な自分の瞳が明るい茶色になっていたのに気が付かなかった。否、”なっていた”のではなく”戻っていた”なのだが、鏡がなければ本人が気づくはずもない。しかし、一人だけ気づいた者が居た。

「……ウサギ?」

 ウサギは弾かれたように声をかけてきたステーキを見た。慌てて涙を拭い、いつも通りの呑気な笑顔を浮かべる。瞬きする間に瞳はまた赤くなったが、ステーキの淀んだ暗い瞳は、確かに茶色のウサギの瞳を見ていた。

「あ、また抜け出したんですか、ステーキ。ついさっきオーナーがあっちに行ったから、行かない方が良いですよ」

 気持ちを切り替える必要は特になかった。ステーキに声をかけられた途端、ウサギの中に満ちていた悲しみは霧散したのだ。ウサギはすっかりウサギに戻っていた。

「……泣いてたね」
「そーなんですよー!」

 ウサギはステーキに骨を見せ、大げさに痩せ細った体に抱き着く。

「ダイエットのお客さん、結局死んじゃったんです! あんなに頑張ったのに、もう、凄く寂しくて! そうだ、ステーキ、私の事物理的に慰めてくれません!? 大丈夫、ステーキは寝てるだけで良いですから!」
「やめて、やだ、やだ……!」

 鎖を鳴らしながらステーキはもたもたとウサギの腕から逃れると、急いで廊下の奥に走っていってしまった。ウサギはその背中に「いけず」と声をかけるが、無理に追う事はしない。

 静かになった廊下で、ウサギは優しく骨を握りこむと、拳ごとポケットにそっと入れて自分の部屋に向かって歩き出した。”戒め”を、なくさない場所に保管するために。

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