どこかのアリスの日記
11
「震えが止まらないの」
「原因はおれにも分からない」
「辛いわ」
「どこが?」
「特に手が」
「君には口があるだろう」
「私は手を使いたいのよ」
「君は元々貧弱だから」
「あんたに言われたくないわよ、ガリガリの癖に」
「君が食べないからだよ」
「私これでもちゃんと食べてるわ。今だっておなかすいてるし」
「今は食べちゃいけない」
「チョコは食べるけどね」
「そら、おれの寿命がまた縮む」
12
白と黒がお互いをひっかきあって世界が目に優しい。
だけどどことなく灰色が紛れて必死に隠れてる気がするのは気のせいかしら。
私が白の王に言うと「そんな馬鹿な!」と白の王。
私が黒の王に言うと「そんなアホウな!」と黒の王。
「あなたたちの世界は随分幼稚なのね!」と私が叫ぶと彼らは憤慨して私を襲ってきた。
銃でないだけマシだけど、ナイフも槍も痛いもの。
私が必死に逃げていると、いつの間にか彼が隣を走ってた。
「君の足が遅いのは矛盾をいくつも抱えてるからさ」と彼が言う。
私は走るのが辛くて、イライラして、彼をけとばして城から逃げ出した。
彼ら黒と白は私のめのまえでぶつかり、混ざってぐちゃぐちゃになって城は灰色まみれになった。
二人の王は発狂したけれど、灰色の中からまた灰色の王が現れるので大丈夫。
私はそれでもまだひっかきあっている黒と白の空気を指で引き裂いて、湖の藻みたいにかきまぜながら進んだ。
悪魔が存外近くで愛をささやいている。
彼は悪魔に唸って殺そうとしているが、私は礼儀正しく挨拶をしてから無視をした。
早くいかないと彼女が気づくし、虫が追いかけてくる。
トンボまでの距離が分かれば、走る元気もでるのだけど!
13
私が目を覚ますと外は酷いありさまだった。
巨大なクッキーの箱に乗った伯爵が、大声で誰かを罵りながら人を集めている。
私は近づいてみると、ひとだかりの中に紛れて伯爵の言葉を聞いた。
「今こそこの世界を変える時です! 彼女は我々に何をしてくれましょう! 彼女はただただ逃げ惑い、自分勝手にわめいてはチョコレートばかり食らっていく! この世界の事など気にせず、気味の悪い猫といるうえに、時計の人権を無視して悪魔と踊ろうとしているのです! このままではこの世界は崩壊し、チョコレートは絶滅するでしょう!」
人々は大声で野次を飛ばしたので私は嬉しくなった。
きっと彼らは彼女を殺すのを手伝ってくれるんだわ!
私だけなら敵わないけど、みんな一緒なら大丈夫!
私はそう思った。
「彼女だ!」
伯爵が叫んで、私は勘違いしてたのだと気づいた。
人々は一斉に私を見て、迫ってくる。
酷い殺気に脅えていると、急に現れた彼が吠えて、私の手を噛んだ。
私をハッとして彼に怯む人々を突き飛ばしながら走りだし、どんどんと逃げた。
「君はとにかく風呂に入るべきだ。酷い殺気がついてるよ」
と、隣を走りながら彼。
私が振り返ると誰かがクッキーの箱を押して彼らはぞろぞろ移動していた。
伯爵はクッキーの箱の上でずっと演説していたけれど、たまに人々の中から適当な人を見つけ、「彼女だ!」と叫んだ。
彼女と言われた人は、人々に飲み込まれて見えなくなり、身も凍る様な叫び声が聞こえた。
「政治家は酷いもんだ」彼が物うげに呟いた。
私は口の中が気持ち悪くてしょうがなく、葡萄が食べたくてしょうがなかった。
14
彼は急に立ち止まって「見ろ、風邪だ」と言った。
「風邪も風も見えないわよ」と私は言った。
「知った事か、見ないとならないんだ。避けられないぞ!」
強い風が私を巻き込んで逃げていったが、それだけだった。
私がぽかんとしていると、彼は怒った。
「そら、風邪になったぞ」
「風邪くらいなによ」
私は喉が痛くて鼻がまた詰まった。
とても喉が渇いた。
でもきっとそれを言ったら彼は怒るので、私はゲホゲホしながら黙っていた。
お風呂はとても広くて、湯気だらけ。
霞む靄が辺り一面に漂っていて、とても良い空気だ。
「ゲロしたいわ」と私が言った。
「ゲロなんて言うな、女だろう」と彼が言った。
私は憤慨して「私、自分が女だなんて思ったことないわ」と訴えた。
「君が女でないならおれが女にならなくちゃならない。そんなの嫌だ」
「なんだって良いじゃない、性別なんて下らないわ」
「ああ、中身の話はよしてくれ。厄介の種だ」
裸になった私の横で彼はぶつぶつ言っている。
湯船に使って背中を壁につけたら痛かった。
私がそう言うと彼は「だから食べろと言ったろう」と言う。
魔女もしょっちゅうそんな事を言っていた。
「私を太らせて食べる気なのよ」と私が言うと「おれは君を食べたりしないよ」と彼が笑う。
「そんなガリガリじゃ、私じゃなくたって食べないでしょう」と私が言うと「君が食べないからいけないんだ」と彼が怒る。
一杯のカレーライスを食べるのは簡単だというが私は信じない。
私が暖かいお湯の中にいると、彼はお風呂の縁にだらしなく座っていた。
「体と同じ温度の水に入ったら、何も感じないのかしら」
「重く感じるよ」
「水の中の感触はするの?」
「あんまりしない。空気が固形化したような感じだ」
「それって気持ち悪い事ね」
「やっぱり君は女だよ」
「なんなの急に」
「二つの胸の膨らみは、なんでも出来る証拠だろう。ささやかだがね」
「ささやかな二つの膨らみは、あんたの股間にもぶら下がってるでしょ」
「最低だ!」
彼は消えようとしたけれど、靄の向こうに悪魔がいるのに気がついてしかめ面でそこに居た。
悪魔は私と一緒にお風呂に入っている。
私はあまり気にしないけれど、彼は威嚇していた。
15
暖かい存在はなんだって心地良い。ベッドもお風呂もミルクも。
私が気づくと悪魔はすぐ隣に居た。
「こんにちは、お嬢さん」と悪魔が言った。
「こんばんは、悪魔さん」と私が言った。
彼はずっと唸っているから大変だ。
靄を吸い込むと体の中が潤って、喉が少し楽になった。
私は深呼吸をいっぱいしていた。
「喉が渇きませんか」
「え?」
そう言えば私は随分お風呂に使っていた。
もう殺気はなくなっていたし、いい加減に出ないと体が溶け始めている。
確かに喉が渇いていた。
「ええ、乾いたわ」と私が言うと「ならあがりましょう、私は飲み物を持っているんですよ」と悪魔が言った。
途端に彼は吠えたのだけど、浴場に声が反響してぐわんぐわん耳に響いてすごく煩かった。
だから私は彼の頭を叩いて、悪魔に続いてお風呂から出た。
彼の頭の天辺からチョコチップアイスクリームのにおいがする。
さっきの彼の咆哮で、タイルの国の人々は大体死んでしまっていた。
私は彼らの死体と王国を踏みながら外に出て、涼しい風に良い気分。
暴れる彼を下ろすと、悪魔は不思議なものをくれた。
それは片手に収まる三角錐だった。つるりとしていてピラミッドみたい。
「尖っているところを吸って御覧なさい。君の好きな飲み物が出てくるよ。何が飲みたいですか?」と悪魔が言った。
「ならミルクティが飲みたいわ」と私が言うと、悪魔はにっこり笑って手でそれを飲むように勧めてきた。
私は天辺の尖っているところを唇に含んで吸ってみた。
驚き桃の木山椒の木! なんて美味しいミルクティなの!
私はとても喉が渇いていたので、全部飲み干してしまった。
三角は中身がなくなると、老いたヤギの様に萎びて私の手から水の様に滑り落ち、なくなってしまった。
「ありがとう、美味しかったわ」と私は悪魔にお礼を言った。
「いいえ、貴女が喜んでくれて嬉しいです。飲みたくなったら何時でもどうぞ。あの三角吸いは持っている人と持っていない人がいるけれど、私は体のどこからでも好きな飲み物が出せるんだ」
「どうして?」
「私は人の役に立てる悪魔だからね」
悪魔はいつの間にか大きな剣を腰にさし、とても立派な勇者の様な井出達になっていた。
それから優雅に礼をしてくれたので、私は悪魔にも良い悪魔が居る事を知った。
「それでは、また貴女が喉の渇いた時に。それまでさようならアリス」と悪魔が言ったので私はびっくりして「私、アリスじゃないわ。どうしてアリスと呼ぶの?」と聞いた。
「呼べない名前がこの世にあるから」と悪魔は笑って、消えてしまった。
私はびっくりしたまま、私はアリスじゃないわよねと彼に聞くと、彼は憤慨した様子で「君はアリスじゃなく馬鹿だ!」と叫んで消えてしまった。
一人裸でぽつんとしていると急に暗くなったので、私は大慌てで服を着た。
魔女の予言が迫ってきている気がする。
16
巨人は起こさないように!
そうっとそうっと階段をのぼる。
巨人は背中を向けていて、ぐうぐう大きないびきをかいてる。
起こさないように起こさないように!
心臓のドキドキで起きてしまわないだろうか。
私は災難続きで、巨人を越えると森に行かなければならないのだ。
必要なチョコレートとカーディガンを取ったら、また巨人を起こさないように!
一瞬いびきが止まって冷や汗。
魔女が下で巨人を呼ぶ前に行かなければ。
私は最後の三段を飛び降りて、そのまま兎の様に走り出した。
或いは猫の様にだったかもしれない。
魔女は憤怒して鎌を振り回していたけれど、巨人が上で暴れだしたので家が潰れて死んでしまった。
魔女はまだいるのだ。
森は綺麗だったけれど単調でありきりたりだ。
忘れてしまう森らしいので早く抜けなければならない。
どこからかイライラする笑い声が聞こえる。私を笑っているんだ。
「不愉快だわ」と私が言うと「おれもさ」と彼が言う。
私は気にせず湖によって、中を覗いた。
ああ、なんて汚い湖なの!
「手を突っ込んで水面をバシャバシャやって揺らせば、汚いものは見えなくなる」と彼。
私は早速それを試した。
確かに汚いものは歪んで消えてしまったけれど、別の物が水面に浮かぶ。
ありえないものだ。
「まあ、お父さんとお母さんだわ!」と私が叫ぶと、彼は私の横に来て湖を見下ろしていた。
「そう言えば私の両親はどこへ行ってしまったの?」
「何の話だ?」
「私の・・・りょ、りょ・・・・・ええと、お父さんとお母さんよ・・・・あれ、お父さんとお母さんてなあに?」
「両親だよ」
「あれれ?」
「君に両親なんていたのかい」
「両親ってなあに?」
私は顔をあげて胸いっぱいに森の空気を吸い込もうとしたのだけれど、鼻が詰まっているのを思い出してがっかりした。
彼は嬉しそうに笑っているので、私にとって何か不愉快な事があったのだろう。
でも私は覚えてないので特に問題は無い。勝手にすれば良いんだわ。
「君にはおれしか居ないのさ」
「あんた誰よ」
「誰が良い?」
「もううんざり」
私は立ち上がってガリガリの猫を蹴飛ばし、目の前の道を歩き始めた。
汚い湖で足止めしている理由も無い。
ただあすこの鳥は焼いても食べられないだろうなと思い、その理由は小さいからだわ、と納得する。
そうすると私も誰かに食べられる心配はないので、安心した。
私はそこら辺の岩をいくつか持って、私を襲う蚊を打ちのめした。
空から落ちてきた蚊を太い棍棒で更に打ちのめし、最後にナイフでズタズタに裂いた。
それを見た蜘蛛が怯えて逃げ出したので、私は頭に来てその後を追った。
途中でチョコレートがあるのに気づいて立ち止まったが、そこはもう忘れてしまう森ではなくただの森になっていた。
私は後ろに無数に散らばる色々な死体を振り返り、自分が返り血だらけなのに気づいて吐き気がした。
そしてそのまま吐いた。
お腹が痛くなったけどしばらくしたら元気になったのでまた歩き出した。
振り返ると、嘔吐物の中に口の中の大切な人が居て仰天した。
新しい人を連れてこなくちゃ。
17
私が嫌いで彼が好きな醜い男が消えてしまうらしい。
私はどうでも良かったし、未来に希望を見ていたけれど、彼は打ちひしがれてがっかりしていた。
最近一人で私はいるけれど、ぬいぐるみを心配している。
この前綿が出ているのを見てそれきりだ。
私は蜘蛛の所に行って糸を分けてもらえるように頼んだ。
「糸を少し下さいな、ぬいぐるみを縫うんです」と私が言うと「あんたが自分で裂いたのに、また縫い直してどうするのさ」と蜘蛛が言う。
「縫わなきゃまた避けないし、避けたら縫わなきゃいけないの」と私。
蜘蛛は私に向かって唾を吐いた。
私は頭にきてそのお腹にナイフをさして、思い切り裂いた。
蜘蛛のお腹から小さな蜘蛛の子供が飛び出して、泣きながら母親にすがっている。
私は不憫に思ったので「貴女の糸をくれれば、お腹を縫ってあげるわ。蜂から針を取ってきてあげる」と言った。
蜘蛛は糸をくれるのを約束し、私は蜂のところへ行った。
蜂は話にならなかった。
針をくれないと言うので私は蜂を殺し、死体から針を抜いて帰った。
蜘蛛から糸を貰ってそのお腹を縫い合わせると、蜘蛛は約束どおり糸をくれた。
私がぬいぐるみを縫い直していると、ぬいぐるみは針を刺すたびに大声をあげるので彼に頼んで口を塞いでもらった。
ぬいぐるみは途中で気絶してしまったので、後半は楽に縫えた。
これで全部元通りだ。
蜘蛛の子供は小さすぎるので歩いていたら踏んでしまった。
蜘蛛は特に気にしていないようだった。
私はどこかに双子がいるのではと警戒したが、吐き気がしたのでどうでもよくなった。
「私は自殺会議に出る人よ」と蜘蛛が言った。
私はメモを確認した。
「なら自殺会議を開いてくれない?」と私が言うと「他の人を呼んでみるけど、少し時間がかかるわよ」と蜘蛛が言った。
お願いして蜘蛛と別れるといつのまにか彼は木の上に居て、やれやれと首を振っていた。
私はそんな態度が癪に障ったので木を蹴っ飛ばして折ってやった。
彼は無様に木の下敷きになって苦しそうに呻いた。
18
うるさいうるさいうるさい。
子供達は狂気にかられてしまった。
話声は大きく小さい。
時々笑ってるのが腹立たしい。
彼らを誰か殺して欲しい。
彼らは私の眠りを邪魔する。私はイライラする。
なんて耳障りな存在なの!
巨人は隣で歌っているし、もううんざりよ。
こういう時だけ魔女は眠っている。もしかしたら魔女の方が辛いのかもしれない。
こういう時だけ魔女の心配をする。
私が狡猾な証拠だ。
私は返り血を持て余している。
ぬいぐるみに飲ませようかしら。
悪魔が時々笑って私の上をとんでいくけれど、その度彼は出てきて威嚇した。
私はなんだか喉が乾いていたので、三角吸いの夢を見るんだろう。
そう考えていたらベッドが私をがっしり掴んできたので私は叫びたくなった。
19
私は必死にはめようとしたのだけれど、僅かに間に合わなかった。
一人が妙な所へ落ちていき、皆が一斉にブーイングする。
「私じゃない! 私じゃない!」と丸が叫んだ。
本当に丸のせいじゃなかったのだけれど、丸は爆発して吹き飛び死んでしまった。
皆は大喜びした。
丸は最後に私を見た気がする。
私は大声でなきわめいたが、歓声に紛れて誰も気づいてくれなかった。
彼もいないしプリンもない。
チョコレートは少し遠いし、どうしよう。
子供達は相変わらず狂気の中で笑ってる。
鼓膜を破ってしまいたい。
20
石鹸淑女が私に言うの。
さよならら・ら・ら 空見て笑う
”蛇の裏切り これ一度きり”
言った人よしスティーブは
帰って来ない もう見ない
馬鹿な倅は 金使い
今じゃ立派な 桜の根
「良い歌ね」と私が言うと「ありがとう」と石鹸淑女。
素敵なレディのお辞儀は素敵。
私はなんだか顔が赤い。
石鹸淑女の手は良い匂いがしたし、白くてツルツルで柔らかだ。
「歌いたい時はいつでもどうぞ」
ああ、私ようやく一つ素敵な場所を見つけたみたい!
いつの間にか彼が隣に居て、彼もなんだか嬉しいようだ。
「尻尾が揺れてるわ」と私が言った。
「お洒落だろう」と彼が言った。
私は心底そう思ったけれど、後ろを向いても私に尻尾は無かった。
別に良いの、歌があるから。
私がケラケラ笑っていると彼も笑ってくれた。
石鹸淑女は不思議そうな顔だったけれども。