1 : I'm a creep.
ノエル少年とアレックス博士は、真っ暗なガレージの中で息を殺し、二人並んで机の上のペトリ皿を食い入るように見つめていた。皿の上には白い粉がこんもりと盛られており、アレックスは先ほどからそこに細いガラス棒を突っ込んで丹念にかきまわしている。その手元を紫色のライトが怪しげに照らしていた。
二人は特殊なゴーグルをかけていて、紫の光しか光源のないガレージの中でも不自由なく物を見る事が出来た。とは言え暗視ゴーグルに似た視界は慣れるものではなく、世界は全体的に緑がかっている。アレックスが先ほどこのゴーグルについて説明をしてくれたのだが、ノエルはこのゴーグルの優れた能力について一つも理解が出来なかった。
それでも別段、構う事はないのだ。このゴーグルの能力を余すことなく使う必要があるのはアレックス一人で、ノエルはおまけで横に座っているにすぎない。アレックスのゴーグルからは望遠鏡のような妙なでっぱりが出たり引っ込んだりしているし、極細の赤いレーザーが時折放たれる。どういう意味なのかノエルには分からないが、分かる必要もないだろう。
やがて、丸めていた背中をゆっくり伸ばしながらアレックスが溜息と共に唸った。
「よし、ガレージの電気をつけてくれ。失明したくなきゃスイッチを入れる前にゴーグルを外すんだぞ」
ノエルは椅子から立ちあがり、言われた通りゴーグルを外してから壁際のスイッチを入れた。先ほどまでの妖しい実験室然とした雰囲気は消え失せ、たった今自分が何者かを思い出したと言わんばかりに極一般的なガレージが蛍光灯の灯りのもとに本来の姿を取り戻した。ただし、車庫と言う割に車に関係のないものばかりで、しかもそれらは普通の人々が日常生活をしているうえでまずお目にかかるものではない事を除いての”一般的”であるが。
「それで?」
アレックスの横に戻ってきたノエルは、興味津々で彼を見た。アレックスは目頭を指で揉みながら、大きく息を吐き出す。
「ああ、このパンケーキミックスにダニは居なかった」
ノエルはぽかんとしてアレックスを見つめた。一体誰がこんな回答を予想したというのだろう。
「……ダニ?」
「ああ」
「この粉、パンケーキミックスなの?」
「コカインとでも思ってたのか?」
「じゃあ僕ら、もう十五分もひたすらパンケーキミックスをつつきまわして、ダニがわいてないか調べてたわけ?」
確かに、アレックスは何をするのか説明しなかった。と言うか、彼が作業をしにガレージに行くと言ったから、ノエルは何か”科学”っぽい事をすると思って、勝手についてきたのである。仰々しくペトリ皿に乗せられた白い粉はどうみても薬品か何かに見えたし、あんな大層なゴーグルをかけていたものだから、何か凄い事をしていると思っていたのだ。
ノエルはぼうっと虚空を見つめ、気の抜けきった声で呟いた。
「……じゃあつまり、僕らは世界一の暇人って事だ」
「もう違うぞ、今からこれでパンケーキを焼くからな!」
ペトリ皿を両手で高々掲げたアレックスは、ノエルの落胆等つゆ知らず満足げに自分の成果の余韻を噛みしめている。その時不意に、甲高い軋んだような音が聞こえた。何の音かと振り返ったノエルの目に飛び込んできたのは、作業台の上に先ほどまでは存在しなかった小さな物体。
黒っぽい灰色で、五センチほど、その先端から細長い尻尾が伸び、ノエルの事をてらてら輝くビーズのような真っ黒に濡れた瞳で見つめている……ネズミ。
ノエルは自分の目に何が映ったかを理解した途端、少女のそれと同じかそれ以上に甲高い悲鳴を張り上げた。と、同時に色々な事がいちどきに起きた。まず、ガレージを照らしていた蛍光灯が悲鳴に呼応するように弾け飛び、その耳を劈く破裂音で(あるいは耳を劈くノエルの悲鳴で)ネズミは驚き鳴き声をあげて逃げ出し、暗闇に飲まれたガレージ内に「ノエル!」とアレックスの怒声が響き渡った。
怒涛のアクシデントが終われば、後はパニック気味に喘ぐノエルの声が聞こえるばかり。アレックスは忌々しげにため息を吐き出すと、冷静に壁を手でまさぐってスイッチを探し出しガレージのシャッターを開けた。シャッターは神の降臨でも演出するような仰々しさとじれったさで庫内に眩い朝日を運び入れ、再び周りが見えるようになった。
さて子供に嫌みの一つでも言ってやろうとアレックスが振り返ると、予想外の光景にぎょっとして目を瞠った。ノエルはアレックスの愛車である1977年式のビートルの上に、体を丸め、頭を抱え、浮いていた。もちろん何かに捕まっているわけではない、本当に空中に浮かんでいたのだ。
アレックスは咄嗟にガレージの外に目をやり、幸いにも通りが無人であることを確認すると、急いでノエルの足をひっつかんで乱暴に子供を引き寄せた。
「馬鹿野郎、さっさと降りろ! 人に見られたらどうする!」
ノエルは死に物狂いでアレックスの腕を逃れようとする。
「やめて、嫌だ、あれがいる! あれがいるよ!」
「ネズミならお前の女みたいな悲鳴で逃げたよ!」
「あうっ!」
ほとんど地面に叩きつける勢いでノエルを引きずり落とすと、少年は強か打ち付けた尻の痛みに声をあげた。しかし痛みなんて気にしている場合ではない。ノエルはぱっと飛び上がって、アレックスの後ろに隠れながらこぼれんばかりに見開いた目でガレージの中を見渡した。
「ほ、本当に、居ない……!?」
「まったく、十六にもなってネズミ一匹で大騒ぎして呆れた奴だな」
「一匹じゃない、まだ何十匹も隠れてるんだよ!」
「落ち着け、腰抜け坊主。目が赤いぞ、さっさと戻せ」
軽く頬を叩かれたノエルは、アレックスの言葉の意味をワンテンポ遅れて理解すると、ガレージ内の惨状を見てようやく自分が何をしでかしたかを理解した。アレックスが突然何の理由もなくガレージ中の蛍光灯をノエルが悲鳴をあげている間に叩き割りまくったのでなければ、これはつまり、ノエルがまたパニックになった拍子に普通ならざる力……俗世的な言い方をすれば”超能力”、アレックス的な言い方をすれば”ちょっとしたタネなしの手品が出来るくだらない力”……を暴走させたと言う事である。そう言えば今の今まで自分は宙に浮いていたじゃないか、今ようやくそれに気が付いたなんて。
自己嫌悪に苛まれながらノエルは真っ赤に染まった瞳孔を瞼の奥に封じ込め、上から両手でごしごしとこすった。これに効果があるのかは疑問だが、次に目を開けた時には、彼の瞳はいつも通りの明るい緑色に戻っていた。自分の意志であろうとなかろうと、力を使うといつもこうなってしまうのは厄介で仕方がない。
「アレックス、あの、ごめん、怪我してない?」
「少し破片を被っただけだ。お前は?」
「僕は平気」
アレックスは一度白衣を脱いで割れた蛍光灯の破片を払いながら、ちらりとノエルを伺った。ガラスを被っている様子はないし、怪我をしてるようにも見えない。彼は一瞬でノエルに異常がないと見とめると、白衣を着直しながら口を開いた。
「じゃあ掃除しろ」
ほんの一瞬優しさを見せたかと思いきやアレックスは冷たくそう言い放ち、ガレージの隅に置いてある箒と塵取りを指さした。もちろん、犯人であるノエルがこの命令を拒否する権利等あるはずがなく、少年はとぼとぼとそちらに向かって歩いていく。彼の背後でアレックスが自動掃除ロボットのスイッチを入れたのに気が付いたが、それはそれ、これはこれだ。掃除は罰としてしなければ。
ノエルが箒に手をかけると、ふとその横に何かが転がっているのに気が付いた。何やら小ぶりの懐中電灯に似ているそれは、けれども電球が見当たらない。これでは光が点るはずもないのだが、ここはアレックスのガレージだ。きっと彼の人類史上稀にみる高さにまで築き上げられたプライドを支えるご自慢の頭脳が開発か改造をした特殊仕様なのだろう。ノエルはそれを拾い上げると振り返ってアレックスに声をかけた。
「ねえアレックス、これ何?」
「なんだ、何を持ってる、どこにあった」
「隅に転がってた。懐中電灯?」
アレックスはノエルの手に収まっているものの正体を一目で見極めたのだが、残念ながら、制止の声は少年の指がそれのスイッチを押し込むのに間に合わなかった。
「よせ!」
「え?」
ノエルののんきな声はレーザービームが射出されたいかにもSFっぽい音でかき消された。咄嗟にアレックスは床に転がって、ガレージの壁という壁に恐ろしい焼き跡を刻み込むレーザーから間一髪で逃れると、彼の年齢からは想像も出来ない程俊敏に身を起き上がらせてノエルの方を見やった。
少年はぽかんとしたままその場に立ち尽くしている。何も言わない。瞬きもしない。一瞬の不自然な間。と、不意にノエルの顔が下へと二センチ程ずれた。と思うや、そのまま顔はずるりと床に落っこちてしまったではないか。
「ジーザスクライスト!」
神なんて信じていないアレックスでも、驚いた時にはやはりこの文句が口をつくのである。ワンテンポ遅れてノエルの残りの部分が糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。アレックスは急いでノエルの死体に駆け寄った。
可哀そうなノエル。レーザーはノエルの顎下から真上に放たれ、顔面をそれがマスクででもあったかのように綺麗に削ぎ落してしまった。床に落ちているノエルの顔は、自分の死にも気づいていない様子でぽかんとした表情を保っている。血はあまり出ていなかったが、体の方に残っている剥き出しになった脳みその断面からは、ピンクと白が混ざり合ったとろりとした液体がゆっくり溢れてくるのが見えた。しかしなんと綺麗な断面だろう。まるで、恐ろしく高画質でフルカラーのMRI画像でも見ているようだ。グロテスクと言うには、あまりに医療的な切断面である。
そんな有様の前に来て、真っ青な顔をしたアレックスがまず手を伸ばしたのは、まだ温かい少年の手……に、握られたこの惨事の元凶である懐中電灯だった。ノエルの死を悼むことはなく、それどころか、気にした様子さえ見せない。それよりも、このレーザービームを繰り出す小型懐中電灯がここにあると言う事実の方に、彼は打ちのめされているのである。
「まさかガレージの隅なんかに転がってるとは!」
アレックスは心底悔しそうに声をあげ、歯を食いしばった。
「まったく、自分の管理能力のなさに嫌気がさす! こんな危ない物をそこらへんに転がしておくなんて、お前は一体何を考えてるんだ、アレックス・ヴァレンタイン! どれだけ最高の発明をしたところで、こんなずさんな管理じゃ……!」
恨み言はいくらでも続けられるが、自分を罵倒したところで事態は1ミリも動き出すことはない。アレックスはそれ以上の自分を呪う言葉をなんとか飲み込むと、大きく息を吐き出してぐいっと懐中電灯を白衣のポケットに突っ込み、代わりにスマートフォンを取り出した。
奇妙な部品を取り付けたどこのメーカーのものでもないその携帯は勿論アレックスの発明品であるし、勿論ただの携帯電話ではない。アプリを開き、慣れたフリック動作で年代、月、日付、時間を入力していく。最後に起動のボタンをタップすれば、まるで静電気の舌で全身を舐められる様な奇妙な感覚に襲われた。
同時に、そこだけ光の屈折が馬鹿になってしまったように全てが歪む奇妙な空間が現れた。縦横二メートル程の範囲で、万物はぐにゃぐにゃと己の形を忘れて捻じ曲がり、凹み、あるいは吸い込まれるように細くなっている。ノエルはよくこの時空にぶち開けたタイムポータルを見て「透明のプレデターが乱闘してるみたい」だなんて言っていたっけ。
アレックスはちらりとノエルの死体に一瞥をくれた後、唇をきゅっと結んでそのポータルの中に入っていった。全身の毛が総毛立ち、最早舌で舐められると言うよりは静電気の口の中に直接放り込まれたと言った方がしっくりくる感覚に襲われる。けれどそれは一瞬で終わり、瞬きする間にアレックスの靴底は再び硬質な床を叩いていた。
そこは先ほどまで自分が居たガレージだった。しかし一寸先も見えない程真っ暗だ。開いていたはずのシャッターはぴったり閉じられているし、肉眼で確認は出来ないもののノエルの死体が転がっている気配もない。アレックスは手探りで扉を探してガレージを抜け出すと、そのまま家の中に入っていった。
家の中も真っ暗だった。とは言え密室のガレージとは違い、白み始めた外の青白い光が窓から入り込むおかげで、大体のものの輪郭が見てとれ、歩く分には支障がない。彼はずんずんと自分の寝室に向かうと、扉を開けてベッドに近づき、眠っている人物を見下ろした。自分である。
「おい」
不機嫌極まりない声を出し、乱暴にベッドを蹴りつける。眠っていたアレックスは驚きに声をあげて飛び起き、まだ縛っていない肩まである白髪を振り乱しながら辺りを見回した後、すぐ横に立つもう一人の自分に気が付くと、同じくらい不機嫌な声をあげた。
「なんだいきなり! 畜生、いつの俺だ!」
「二時間半後だ。でかい声を出すな、ノエルが起きる」
「おい冗談だろ、朝の四時半? わざわざこの時間に来る必要あるか?」
「良い嫌がらせになったろ。ところで、先週失くした懐中電灯型レーザーガンを覚えてるか。ガレージの箒と塵取りの横に転がってる。今から行って、さっさとノエルが弄らない場所に移動させろ」
「それくらい自分でやれば良いだろ!」
「この時間の主はお前だ、天才野郎」
眠りを妨げられたうえに我ながらあっぱれな厭味ったらしい口調で命令され、頭にきたもう一人のアレックスは未来から来た自分に殴りかかろうとしたのだが、自分で自分を殴れば結局痛い思いをするのは自分なのだと思いとどまると、盛大な舌打ちと共にベッドから起きだした。
「まったく、良いご身分だよな、面倒事は過去の自分に押し付けやがって!」
二人のアレックスは連れたって、ガレージに向かって家の中を歩く。未来から来たアレックスは、これ見よがしにあくびをする過去の自分を睨みつけた。
「ノエルの死体を毎回見なきゃいけないのは俺なんだぞ、朝四時半に起こされたくらいで泣き言を抜かすな」
「起きた時に来ればいいものを、敢えて俺が寝ている時間を狙ってやってきたのはお前の腐った根性のせいだろう。タイムマシンなんて世紀の大発明を自己嫌悪のはけ口に使うとは、お前程頭脳を無駄遣いさせる天才は他に居ないよ」
「”俺達”だろう」
寝起きのアレックスは返事をしなかった。二人はガレージにつくと、未来から来た方のアレックスがガレージの隅を指さし、寝起きのアレックスがぶつぶつ恨み言を言いながらレーザーガンを回収する。それを見届けると、アレックスは先ほど自分が通り抜けてきたタイムポータルに向かい、足を踏み入れる直前で立ち止まった。
「下に降りるついでに、あの帽子をここら辺に置いといてくれ」
「ああ、いくらでも仕事を押し付けると良い。つでに朝食も用意しておきましょうか、旦那様?」
「朝食と言えば、パンケーキミックスにダニはわいてなかったぞ」
その言葉を最後に、アレックスは放送禁止用語を背中に浴びつつポータルの中に身を滑り込ませた。再びぞわり。そして、一瞬で自分の時間のガレージに到着する。アレックスの体がポータルから抜けた瞬間それは消え去り、彼の目には明るい朝日の中今まさに箒と塵取りを拾い上げたノエルの姿が飛び込んできた。
生きている。顔もついている。惨事の名残はどこにも見当たらない。白衣のポケットを上から軽く叩いてみると、先ほどつっこんだレーザーガンは消えていた。代わりにアレックスの脳みそに”レーザーガンを地下の研究室にしまった”と言う記憶が増えている。ガレージの焼け跡もない。きちんと過去は修正されたようだ。
「アレックス、どうしたの?」
ポケットを確認しているアレックスに小首を傾げるノエルを見、アレックスは目を細めながら僅かに眉根を寄せた。ノエルは自分が死んだ事など覚えていない。と言うより、ノエルにしてみればそんな事実は”なかった”のである。アレックスが少年の陰にいくら顔の削がれた死体を見ようとも、今となってはたちの悪い白昼夢でしかない。
「なんでもない」
「……蛍光灯割ったのそんなに怒ってる?」
「お前が物を壊すのなんかしょっちゅうだろ。やっぱり掃除はしなくていい、それより……」
アレックスの青い瞳が机の上に注がれる。そこには、過去に戻る前はなかった帽子が置かれていた。過去の自分は、寝ぼけ眼をこすりこすり文句を言いながらも、レーザーガンをしまいに行ったついでに地下の研究室から帽子を持ってきたと言う訳だ。その記憶もアレックスの脳みその中にしっかり収められていた。
「こっちに来て、これを被ってみろ」
「何その帽子、それのために連れてきたの?」
「あー……そうだ」
書き換えられた記憶をチェックしてみる。パンケーキミックスを調べなくなった代わりに、その時間は朝食作りへと当てられ、今、ダイニングのテーブルの上には焼きあがったパンケーキとベーコンとスクランブルエッグが乗った皿が、手つかずで放置されている。
何故出来立ての朝食を放り出したのだろうとアレックスは不思議に思ったが、そもそも自分が気分屋である事を思い出すとナンセンスな自分の行動も納得した。何かを思い立ったら何をしていたとしても中断して新しい事に飛びついてしまうのは、今更直すことのできないアレックスの性質の一つである……トイレの時だけは別だが。
アレックスが朝食をほっぽり出してノエルを連れてきたのは、この帽子を披露するためであった。その後は修正前の過去同様ネズミが出て、ノエルの力が蛍光灯を割り、レーザーガンの誤射だけはなく今に至る……よし、これで新しい記憶の補完は済んだ。
「この帽子はだな、ああいや実践するのが一番だ。よし、ノエル、俺が今何を考えてるか当ててみろ」
アレックスに意識を向けた途端、ノエルはきゅっと眉間に皺を刻んだ。
「僕の裸」
「正解だ。じゃあ今度は、これを被ってもう一度俺の考えを当ててみろ」
急に子供のように目を輝かせるアレックスにノエルは半ば呆れながらも、言われた通り受け取った帽子を被る。つばの広い所謂ベースボールキャップの内部は複雑に入り組むラインの入った薄い膜のようなもので覆われていたが、被り心地に問題はない。
改めてノエルはアレックスに意識を向けた。しかしおかしい、ノエルの頭の中には何も響いてこない。段々と驚いた顔になっていく少年を見下ろし、アレックスは嬉しそうに両の拳を握りこんだ。
「あれ、分からない……!?」
「そうだろう! ハハア、成功した、流石俺だ!」
「これなんなの?」
「お前のテレパシー能力を抑制させるデバイスだ、随分苦労したが昨日ようやく完成した! まあ簡単に言うと、お前はチャンネルが開きっぱなしの歩く無線機だから、電波をこの帽子で遮断してやったわけだ。これが本当のレディオヘッドってな!」
「なるほど、確かに僕の頭はラジオと一緒だね」
緩く笑う少年を見下ろし、アレックスは一瞬にして凍り付いた。
「……お前、まさかレディオヘッドを知らんのか」
「え、ごめん、何かのネタだったの? 例えだと思った」
「バンドだよ、世界的に有名なロックバンド! クリープ位聞いた事あるだろ!?」
アレックスは先ほどのスマートフォンを取り出し、ノエルの「ああ、それ聞いた事ある!」と言う返事を聞くためだけにレディオヘッドの曲を流そうとしたのだが、アルバム一覧に出てきたクリープのリリース年が1992年だと気づくと閉口した。対するノエルの”リリース”年は? 2003年である。
「……なんでもない。朝飯食うぞ」
二人はダイニングに戻ると、なんとかほんのり温かさを残した朝食に改めて取り掛かった。食事のためにノエルは一度帽子を脱いで机に置いた。黒の無地と言う色気のない帽子ではあるが、16歳の少年が被るのに違和感がないチョイスが出来たとアレックスは内心ほっとする。40も年下の若者の流行り等彼には到底分からない。シンプルなものを選べばとりあえず問題はないだろうと言う安易な考えだったが、うまくいったようだ。
「うん、僕もこの帽子かっこいいと思うよ」
パンケーキとベーコンを同時に頬張りながら、ノエルはアレックスの思考に相槌を打った。片や頭の中で、片や声に出して。このような奇妙な対話も、超能力を持ったノエルとなら日常茶飯事である。
「だってさ、こう言う帽子被ってパーカーのフードも被ったら、ラッパーぽいじゃん」
「なんでも良いが、ちゃんと学校に被っていけよ」
「うーん、授業中被ってたら怒られないかなあ」
「ストレスでハゲが出来たとでも言っておけ。良いか、お前の成績が悪いのは周りの連中の思考が煩すぎて集中出来ないせいだ。この帽子を被れば静かに授業を受けれられる。そうすりゃ成績も上がるぞ、別にお前は頭が悪いわけじゃないんだから」
ノエルは思わず目の前のアレックスを見上げ、すぐに照れ臭そうに視線を外した。アレックスの言葉はいつも直接的だ。本来なら彼は皮肉と嘘で完全武装した隙のない男なのだが、残念ながら頭の中を覗けてしまうノエルの前でそれらはなんの役にも立たない。だからノエルに対してだけは、丸裸でぶつかる事を余儀なくされているのであった。
先ほどの事故が嘘のように平平凡凡とした朝食が終ると、ノエルはごく普通の学生のようにリュックサックを背負い、作ってもらった帽子を被ってヴァレンタイン家の扉を開けた。良い天気の木曜日、朝のほんのり冷たい空気が気持ち良い。アレックスは履き古した靴の紐を結ぶ少年を見やり、胸中で小さく笑ってしまった。十六歳にはとても見えない。ノエルは平均よりずっと体が小さく、持て余し気味にリュックを背負っている姿はまるで小学校からあがりたての中学生のようだ。
彼の発育の遅れが一体何に由来するのかははっきりしない。一般的ではない能力の副作用か、あまり健康的でない生活のせいか、もしかしたら単純にそう言う遺伝子なのか。そのせいで同世代から浮いてしまい苦労しているのをアレックスも知っていたが、こう言う時はふと孫でも見るように微笑ましく思ってしまうのだった。
「じゃあまた明日ね。今日は家に帰るから」
そんな事は言われなくても分かっている。ノエルは一日置きに自分の家とアレックスの家を行ったり来たりするのだ。しかし、”あの”実家に帰るという事実はいつ聞いてもアレックスの胃の中にどろりとした不快感となって流れ込む。アレックスはしかめ面になった。
「いちいち言わんで良い。それより、帽子をやたらと見せびらかしたりするなよ。そのデバイスにはかなりの価値があるんだ。俺の技術を安売りする気はない」
そこまで言うと、アレックスは突然通りに向かって……正確には、カートを押しながら通りを歩いていたホームレスの男に向かって怒鳴り散らした。
「だから、いくらうちを見張っても俺の発明品は手に入らんぞ! 帰ってボスに伝えろ、間抜けめ!」
突然の怒声に驚いたホームレスはびくりと肩をすくませると、鳥の巣のように伸び放題の髪と髭の中で困惑気味な表情を浮かべ、慌てて通りを走り抜けていってしまった。これで警察が呼ばれないのだから平和なものだ。可哀そうなホームレスが逃げていくのを睨みつけるアレックスを横目に、ノエルは盛大なため息を零した。
「だからさ、あの人はただの近所のホームレスなんだってば」
しかし、アレックス博士はふんと鼻を鳴らして少年の言葉を一蹴すると、講義でもするような調子で反論した。
「いいや、あいつは政府が送り込んだスパイだ。家を見張り、俺の発明品をパクろうとしてる!」
「政府に見張られるような事した心当たりでもあるわけ?」
「俺がブルービーム計画に参加しなかったのを未だに恨んでるんだよ。まあ良い、学校に遅刻する、さっさと行け。いいか、死ぬ時は人目に付くところで死ぬんだぞ、さっさと俺に連絡が来るようにな」
「大丈夫だよ、気を付けてるんだから。そんな簡単に死んだりしないって」
「お前、既に今朝一回死んでるぞ」
「え、うそ!?」
愕然としたノエルの表情をにんまり小気味よく見下ろすと、アレックスは「大通りだけ歩けよ」と嫌みっぽく忠告してから扉を閉めてしまった。記憶のないノエルは、一体どの時点で、何が原因で自分が死んだかなんて分かる由もなく、軽いショックを受けてのろのろ歩き出す。自ら過去に行かない限り、過去の修正と言うのは本当に気が付かないものだ。
ノエルは運が悪い。と言うより、最早死亡体質と呼んで差し支えない位に死と近しい存在である。自分が死ぬ度にアレックスが過去に戻って修正してくれるおかげで今日まで生きてこられた訳だが、勿論、ノエルには死んだ記憶も自覚も残ってはいない。具体的な数字は分からないが、この十六年間で耳を疑うような大きな事件から、歴史に名を残す程間抜けな死に方までありとあらゆる死をこの小さな体は受け止めてきたのだ。
アレックスの発明品の誤射など夢にも思わないノエルが、もしやパンケーキでも喉に詰まらせたか、はたまた料理中に火にまかれでもしたのかと考えているうちに、彼は学校へと到着してしまった。ノエルは一度立ち止まり、聳える校舎を見上げて憂鬱なため息を零す。すくすく健康的に成長する周りの同級生と比べると、ノエルは飛び級で高校に通う中学生に見えた。彼は二年生だが、後輩の中にだってノエルより小さい子は一人も居ない。
不意に一人の生徒がノエルに後ろからぶつかり、ノエルは前につんのめった。
「ああ悪い、小さいから見えなかった」
ニヤつきながら少年は言って、やっぱりニヤついている友達に合流するとそのまま去ってしまった。学校内で明らかに浮いているノエルにはこんな事日常茶飯事である。今回は地面に倒れなかっただけ運が良いというものだ。
おはようを言う相手もなくノエルは身を縮こませてロッカーにやってくると、俯いたままでリュックをしまって授業に必要な物を取り出した。と、突然上から柔らかな声が降ってきた。下を向いていたうえに、帽子の広いつばが視界を邪魔したせいで彼女が近づいてくるのに気づけなかったノエルは、その声が聞こえた途端に先ほどのホームレスよりも仰天して、ひっくり返った声をあげてしまった。
「おはよう、ノエル」
「うわっ!?」
驚きのあまりせっかく取り出した教科書や筆記用具をばらまいたノエルが慌てて顔をあげれば、こんなにも彼が驚いたことに驚いたリサが目を丸くして立っているのが見えた。
「やだ、ごめん! 脅かすつもりはなかったの!」
「い、いや、違う、僕こそ驚いてごめん! 考え事してて……!」
なんたる失態だ。ノエルが急いで散らばった自分のものを拾いにかかる。すると、当たり前のようにリサもしゃがんでそれを手伝ってくれた。純粋な他者からの優しさを目の当たりにして嬉しくなったノエルが思わずリサを見上げると、その後ろに彼女の友達も立っていたのに気がついて、弾かれたようにまた下を向いた。自分を見つめるあの視線ときたら、あまりの居心地の悪さに冷や汗が滲んでくる。
「声かけただけでそんなに驚かなくてよくない?」
リサの友達の一人が笑いながら言った。もっともである。しかしリサはふわりと髪をなびかせながら二人の友人に振り返って首を振った。
「不意打ちで声かけたら誰だって驚くよ。私のせいなんだから、そんな風に言わないで」
リサはノエルと同じ黒髪だったが、ノエルのくしゃくしゃのそれとは全く違い、まっすぐに伸びたセミロングが朝日を受けて輝く様はシャンプーのCMのようだった。愛嬌のある整った顔立ちは間違いなく美人の部類で、どうにもノエルを畏縮させて仕方ない。スタイルも良いし、身長だってノエルの頭一つ分大きい……これは、単純にノエルの背が小さいせいもあるのだが……つまり彼女は、ノエルのようなスクールカーストの底辺に燻っている少年とは一番縁遠い人種なのである。
しかし、彼らは赤ん坊の頃からの幼馴染であった。今でこそこんなにチャーミングな少女に育ったリサだが、笑うとノエルの記憶に刻み込まれた幼いリサが顔を出してくれるおかげで、ノエルはどうにか彼女と話しをすることが出来るのだ。
「ごめん、拾ってくれてありがとう」
拾ったものを受け取りながらノエルがはにかむと、リサは満足気に頬に健康的なピンク色を灯らせた。ただでさえ頬骨が高い彼女が笑うと、頬がこんもりと盛り上がって小動物のような笑みになるのは昔から変わらない。
「私こそ脅かしてごめん。調子どう?」
「普通かな……」
とは言え、リサがどれだけ愛想の良い幼馴染の女の子であっても、彼女の友達までノエルに好意を持ってくれているわけではない。彼女達が考えていることなんてそのジト目を見ればアレックスから貰った帽子を被っていても読めてしまう。”なんでそんな奴と親し気にするわけ?”
「なら良かった。ねえ、明日ロスの家でパーティがあるんだけど、貴方も来ない?」
「ちょっと!」
二人の友達が同時に声をあげた。ノエルを誘ったのがよほどショックだったようだ。
「リサ、そんな簡単に誘っちゃだめじゃない!」
彼女達は面倒くさそうな態度を隠しこそしないものの、自分の楽しみの為だけに意味もなくノエルを傷つけるほどの意地悪ではない。少なくとも言葉を選ぼうと努力はしてくれたようで、彼女達はバツの悪そうな表情を見せた。
「あんたに個人的な恨みがあるわけじゃないのよ、マクマナス。でも、なんて言うかな、パーティに来ても嫌な思いするだけよ、あんたって、ほら、友達が居ないし、壁際で立つためにパーティ来るんじゃ流石に可哀そうだもん」
正直なところ、この友人の言葉はノエルにとって助け船であった。彼はパーティなんて行きたくないし、行ったこともない。どうして人食い鮫の泳ぐプールに自分から飛び込もうなどと思うのか。そこにリサと言う浮き輪が浮いていたとしても、たった一つの浮き輪では命の保証は出来ない。
これ幸いと便乗して断りの言葉を口にしようとすると、さっとリサがノエルの肩を抱き寄せて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「友達なら私が居るじゃない。ご近所さんだし、私達には特別な絆があるでしょ。なにせ、ノエルは唯一私の裸を見た事がある男子なんだから」
ノエルは自分の頬がカッと熱くなったのを感じた。
「二歳の時の話だろ、リサ、勘弁してよ!」
「事実は事実よ、過去は変えられないわ」
その言葉を聞くや、ノエルは思わず自虐的な鼻の鳴らし方をして口端を持ち上げてしまった。それはアレックスがよくする仕草だったが、あまりに自然にこなしたものだからそうとは気が付かなかった。
「さあ、どうだろうね……」
彼の呟きは聞こえたような聞こえなかったような。リサはそれ以上ノエルをからかうのをやめたが、猫のような気まぐれさで急に顔を近づけたので、ノエルは反射的に背中をそらせて距離をとろうとした。
「良い帽子ね、被ってるの初めて見た」
「あ、ああ、うん、アレックスからのもらいもので……!」
「どうりでシンプルすぎると思った。黒の無地のキャップなんてストーカーかテロの犯人しか被らないよ、ちょっと待って」
リサは自分の荷物を漁ると筆箱の中から白のペンを取り出して、片手でノエルの頭を固定し帽子に何かを書き始めた。確かにこれは帽子であるが、同時にアレックスの繊細な発明品だ。落書きなんてして大丈夫なのだろうか。ノエルはそう思いつつも、彼女を止めることができなかった。何故なら、彼女の胸が目の前にあるのだ。
別にリサは露出の高い服を着ているわけではない。シンプルなボーダーのシャツ。しかしそのボーダーが胸の形に沿って波打っている。胸があるのだ。リサの胸が、三十センチもない距離に。十六歳の少年をこの状況から動かしたいのであれば、素っ裸の女を用意するより他はない。ノエルは完全に、石となり果てていた。
「これでよし」
時間のくびきからおっぱいの魔力によって解放された少年が立ち尽くしているうちに、リサは自分の仕事を終え、満足そうに微笑みながらペンをしまった。ノエルが帽子を脱いで前面を確認してみると、いかにも少女っぽい線で輝く王冠のマークが描かれていた。
「あ、ありがとう」
男が被るには少々可愛らしいが、そっけない無地よりはティーンエイジャーっぽくなった。それになにより、リサが自分のために描いてくれたという事実が嬉しい。笑みを浮かべて帽子を見つめるノエルと彼を見て微笑んでいるリサは、同級生と言うよりよっぽど姉と弟のようだったが、リサの友達はそれをわざわざ口に出したりはしなかった。
「ほら、もう良いでしょ。授業に遅れるよ」
これ以上ノエルと一緒に居る所を見られたら、自分達まで何か言われてしまいそうだ。一人がリサの腕を引くと、彼女は肩をすくめて仕方なく友達に従う事にした。
「分かった。じゃあまたね、ノエル。パーティの事考えておいて」
パーティ。その言葉を聞いた瞬間ノエルは夢心地から一気に現実に引き戻され、答えなきゃいけないという焦りで必要以上に大きな声を張り上げてしまった。
「い、行かない!」
振り返ったリサの顔から笑みが消えている。ノエルは慌てて首を横に振った。
「ごめん、あの、あ、あ、明日は、用事があるんだ! 明日はアレックスの家だから、助手のバイトがあって……」
帽子を被っていないせいでリサの友達の考えがダイレクトに伝わってくる。”ああよかった!”。そして、その盛大な安堵の二重奏の中に、隠れるようにしてリサの思考も流れ込んできた。それは言葉と言うよりもっと直接的な、感情の切れ端だった。
リサは少し悲しんでいた。
「そっか」
何でもない風を装ってにっこり笑うと、彼女は手を振った。
「じゃあ、またの機会にね」
「うん……あ、あのさ、帽子ありがとう! 本当に、僕、これ気に入ったよ!」
取り繕ったような感謝の言葉が空しくリサの背中に当たって砕け散る。ノエルは大きくため息をついて、力なく帽子を被りなおした。授業開始のベルが、ノエルを責め立てるように廊下中に響き渡った。
授業が始まり、ノエルが帽子を注意されたのは運の良い事に一回だけだった。三時間目の英語の授業で、クラス中の生徒が自分に注目する中「ハゲがあるので帽子を脱ぎたくありません」等と言う勇気はなく、その時だけはいつも通り頭の中が騒がしい授業となってしまったが、他は眠気も吹き飛ぶような快適さであった。
この数の人々に囲まれていながら、誰の思念にも煩わされる事なく頭の中が静かと言う状態は生まれて初めてだった。誰かの心を読む時はその人に意識を集中させるのが常であるが、自分でそうしようと思わなくても勝手に流れ込んでくる他者の考えで頭の中が埋め尽くされてしまう事はよくある。それを締め出す練習もしてみてはいるのだが、まだ完璧には程遠い。だから、アレックスの科学の力によって与えられた静寂は、新鮮な感動をノエルに与えてくれた。
教師の言葉がクリアに聞こえる。耳に届く音だけの、シンプルな世界。授業の内容を集中して聞き取る事が出来るのがこんなにも幸せだとは。静かな教室内にシャーペンを走らせるかすかな音を聞きながら、ノエルは生まれて初めて普通に授業を受ける事が出来る喜びを噛み締めた。
朝、リサを傷つけてしまったことを除けば、今日はノエルの学校生活において最も平穏でノーマルな一日であった。ランチタイムはやっぱり一人だし、突っかかられる事はしょっちゅうだったが、それでも今日はそこまで気分が落ち込まない。アレックスに感謝しなくては。
そうしてあっという間に学校が終ると、部活に入っていないノエルはそのままひっそりと家路についた。徐々に太陽の高度は落ち、夜の気配を孕んだ風は冷たさを増している。一日の終わりに向けてそれぞれの道を足早に歩く人々を眺めながら、ノエルはぼんやりと母親に思いを馳せていた。母さんは今日、何が食べたいだろう。
家に帰る前に、ノエルは買い物をするために馴染みのスーパーに寄った。一昨日家に帰った時の棚と冷蔵庫の中を思い出し、必要な物を見繕っていく。さあ、今日の夕食は何にしよう。自分と母親、どっちが料理を作るかまだ分からないから、それほど手間がかからないものにした方が良いだろう。ノエルの母親は、あまり家事が得意な女性ではなかった。
それから洗剤やトイレットペーパー等日用品もいくつか手にすると、アレックスから研究の手伝いをする事で”バイト代”として渡されるお小遣いで会計を済ませ、荷物を抱えてえっちらおっちら家路についた。気が付くと空は群青色に染まり、赤い夕陽が低いビルの向こうに沈もうとしている。まもなく夜だ、早く帰らないと。
ノエルの家はアレックスの家と違い、明らかに低所得者が集う地区のアパートの一室であった。昔は鮮やかな赤だったろうに、今はほとんど黒に見えるレンガ壁のアパートに入っていくと、このご時世に奇跡的に生き残っている蛇腹扉のエレベーターが迎えてくれる。エレベーターのワイヤーがいつ切れるか分かったものではないが、この年寄りがいなければ四階分の階段を上り下りせねばならなくなるため、老体に鞭を打たせてもらわなければ。
エレベーターの危なっかしい揺れ方を今更怖がるでもなく、彼は自分の部屋の前までやってくるとポケットから鍵を取り出して扉を開けた。リビングからテレビの音が聞こえる、母親は帰宅しているのだろうか。
「母さん?」
リビングに踏み込んだ途端ノエルの足は止まった。母親の姿はなかった。代わりに、一人の男が居た。男は我が物顔でソファに座り、テーブルに覆いかぶさるように上半身を倒している。一瞬、吐いているのかと思ったがそうではなかった。男が顔を上げると彼の鼻には白い粉が付着しており、ノエルと目が合うとこれ見よがしに親指で鼻を拭った。
「よう、ノエル」
男は母親の恋人であった。体は大きく、無精ひげが生えて、服装はだらしなく、表情はうつろ。体中にびっしり入ったタトゥが無かったとしても、今まさにコカインを吸った場面を見ていなかったとしても、とても会社に勤めている人間には見えない。ノエルは勿論この男が嫌いだった。好きになる要素がどこにあろうか。
男の目は充血して危なげな鋭さを増し、痛めつける獲物を見つけた喜びに弧を描いた。ノエルはドキリとしたが、気づいていないふりをして荷物をダイニング兼キッチンに持って行く。なるべく刺激をしないようする。もうすぐ母親も帰って来る頃だから、それまでの辛抱だ。
「ごめん、ジェイラス、今日来るって知らなかったんだ」
「なんで? 今日は木曜だろ?」
「今日は金曜だよ」
「……本当に? 勘違いしてたな」
ジェイラスは気まぐれで自分の来たい時に来る男だったが、基本的にはノエルが居ない時を選んでこの家へとやって来る。なので今日は来ないものと思っていたが、鼻を白くさせ目を据わらせた人間に曜日の正確な把握を求める方が間違っているだろう。何もこれが初めてというわけではない、適当にあしらえばいいだけの話だ。
「じゃあお前、今日はここに泊まるのか?」
「自分の家だから」
ゆらりとジェイラスが立ち上がった。しまった、今の発言は生意気だったか? ノエルははっとして荷物を机の上にほとんど放り出すように置くと、ジェイラスに視線を合わせないようにしながら大股で扉に向かった。
「ごめん、夕飯足りないからすぐ買ってくる」
しかしジェイラスの方が素早かった。さっとドアとノエルの間に割り込むと、その巨体を更に怒らせてずんずんノエルに詰め寄ってくる。少年は恐怖で縮み込み、彼から目が離すことが出来ないまま後ずさりした。ギラつく瞳の恐ろしさに、舌が一気に凍り付く。まるで人間の目ではない。
「今の口のききかたはなんだ?」
「ご、ごめんなさい、僕はただ……」
「俺を馬鹿にしてるのか、え?」
突然、ジェイラスの右手がジャガーのような獰猛さでノエルのこめかみに平手を食らわせた。衝撃でアレックスからもらった帽子が吹き飛び、ノエルは倒れそうになって慌ててシンクに縋りつく。顔に火が付いたと錯覚した途端、激しい痛みが襲ってきて思わず両手で顔の左半分を覆った。
「馬鹿にしてるんだろ、なあ? 言ってみろよ」
「違う、ちがう、ただ……」
言い終える前に髪を鷲掴みにされ、大人の男の腕力がノエルの頭を机へと叩きつけた。あまりに大きな破裂音がしたものだから、反射的にノエルは自分の頭蓋骨が砕けたのだと思い込んだ。目の前で強烈なフラッシュを焚かれたように視界が真っ白になり、一気に体から力が抜ける。全てが突然スローになった。このまま気を失うのだろうか。
否、そう簡単に気絶と言う非常口を開けることは叶わない。髪を引っ張り上げられた途端全てが正常に戻り、一緒に痛みもやってきた。霞んだ視界にジェイラスの狂人じみた憤怒の表情が映ると、ノエルの頭の中には強烈な殺気がどっと流れ込んできた。このままでは殺される。
再びノエルの額が机に釘のように打ち込まれた瞬間、ノエルの頭の中で衝撃と共に一つの名前が爆発した。
”アレックスッ!”
普段悪運に魅入られたノエルでも、今だけは幸運が味方してくれた。テレパシー能力を遮断する帽子は、床に転がっていたのである。ノエルの頭から放たれた思念の矢を遮る物はなく、それは一直線に名前の主の元に飛んでいき、ちょうど地下の研究室で作業に取り掛かっていたアレックスの優秀な脳みそを破壊せんばかりの大音声で突き刺さった。
”アレックスッ!”
突如心臓発作に襲われでもしたように、アレックスは悲鳴をあげ椅子から転げ落ちた。痛みはなかったが、頭の中でノエルの声の残響がガンガンと木霊して、こめかみの血管を狂ったように脈打たせる。彼は頭を振ってどうにか身を起こすと、スマホを取り出してGPSを起動させた。ノエルは実家に居る。
ふらつきながらアレックスは研究室から飛び出し、車に転がり込んで大急ぎでノエルの家にヘッドライトを向けた。車で約十分の距離。ノエルが自分の意志でテレパシーを飛ばすには、本来この距離は遠すぎる。この距離をこんな強い思念が飛んできたと言う事は、つまり彼の原始的な恐怖と生存本能が全てのリミッターをぶち破ってアレックスに助けを求めてきた事を意味するのだ。
ノエルは命の危機に晒されている。
「畜生……っ!」
唸るように毒づいて、アレックスはアクセルを踏み込んだ。信号になど構っていられない。クラクションの声援を四方八方から受けつつ、彼は夜の街を疾走した。
ノエルの思念はアレックスに向けて放たれたものであるが、強すぎるパワーはすぐ近くにも影響を及ぼしていた。ノエルを打ちのめした途端、ジェイラスの頭の中に”アレックス”と言う名前が突然響き渡ったのだ。彼は驚いてノエルを解放し、辺りを見回した。
「な、なんだ、誰だ!?」
そのまま倒れ込む少年を気にもせず、ジェイラスは他に誰か居るのではと勘違いして狭い室内を確認しだす。ノエルは動けるようになるまで床に倒れていたが、やがてわずかに痛みがマシになると、ずるずると這って壁に上半身をもたれさせた。妙な感触が瞼をくすぐっている。指先で触れると、額から血が流れ出ているのが分かった。額からの血ならそこまで心配する必要はないだろう、少し切れただけで劇的に流血してしまう場所だから。
ジェイラスは居もしない侵入者を威嚇して怒鳴りながら一部屋一部屋闊歩して回っている。そんな姿を笑う余裕もなく、ノエルはドアの方をぼんやり眺め、今母親が入ってきたらどう思うだろうかと考えた。こんな自分を見て、絶対にいい気はしないだろう、彼女が帰って来る前に手当てを済ませなくては。
しかし、先ほど味方したノエルの幸運はとっくに暇を告げていた。椅子にすがって立ち上がろうと試みた瞬間、扉の開く音と共に何も知らない母親のヒルダが家の中に入って来たのだ。彼女はウェイトレスの制服にコートを羽織っただけで、この世の終わりを見てきたかのように疲れ切った顔をしていた。仕事も大変だったのだろうが、ジェイラスの怒鳴り声が廊下まで聞こえていたのだろう。
「ちょっと、何怒鳴ってるの。昨日来なかったと思ったら、今日来るなんて……」
はたと親子の目が合った。やっとの思いで椅子の背を掴んで立ち、流血しているノエル。それを見た途端、ヒルダの顔からさっと色が失われた。
「ノエル……?」
「大丈夫だよ、母さん、大したことじゃないから。転んだんだよ、ちょっと転んだんだ」
ヒルダはノエルに駆け寄ると、震える手で息子の頬を包みその顔を覗き込んだ。ノエルは必死に母親を宥めようとしたが、流血姿でいくら大丈夫だと言ったところで説得力は皆無である。ヒルダは打ちのめされた少女のようにそのまま泣き出すかと思ったが、ふっと鬼の形相に変わると、振り返って喉が裂けんばかりに怒鳴り始めた。
「ジェイラス! ノエルに何したの!」
ジェイラスは結局侵入者を見つける事なく寝室から出てきた。激昂しているヒルダを見やり、面倒くさそうに眉根を寄せる。
「口のききかたを教えたんだよ」
「血が出てるのが見えない!? 殴ったの!?」
「躾だ!」
「躾!? 父親でもないあんたが!?」
「俺の子供だったらもっと出来が良いだろうさ!」
「もしまたノエルを傷つけたら、今度こそ絶対に許さないって言ったわよね!?」
ヒルダは目に涙を溜めながらやおらキッチンにあった包丁を掴むと、その切っ先をジェイラスに向けた。ノエルは痛みも忘れ、大急ぎで母に縋りつく。先ほどジェイラスに凄まれた時より、今の方がずっと怖かった。
「母さん、やめて! 僕なら平気だよ!」
「殺してやる、クソ野郎! あたしの子供にこんな事して、ただじゃ済まさないわ!」
「やれるもんならやってみろ、クソアマ! 刺せよ、ほら、刺してみろよ! 度胸もないくせにでかい口叩きやがって!」
ノエルの頭の中で激情の花火が爆発しまくる。良い感情は一つもない、怒り一色に塗りつぶされた真っ赤な閃光の応酬。二人のヒステリックな思念に飲まれ、少年は呼吸も満足に出来ない程だったが、それでも母親の手にする包丁まで赤く染まらないよう渾身の力でその腕を握りしめた。
「お願い、やめて、お願いだから……! もうやめて、ご飯にしようよ、ねえ、お願い……!」
一触即発の空気の中、震える子供の手に痛いほど腕を握られて、ヒルダの瞳に僅かに理性の光が舞い戻った。血と涙で顔をぐちゃぐちゃにして懇願する息子。それを見た彼女は片腕をノエルの背中に回し加減も忘れて強く抱きしめ、大きく息を吐き出した。
「……出てって」
ヒルダは唸った。
「あたしの家から出てって。五秒以内に出てかないと、警察を呼ぶわよ」
二匹の獲物を見つめるジェイラスの瞳はギラギラ輝き、まるでヒルダの言葉等聞いていない様子だった。ゆらりと足を踏み出す。汚いスニーカーが微かな音を立てて床を踏む。獲物に飛びかかる直前、身をかがめて跳躍に備えるジャガーのような静けさ。
「そいつが口のききかたを知らないのは、親譲りってわけだな」
緊張感に耐えられなくなり、ヒルダは勇気の限りに叫んだ。
「本気よ、クソッタレ!」
その瞬間、それが合図ででもあったかのようにジェイラスはヒルダに飛びかかってきた。悲鳴。怒号。衝撃音。ヒルダの細い腕は瞬きするより早く捕らわれ、その手から包丁が床に転がり落ちた。
「母さん!」
「良いか、よく見とけよ気色の悪いクソガキ!」
ジャガーが咆哮した。
「お前のせいだ! これはお前のせいだぞ!」
ヒルダが引きずり倒される。ジャガーが覆いかぶさる。太い右腕が振り上げられた瞬間、ノエルの中で何かが弾けた。
少年の瞳は突如真っ赤に輝き、それと同時に家中のものが恐ろしい唸りをあげてガタガタと揺れ出した。パンと鋭い音がして、キッチンに置いてあったグラスが弾け飛ぶ。獰猛なジャガーは驚いたジェイラスに戻り、異様な光景を前に狼狽えた。大きな地震でもきたのかと思ったが、床はちっとも揺れていない。
ノエルがゆっくりと手を持ち上げると、それに倣うように床に落ちた包丁が音もなく浮き上がった。ジェイラスはそれに気づいていない。今なら……今なら……。
今なら――……!
その時、派手な音を立てて扉が蹴破るように開かれた。アレックスは室内を一瞥するや間髪いれずにヒルダに覆いかぶさるジェイラスに向かって発砲した。ベレッタから放たれた9mmのパラベラム弾はジェイラスに当たる事はなかったが、すぐ横の床にめり込み、彼をひるませるのに成功した。
「今のは威嚇射撃じゃない、単純に外しただけだ」
走ってきたのだろう、アレックスは上がっている息を整えながら改めて銃口をジェイラスへと向けた。
「今度は外さん」
アレックスの乱入により家中の震えはゆっくりと収まり、軽い音を立てて包丁も床に落ちた。ノエルはぼんやりと夢見がちな表情でアレックスを見つめている。少年の悲惨な状況にアレックスは息をのんだが、取り乱すことはなく、低い声で「ノエル」とその名前を呼んだ。
彼の声を聴いた途端ノエルははっと我に返り、自分が今何をしようとしていたのかに気づいて愕然とした。今のは無意識の行動であった。もしアレックスが止めに入ってくれなければ……。
しかし今はノエルを慰めている暇はない。アレックスは銃を構えたまま室内に入り、威圧的に言葉を続けた。
「まだこんなクズと付き合ってるとはな、マクマナス。おい、さっさと立て。そのまま失せろ」
「てめえには関係ねえだろ、クソジジイ」
「この女がどうなろうが知った事じゃないが、お前はノエルにとって癌だ。よく聞け、俺は死体を完璧に処理する方法を十七は知ってるし、その気になれば胎児のお前の首にへその緒を巻き付けて生まれてこなかった事にも出来る、バタフライエフェクトみたいにな。コカインでしなびた脳みそでしっかり考えて、次の行動をとれよ」
重苦しい沈黙。時が止まったように誰も動かない。ジェイラスはこの屈辱を飲み込むのに少し時間がかかったが、向けられた鈍く光る銃口を見るとようやく諦めがついたようで、ゆっくりとヒルダの上から退いた。そして一言も喋らず、最後に開きっぱなしの扉を力いっぱい蹴りつけて出て行った。
時間が再び流れ出した。解放されたヒルダは立ち上がる気力もなくそのままソファに寄りかかると、両手で顔を覆い泣き出してしまった。慌ててノエルが母親に駆け寄ろうとしたが、アレックスが苛立ちを隠しもせずすかさず少年の腕を引き寄せる。驚いた顔をするノエルの瞳は緑に戻っていたが、その大きな瞳を縁取るように真っ赤な血が流れていた。
アレックスは苦々しい顔をすると、容赦なく指でノエルの額の傷を押した。
「なんで反撃しない! こんな傷作りやがって!」
「痛い痛い痛い!」
「それでも男か、この腰抜け!」
アレックスの手がノエルの血で汚れていく。悲鳴をあげて身をよじるノエルを見たヒルダは、絶望の淵から一気に生還し、アレックスの背中を拳で殴り、突き飛ばした。
「何するのよ! 何考えてるわけ!?」
拳銃を無造作にベルトに挟み込みながら、アレックスは怒りの矛先を今度はヒルダへと向けた。そもそもアレックスは心優しい聖人等ではない。自分の不快感のはけ口は、ノエルの行き過ぎた従順さだろうと、ヒルダの常軌を逸した愚かさだろうと、どこだって構わないのである。
「こっちの台詞だ! あいつは前もノエルを殴ったのに、なんでまだ付き合ってる!」
「そんなのあんたには関係ないでしょ、ヴァレンタイン!」
「大ありだ、俺はノエルの保護者だぞ!」
「裁判所が認めたわけでもないのに、偉そうに! あんたは血も繋がってない赤の他人じゃない!」
「血の繋がったお前はどうだ、立派な母親か!? あいつが頭から血を流してるのは、自分に全く関係がないと言えるのか!?」
「あたしばっかり責められるの!? 自分だって、ノエルの瞼に一生消えない傷をつけたくせに!」
ノエルの頭の中に二人の怒りが流れ込んで来たが、先ほどの頭がくらくらするような殺意とまったく違うそれは、鬱陶しいだけでさしたる問題ではない。アレックスと母親は犬猿の仲である。顔を合わせれば喧嘩なんて挨拶みたいなものだ。さっきと違い安心できるのは、お互い相手を嫌いでも殺意までは抱かないからだった。何故なら二人には、ノエルを愛しているという共通点があるからだ。少年はそれを小賢しいほどに熟知していた。
言い合う大人達からから視線を外すと、ノエルは何も言わずバスルームに向かって歩き出した。それに気づいた二人は一旦口喧嘩をやめ、その行く先を見守る。母親はすぐに心配そうに後をついてきた。
「なに、どうしたの?」
「血を流すだけだよ、二人の喧嘩が終るの待ってたら乾いちゃうだろ」
先ほどまであわや殺人事件が起きようとしていたのに、ノエルはのんきに笑って見せた。ヒルダは血に濡れながらもいつも通りの息子の笑みを見て一気に体の力が抜けたのか、つられてあどけない笑みを浮かべる。親子は笑い方がよく似ていた。どちらも笑うと随分幼く見える。アレックスはそれを面白くなさそうに見やりながら、二人を追ってバスルームまで来ると、入り口の木枠に腕を組んだ半身を預けた。
まずは血を洗い流す。出血の勢いは大分弱くなってはいたが、放っておくとまだにじみ出てきてしまうので、母親が用意してくれた救急箱からガーゼと大ぶりの絆創膏を取り出すと慎重にそれを張り付けた。すぐに血の染みが浮かび上がってきてしまうが、とにかくこれで応急処置は完了だ。パーカーについた血は跡で洗わなければ。
勿論、ノエルの傷はそれだけではなかった。机に二度も頭を強打されたのだ。左の目じりを中心に顔の半分が赤く染まり、一部は内出血でドス黒い紫色になっている様はあまりに痛々しく、どれほど本人が気楽にしていても見ている方はたまらない。ヒルダはノエルを見るうちに涙を溢れさせると、小さな体に縋りついた。
「ああ、ノエルごめん、ごめんなさい、みんなあたしのせいよ……!」
「大丈夫だってば!」
すかさずアレックスが口を挟もうとしたので、ノエルは慌てて強い口調で彼の侵入を拒んだ。母親を抱きしめ背中をさすりながら、けん制じみた視線をアレックスに送る。彼の言いたいことは最もだ、ノエルの傷の原因は結局のところ暴力男を捨てられない母親にある。けれど、それを指摘して何になるというのだ。悪戯に母親を傷つけるのは誰であろうと許せない。
ノエルの肩口がヒルダの涙で温かく濡れる。涙と一緒に彼女の思念までがノエルの中に染み込んでくると、ノエルは母の気持ちに気づき、は、と薄く唇を開いた。いつもの事だし、期待していた訳ではなかったが、それでも事実として突きつけられるとほんの少しがっかりしてしまうのはどうしようもない。今母親が求めているものは、ノエルではなかったのだから。
彼女はとにかく、包み込んでくれる男を求めていた。大きく、包容力があり、自分の告解を最後まで聞いたうえで君は悪くないと慰めてくれる男を。ヒルダは間違いなくノエルを愛していたが、だからこそ傷ついた息子が目の前にいる事が耐えられなかった。彼女にとって、ノエル自体が自身の罪の象徴であるのだ。
ノエルは音もなく息を吐き出すと、ぽんぽんと母の背中を優しく叩いた。
「……ねえ、母さん。今日はドンの所に泊めてもらいなよ」
母親は少しショックをうけたような顔をして息子を見たが、涙で濡れるノエルと同じ色の瞳には隠しきれない期待の光が灯っている。もしかしたら彼女は自分の本心に気が付いていないか、気づいていないと思い込もうとしてるのかもしれない。なんにせよ、ノエルはヒルダ自身よりヒルダにとって何が必要かを理解していた。そしてそれは、ノエルではなかった。
「僕はこれからアレックスと病院に行って傷を診てもらってくる、帰りが何時になるか分からないし、このまま母さんを一人にはしておけないよ。ドンの所に行って、彼と夕飯食べて、そのまま泊めてもらおう。その方が安全だし、僕も母さんも安心出来るでしょ。僕はアレックスの家に行くから」
「でも……」
「僕が彼に連絡するよ。ね?」
こんな時こそ息子に寄り添わなければいけないと分かっている。しかし、ヒルダはあまり心が強い人間ではなかった。心苦しい葛藤に胃がムカムカしてしょうがなかったが、自分の弱さを跳ねのけてノエルのために夕飯を作る自分の姿はとうとう思い浮かべる事が出来なかった。ノエルは支援を必要としているが、ヒルダもまた支援を必要としているのだ。
おずおずと笑みを浮かべる母親に笑みを返すと、ノエルは携帯を取り出してさっそくドンにメッセージを送った。それを見たアレックスが苛立ちも露わにわざとらしいため息をついてバスルームから去っていってしまったが放っておく。今は母親が最優先事項だ。すぐに返事が来て、ヒルダが安全な友人の家に匿われる手筈が整った。
散らかった室内はとりあえずそのままに親子が荷物を持って外に出て行くと、先ほどの口論を聞いていた住人達の嫌悪感と好奇心がないまぜになった顔が、ドアの隙間からいくつも覗いているのに気が付いた。警察を呼んだ様子もなければ、親子を心配する様子もない。この地域で喧嘩する声が聞こえない夜などないのだから。
彼らに中指を立ててさっさと引っ込めと喚いているアレックスからふと廊下の一番奥に顔を向けると、ノエルはドアから半ば身を出して心配そうに立っている人物を見つけた。
リサだった。彼女はノエルの有様を見て目を見開いた。今にも駆け寄って、一体どうしたのかと問いかけたくて仕方ないという顔をしているが、恐れか、遠慮か、彼女の足は床に釘付けになっている。二人は何も言わず、暫くの間見つめあった。頭の中で何かやり取りがあったわけではない。ただ、その数秒、視線だけが二人の言葉となった。
やがてノエルは緩く笑うと、手に持った帽子をひらひらと振って見せた。今朝リサが落書きをしてくれた帽子だ。リサははっとし、すぐにあの小動物のような愛らしい笑顔になった。
二人にはそれで、十分であった。
一行はアレックスの運転で夜の街を走り抜けた。ノエルはヒルダと一緒に後部座席に座り、母と手を繋いでじっと窓の外を眺めていた。信号、街灯、ネオンサイン、カラフルなチョコレートのように色とりどりの光の粒が、尾を引いて後ろに流れていく。夜のドライブは好きだ。誰かが作った安全な宇宙空間を漂っている気分になる。ヒルダはガラスに反射する自分のボロボロの顔を静かに呪っていたが、ノエルは宇宙飛行士でも現れやしないかと一心にガラスの向こうを見つめ続けていた。
「大丈夫か、ヒルダ」
車が到着すると、わざわざ家の外で待ってくれていたドンが一目散に出迎えてくれた。派手に泣いた跡のあるヒルダの顔を覗き込み、親愛と同情を込めた抱擁を送る。その光景がノエルには寂しくもあり、嬉しくもあった。母親が安堵したのが分かったからだ。
ドナルド・ベインはマクマナス家の数少ない、まともで、一切犯罪に手を染めていない、良心的な友人だった。彼は独り身で同じ地区にあるボロの一軒家で暮らしていたが、この親子の家庭環境を理解しており可能な限り手助けをしてくれる。基本的にはヒルダのケアをする事が多かったが、子供好きな彼はノエルも同じくらい気にかけてくれていた。
「ノエル、よう、タイガー。大丈夫か」
血のにじむ絆創膏にも、痣の浮かぶ顔にもあえて言及はせず、ドンは切なそうに笑った。ノエルはただにっこりした。
「うん、僕は大丈夫。母さんのことよろしくね」
「お前も泊まっていったらどうだ、お前が好きなテレビ番組を録画してあるんだ」
「ごめん、ちょっと、病院行ってくるからさ」
「……そうか。じゃ、また今度なタイガー。映画でも行こうぜ」
「もちろん!」
最後にヒルダは膝をついてノエルを抱きしめ、申し訳なさのあまりまた声を震わせながらおやすみなさいを言った。ノエルは笑いながらおやすみなさいを返し、ヒルダはドンの家へ、ノエルはアレックスの車へそれぞれ足を向けた。
ノエルが助手席におさまったのを確認すると、アレックスは何も言わず車を発進させた。暫くきっかけの掴めない無言の時があり、やがてラジオを入れるタイミングでアレックスが呟いた。
「本当に行きたいか」
「え、病院の事? まさか。大した傷じゃないよ」
「だが痛いんだろう」
「まあね。でも、傷が残ってるって事は、僕は死ななかったって証拠だから」
穏やかに口元を緩める少年を横目で見やり、アレックスは眉根を寄せた。子供の大人びた表情を見るのは、自分の無力さを突き付けられているようで腹立たしいやら情けないやら、いたたまれない。今ノエルは帽子を被っていないから、アレックスのこんな考えもバレているのだろう。彼はまたノエルの方を見やり、その手に収まった帽子を見た。
「なんだそれ、落書きしたのか」
「あ、うん、リサが描いてくれたんだ、シンプルすぎるからって……まずかった?」
「別に」
沈黙が顔をのぞかせると、ラジオから流れる男の声が一段大きくなったような錯覚を覚える。ノエルは少しためらってから、勇気が逃げないうちに口を開いた。
「今日、帽子被って授業を受けたらすごく静かだったんだ。ちゃんと集中できたし、授業の内容も理解できたし、普通の高校生になった気分だったよ。本当に、すごかった……でも、多分、僕には必要ないんだと思う」
アレックスは何も言わず視線だけでノエルにその先を促した。ノエルはバツが悪そうに帽子のつばをひっかきながら俯いているが、どうにか言葉を続ける。
「僕は、皆の思ってることがわかる方が良いし、その方が色々うまくいくんだ。自分がしなきゃいけない事がわかるから……だから、ごめんね、せっかくこんな良い物作ってくれたのに……」
「……どうせ研究の間にお遊びで作っただけだ、大したもんじゃない」
アレックスはノエルの手からひょいと帽子を奪うと、そのまま無造作に後部座席に放り投げてしまった。今の言葉はあまりにも明白な嘘だ。なにせアレックスは今朝はっきりと、このデバイスを作るのに随分苦労したと言ったのだから。ノエルはそれを忘れていなかったし、アレックスもまたそれを分かっていた。
不意にアレックスは大きくため息をつくと、いきなりハザードをつけて車を道路の脇に停車させ、両手を置いたままのハンドルに額を押し付けた。一瞬アレックスの調子でも悪くなったのかと思ったが、そうではなかった。
「いいか、ノエル」
アレックスは顔をあげると、ほとんど睨みつけると言って良いほど真剣に、まっすぐノエルを見つめた。
「誰かの食い物になるなよ」
低くはっきりと脅すような口調の中に、こらえきれない優しさが滲んでいる。ノエルは暫くきょとんとした顔でアレックスを見つめていたが、やがてわずかに頬を赤くして視線を外した。何故だか、物凄い告白を受けた気分だった。
「……アレックスがどれだけ僕を愛してるかは、帽子があろうとなかろうと全部伝わっちゃうね!」
どうしてもおどけたくなってそう言うと、案の定「はあ!?」と素っ頓狂な声を上げてアレックスは嫌そうな顔を見せた。予想通りのリアクションに少年は忍び笑いをもらして喜んでいる。アレックスはため息をついて、再び車を発進させた。シリアスムードは終わりだ。
「何度言ったら分かるんだ、ノエル! 俺はお前を愛してなんかいない!」
アレックスはきっぱりと言い放った。
「俺の感情はもっと大きく、高尚なものだ! 愛なんてくだらんもんと一緒にするな!」
「また始まった! なんで素直に愛してるって認めないの?」
「何故なら、愛してないからだ! いいか、愛は冷める! 愛は裏切る! 愛はいつか必ず終わる! 原始的な繁殖本能に少しでも人間性を持たせたい馬鹿どもが耳障りの良い名前を付けたにすぎん。あんなもんはただの科学反応だ、薬で愛を作る事も出来るんだぞ。そんな不誠実で不正確なもんと一緒にしてもらっちゃ困る」
ノエルは他にも色々と言いたい事があったのだが、冷静になるとやっぱり物凄い告白を受けている気がしてならず、喉から妙な音を出して黙り込んでしまった。いくら嘘は無意味だと分かっているとは言え、こんなもの真摯な愛の告白以外のなにものでもないじゃないか。顔が熱い。せっかく落ち着いてきた痛みがまたぶり返してきた。
しかし裏を返せば、アレックスはノエルの気持ちを微塵も受け取る気がないと言っているのだ。アレックスはとかく愛と言うものを毛嫌いしている。自分が向けるのも、自分に向けられるのも、絶対に受け入れる事はない。このせいでアレックスとノエルは現在形容しがたい奇妙な関係に陥っているのだった。
「……お腹すいた」
この空気を打開すべくノエルは呟いた。アレックスは怒っていたわけではないので、すぐにその話題に反応した。
「今更料理するのも面倒だ、どこかで食べて帰るか」
「良いの?」
「ああ。イタリア料理は?」
「食べたい!」
「じゃあ2ブロック先の……んっ!」
言いかけて、アレックスは急に目を丸くすると凄い勢いでラジオの音量をあげはじめた。いつの間にかラジオDJの話が終り、男性ボーカルの音楽が流れていた。
「ノエル、これだ、これだ!」
アレックスが早口でまくし立てる。
「え、なに?」
「レディオヘッドのクリープ!」
ゆったりとして壮大なメロディに、物悲し気な切ない歌声。その曲はまるで神の独白のように紡がれ、狭い車内に満ちていった。暫く二人は無言だった。トム・ヨークの歌声だけが世界の理であり、全てのものを代弁する言葉であった。
やがてノエルは、うっすら微笑んで呟いた。
「良い曲だね」
アレックスは心底満足げに目を細めると、夜の街に視線を戻しレストランに向けてアクセルを踏んだ。今日は散々な一日だったが、この曲のように穏やかに締めくくる事が出来るだろう。明日になればノエルの顔の痣は更に可哀そうな色になっているだろうが、それもまた生きている証なのだ。
レストランにつくと、ノエルの顔のせいで回りにじろじろ見られながらも、二人は平穏な食事を楽しむ事が出来た。
……三分だけは。
先にも述べた通り、ノエルは極度の死亡体質であり、彼の今日の幸運はもう店じまいしてしまっている。だからして、レストランの入り口から突然銃を持った男二人が飛び込んできても、納得せざるを得ないのだ。
「強盗だ、動くな!」
何故レストランに。何故この時間に。何故自分達が居るこの店に。疑問は尽きないが、本人に聞いている暇はない。それよりも驚いたノエルが思わず立ち上がってしまったのに、アレックスの意識は持っていかれた。
「え、なに、なに!?」
「おい、てめえ動くんじゃねえ!」
乾いた発砲音と、人々の悲鳴と、眉間を撃ち抜かれたノエルが食べかけのスパゲティの上にべちゃりとダイブする音はほとんど一緒だった。
「おい、勘弁しろよ、食事中だぞ!」
クリームソースをどんどんトマトソースに変えていくノエルの死体を見て、アレックスはヒステリックに声をあげる。盛大なため息を零すと疲れ切った顔でスマホを取り出し、タイムトラベルアプリを起動させて呟いた。
「まったく、長い夜になりそうだ……」