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3:Virtual but real, real but virtual.

 ノエルは目を瞬かせ、辺りを見回した。そこは見慣れたアレックスの寝室だった。そのまま数秒立ち尽くし、何が起きているのか把握しようと努めたが、脳内にシャッターでも降りているかのように何も考える事が出来ない。思考が出来ないというのは恐ろしい事だ。焦りながらたっぷり十五秒は自分の脳みそを叱咤して、ようやく彼はそのシャッターをこじ開けるのに成功した。

 まず、何故自分の寝室ではなくアレックスの寝室に居るか。アレックスに用があったのか? でも彼はここには居ない。何か借りに来たのだろうか。さっぱり覚えていない。この部屋に居る理由どころか、どこからどうやってこの部屋に入ったのかも分からない。今はいつの何時だ? 何が起こっている? 一番新しい記憶はなんだ?

 徐々に思考にかかっていた霞が晴れてくると、自分の記憶を掘り起こすより先に一つの違和感に気が付いた。改めて部屋の中を見渡す。何かがおかしい……いつもよりなんだか……視界が高い。そうだ。発育の悪いノエルが、こんなに高い位置から世界を見下ろしているはずがない。

 再び混乱の波に飲まれたノエルは、荒くなる呼吸を必死に抑えながら冷静を保とうとした。何か妙な事が起きているのは間違いないが、まずはアレックスを見つけるのが先だ。ここでパニックを起こしていても仕方がない。ノエルは早足に部屋から出ていこうとした。

 そこでふと、何の気なしに視線がアレックスの部屋の壁へと流れていき、全く不意に、この部屋の主であるアレックスを見つけ出した。彼はノエルを見やり、珍しく呆けたような顔をしている。ノエルは咄嗟に彼を呼ぼうとしたのだが、そこでまた、恐ろしい事実に気が付いてしまった。アレックスが居るのは、鏡の中なのだ。

「なっ……」

 干からびた声が喉から漏れた。唇が微かに動いたのはアレックスも一緒だった。それからノエルはひゅっと情けない音を立てて息を吸い込み、足音も荒く鏡に飛びついた。アレックスもそうした。ノエルが顔を触ればアレックスも顔を触り、ノエルが手を振ればアレックスも手を振る。ノエルがする事をアレックスは何もかも一寸のズレもなく真似した。

 つまりである。

「嘘だろ!」

 自分の口から飛び出した、耳に馴染みすぎるほど馴染むアレックスの声を聞きながら、ノエルは卒倒寸前だった。

 ノエルはアレックスになっていたのだ。

「アレックス!」

 ほとんどヒステリーになって、アレックスの姿をしたノエルは家中を駆けずり回った。ノエルがアレックスの姿なら、アレックスはノエルの姿なのだろうか。それとも、アレックスのままなのだろうか。しかし、家中どこを探してみてもどんな姿のアレックスも見当たらない。よもや、透明になってはいるまいなと思ったが、それを確かめる術はゼロである。

 アレックスはとびきりの高身長と言う訳ではないが、発育の良い女の子よりも背が低いノエルからしてみれば、その視界も伸びた四肢も全くもって扱いづらい事この上ない。何度か足や腕をぶつけながら、とうとう家の中に居ないのだと確信すると、ノエルはアレックスになっている自分の顔を両手で覆った。気色の悪い事に、老人特有のスベスベした手触りがする。

「何なんだよ、もう……! アレックス、どこからか見てるの!? これ何かの実験!? それとも、僕の新しいパワーか何かが暴走してるわけ!? 中身が入れ替わってるの、それとも僕の体がアレックスに変身してるの!? ねえ、もし隠れてるんだったら、僕本気で怒るからね!」

 いくらノエルが叫んでみても、返って来るのは静寂ばかり。ノエルはリビングのソファにぐったりと座り込んで、深々とため息を吐いた。途中、いつもの能力が使えないか試してみたが、スプーン一本さえ宙に浮かせる事は出来なかった。どうやらこの体は完全にアレックスのもののようだ。そんな老人の体のせいなのか、それとも今の状況のせいなのか、なんだか妙に疲れを感じた。のろのろと視線をあげて時計に目をやる。もうすぐ三時だ。

 そこまできて、ノエルははっとし身を起こした。本来なら学校が終る時間だ。もしアレックスがノエルになっていて、何かしらの理由で……どうせすこぶる身勝手かつくだらない理由で……代わりに学校に行っているのなら、ちょうど下校するところを捕まえられる。ここで訳も分からず座っているよりよっぽど良い。

 そう考えるやノエルは立ち上がり、一目散に家から飛び出した。今、ノエルはアレックスなのだから法的にガレージの車を運転しても問題ないのだが、まだ二度しか運転の練習をさせてもらっていないノエルには無事に学校にたどり着ける自信が無いため、良心に従って車のキーに手を出すのはやめておいた。本当はアレックスの愛車をボコボコにして、泣き顔を見てやりたいくらいなのだが。

 長い足を持て余し気味に歩きながら、いつもと違う視界の世界を見つつ学校に到着すると、なんと幸運な事か、ちょうど校門からノエルが出てくるのが見えた。自分の体を持つあの少年の中に果たしてアレックスが居るのかは不明だが、とにかく、ノエルは理由のない安堵を覚えて自分そっくりの少年に駆け寄った。

「アレックス!」

 少年は最初、ノエルなんて存在していないように無視していたのだが、大声で喚きながら自分に一直線に駆け寄って来る老人に気が付いた途端、目を丸くし、慄いて一歩後ずさった。恐怖を隠しもしないその様子はアレックスらしいとはとても言えない。少年の前まで来、彼を見下ろすやノエルはその違和感に気づいた。

「な、なん、ですか……!?」

 それにしてもアレックスの目線から自分を見下ろすと、予想以上の小ささに驚いた。確かにこれでは小学生だなんだとからかわれても納得せざるを得ない。自分の発育が遅れている事を自覚してはいたものの、客観的に見てみると改めてそれを痛感した。

「……アレックス?」

 ノエルそっくりの少年は更に一歩後退した。

「ち、違いますけど……」
「……君、アレックスじゃないの?」
「はい……」
「で、で、でも、いや、そんなはず……!」
「ひ、人違いですから、さようなら!」

 少年がぱっと逃げだそうとしたので、ノエルは大急ぎで細い肩を掴んでそれを食い止めた。現状では彼こそが唯一の手掛かりなのだ、このまま逃がしては何もなくなってしまう。

「じゃあ君は誰なんだ! 僕がアレックスならアレックスが僕のはずだろ!? それが、それが、それが理屈ってもんだ! もし僕がアレックスでアレックスが僕じゃないなら、じゃあ君は何だって言うんだ! 僕が二人いるの!? ノエルは僕なのに!」
「ああああっ、離して!」
「あっ!」

 少年はひっくり返った声で叫ぶと、ノエルを突き飛ばしてその手から逃れ、死に物狂いで走り出した。

 そして、トラックに轢かれた。

 あんまりにも突拍子なくノエルそっくりの少年が吹き飛んだものだから、ノエルは最初なんの反応もすることが出来なかった。事故の瞬間の恐ろしい衝突音が彼の鼓膜をガンガンと揺すり続けて何も考えられない。その音が消えてようやく、ノエルは自分の叫び声を聞きつける事が出来た。ノエルは叫んでいたのだ。

「そんな、なんでこんな事に!」

 ここまでくると、少年を轢き殺すためだけに何もない所からトラックがぽんと現れたような印象さえ受ける。少年はどうやらノエルの死亡体質もしっかり受けついでいるらしく、道路で目も当てられない程ぐちゃぐちゃになっている様はまさに”ノエルらしい”としか言いようがない。

 アレックスもこんな感じなのだろうか。毎回ノエルが死ぬ度に度肝を抜かれ、焦り、頭が真っ白になっているのだろうか。それとももう慣れっこで、鉄臭い肉塊を見ても何とも思わないのだろうか。なんにせよ、これはどうにかせねばなるまい。アレックスはこの場所に居ないし、見た目がアレックスなのはノエルなのだから、アレックスの役割をノエルがこなさなければいけないのは明白だ。

 もしこのままそこで死んでいるもう一人の自分を放っておいたら一体何が起こるのだろう。自分も消えてしまうのか? タイムパラドックスとやら起きて、世界が爆発するのか? いくらアレックスの見た目でも彼のような好奇心はちっとも沸いてこないノエルは、大急ぎで”修正”の為にスマートフォンを白衣のポケットから取り出した。

 アレックスのタイムトラベルについて行った事は何回かあるし、自分の発明はなんでも自慢するアレックスのおかげで大まかな使い方は分かっている。時計マークのTTと言うアプリを立ち上げると、ノエルは人差し指の先を迷わせながら時間を入力しだした。ここに年、月、日ときて時間……二分前で良いだろうか。

 少年を轢いたトラックの運転手が頭を抱えながらようやくこちらにやって来た。通行人も衝撃から立ち直り、各々騒ぎながら取るべき行動をとっている……救急車に電話をしたり、泣き出したり、死体の写真を撮ったり。そのうちの一人がノエルに声をかけてきた。この女性はノエルが少年を追いかけていたのを目撃したのだ。

 しかし事情を説明している暇はない。ノエルはタイムポータルを出現させ、食ってかかる女性に有無を言わせずその中に飛び込んだ。何度経験しても絶対に慣れないだろうぞわりとした感覚に襲われた後、気が付けばノエルは同じ場所に立っていた。先ほどの人だかりと事故の痕跡はない。二分前の世界は平和そのものだ。

 しかし、間髪いれずにひっくり返った声が聞こえ、慌ただしい足音が背後から近づいてきた。角をひょいと覗き込めば、今まさに道路に飛び出そうと全速力で駆けて来る少年の姿。そして道路の左側には、不必要なまでに加速したぐんぐん近づくトラック。

「危ない!」

 ノエルは長いアレックスの腕を突き出して、ロケットのように飛んで行ってしまいそうな少年の体を抱きとめた。途端、二人の目の前を凄い勢いでトラックが走り去る。後には渦巻く排気ガスのにおいだけを残し、先ほど少年を殺めた鉄の悪魔は他の餌食を探しに行ってしまった。少年は助かったのだ。

「ぅあ……」

 鼻先をトラックが通り過ぎた事で、自分が一歩間違えば死んでしまう運命だったことを悟った少年は情けない呻き声を零し、そのままストンとその場にへたり込んだ。少年の後ろからアレックスが……違う、アレックスの姿をした過去のノエルが駆けつける。ノエルは慌てて手を振った。

「ア、アレックス!?」
「違う、過去に戻ってきた僕! 今ほら、危なかったから! でも大丈夫、もう助けたよ!」
「あ、ああ、ありがとう!」

 少年は全く同じ男が目の前に二人も現れて困惑しきりであるが、死にかけたショックが強いのかまだぼんやりとしている。ノエルは少年をそのままにして、急いでポータルの中に再び飛び込んだ。元の時間に戻ってくるとアレックスの姿をしたノエルは一人に戻っていたし、少年も変わらずへたり込んだままだった。修正は成功したのだ。

「ええと、君、大丈夫?」

 少年は目を瞬かせ、辺りを見回し、それからノエルの事を見上げた。

「い、今、あなたが、もう一人……」
「ま、まさか! 見間違いだよ!」

 ひきつった笑顔を見せるノエルを見、少年はゆっくりと目を細めた。ノエルははっとした。この少年がノエルと同じように死亡体質なのであれば、その他の能力も持っているに違いない。このままでは、ノエルの思考を読まれてしまう……自分だってまだ何が起きているか分かっていないと言うのに、こんな支離滅裂な現状を理解させられるはずがない。

「じゃ、じゃあ、気を付けて!」
「えっ、あ、ちょっと!」

 今度はノエルが逃げ出す番だった。少年の制止も振り切ってその場から駆け出すと、後はもうお手あげ状態で何の見込みもなく、唯一の帰る場所であるアレックスの家に戻るしかない。心細さのあまり母親の元に帰りたいとさえ思ったが、ノエルそっくりのあの少年が自分を知らないのであれば、母親だって知らないはずだ。もし知っていたとしても、アレックスの姿なのだから暴言を吐かれて追い出されるに決まっている。

 アレックスの家に戻り期待せずに彼の名前を呼んでみたがやっぱり返答はなかった。大きく息を吐き出しリビングで立ち尽くす。彼が行きそうな場所を片っ端から探してみるべきだろうか。しかし、もし訳の分からない連中から呼び出されて仕事に付き合わされているのであれば分かりっこない。それどころか地球上に居るのかさえ定かではない。これで近所のスーパーにでもいたら笑えるのだが。

 自室にも居ないし、ガレージにも居ないとなれば、後は地下の研究室くらいしか家の中にあてはない。だが、あの研究室はアレックスの許しがないとノエルは入れない場所だった。彼の聖域であると同時にノエルの地雷原なのだ。ただでさえ予期せぬ事故で死んでしまうノエルが彼の発明ひしめくラボに足を踏み入れたなら、一体何度奇妙な死を遂げる事になるのだろう。

 けれど今は緊急事態である。それに今ノエルはアレックスなのだから、超能力の消失と共に死亡体質も消失していると考えて良いだろう。今の所危ない目には一度も遭ってないどころか、あの少年を救った程なのだ。だからきっと、地下の研究室に入ってもSF光線で頭が吹き飛んだり、蠅と合体して体が溶けたりはしないはずである。

 地下への入り口はガレージに一か所とキッチンに一か所あった。ノエルは近い方のキッチンを選ぶと、冷蔵庫の前に立ってドアの表面を軽く撫でた。すると表面が僅かに浮き出し、そこに認証用のパットが現れた。このようなギミックはアレックスの趣味で家中至る所に様々な用途で仕込まれている。ほとんどが彼専用で、弄ってもろくなことが起きないのでノエルにはあまり馴染みがないものだ。

 ボタンがいくつかあるがどれを押していいか分からず、とりあえず一番上を押してから掌をパットに押し付けた。ピピっと電子音が鳴り、冷蔵庫の扉が自動的に開かれる。中には明らかに対人間用ではない武器の数々がぎっしり詰まっていた。

「違う違う、そうじゃない! メン・イン・ブラックじゃないんだから!」

 扉を閉めて今度は違うボタンを押してパットに掌を当てる。今度は違う電子音がして、また扉が開いた。中には異臭を放つ紫色の肉片や蠢くいびつなナメクジのようなもの、果ては呻き声をあげる顔のついたドロドロした何かまで、地獄の実験室の有様が広がっていた。ノエルは悲鳴をあげて扉を閉めた。

「もう、アレックス、冷蔵庫の中に何入れてるんだよ!」

 次のボタンを押して三度パットに掌を押し当てると、今度こそ冷蔵庫本体がぶるりと身震いし、すっと横にスライドした。冷蔵庫によって封じられていた壁には地下に通じるエレベーターが埋め込まれている。ようやく当たりを引いたようだ。辟易しながらそこに足を踏み入れるとエレベーターは降下をはじめ、頭上では冷蔵庫が元の位置に戻っていった。

 十秒程低いモーター音を聞きながらノエルは下へ下へと降り続け、やがて静かに扉が開いた。そこには、おおよそ一軒家の地下とは思えない程広い空間が広がっていた。大小様々なマシンが乱雑に置かれ、セルンもかくやと言う風景だ。否、事実ここにも粒子加速器はあるのだが、セルンのそれよりずっと小さく改良したものであるため、アレックス以外の人にそれは掃除機にしか見えないのであった。

 ご近所さん達の数十メートル下を勝手にくり抜いてこんな研究室を拵えたのだとバレたら、きっとアレックスは家を追い出されてしまうだろう。ノエルは何度見ても感心する研究室内を眺めながら、ダメもとで声をかけた。

「アレックス、ねえ、居ないの?」

 広い研究室の中にノエルの声はただただ吸い込まれていくばかり。デスクにも、数式がびっしり書き込まれた巨大なホワイトボードの前にも、謎の生き物が培養液の中で浮かんでいるタンクの陰にも、物体縮小化装置の横にも、呪われた人形の前にも、地球外の病原菌を保存している冷凍庫のそばにも、書類棚の所にだって、人影どころか気配さえまるでない。ここにもアレックスは居ないのだ。

 盛大なため息を零しながら、ノエルの視線はふと書類棚へと吸い寄せられた。まるで外国語のように(実際外国語と、明らかに地球外の言葉であろうものもたくさんあった)聞いた事もない専門用語が書かれているファイルがずらりと並んでいるその棚の上の段に、たった一文字”N”と油性ペンで書かれた段ボール箱が置いてあったのだ。

 我ながら自意識過剰かもしれないとノエルは思ったが、どうしても気になってしまったのだから仕方ない。彼は書類棚から箱を引き抜くと、床に置いて恐る恐る蓋を開けてみた。中には無数のノートが収められていた。それぞれノートの表紙には日付が記載されており、一番古いものは2006年4月となっている……ちょっと待った、ノエルとアレックスが初めて出会った時期じゃないか!

 もう自意識過剰とは呼ばせない。これはノエルに関する何かに違いない。人の日記を盗み見るようで強烈な後ろめたさに襲われたノエルだったが、ここまで来て中を見ずに戻せる程彼は大人ではなかった。大いなる不安と僅かばかりの期待に鷲掴みされた心臓が肋骨の奥で苦し気にもがくのを感じながら、ノエルは意を決してノートの表紙を開いた。

 中身は、白紙だった。文字はおろかペンを走らせた形跡さえない真っ新なページが最初から最後まで続いている。他のノートも調べてみたが、やっぱりどれも何も書かれてはいない。

「なにこれ……」

 勿論、ノエルへの思いをつづった秘密のノート等とは……ほんのちょっとしか期待していなかったが、まさか白紙とは思わなかった。ならこの日付は何を意味しているのだろう。それとも、特殊なインクで書かれていて何かしないと読めないのだろうか。ああ、アレックスなら十分にその可能性もあり得る。

「ノエル」
「えっ」

 突然アレックスの声が聞こえ、ノエルは驚きのあまり手からノートを落としてしまった。今の声は自分の喉から発せられたものではない。どこかにスピーカーでもあるように、アレックスの声が空間中をわんわん響きまわっている。彼は立ち上がり、急いで辺りを見回した。

「ア、アレックス、居るの!?」
「ノエル!」
「ど、ど、どこ!? ねえ、見えないよ! やっぱり透明なの!?」
「馬鹿もん、ここだ、ここ」

 部屋中に満ちていたアレックスの声が突然クリアになり、ノエルの後ろから投げかけられた。しかし、振り返った先に居たのはアレックスではなく、そもそも人間でさえない存在だった。ブロックノイズを引き連れながら宙に浮いていてる、人型で、坊主で、両腕をピンと横に伸ばし、白いTシャツと黒の半ズボンを履いた、見た事もない男らしき物体だったのだ。

「ちょっと待て、予備だから接続が悪いな」

 男の口だけがもごもごと動き、アレックスの声を発している。やがてノイズが治まるとその男はようやく地面に裸足の両足をつけて立ち、ぎこちなく動き始めた。

「あの……アレックスなの……?」

 恐る恐るノエルが問いかけると、アレックスと思しき男は自分を見下ろしてかぶりを振った。

「白シャツに黒ズボンとは、いかにも無課金初期ユーザーって感じだな。クソダサイ」

 唸るようにそう言い、彼は何もない空中を見上げ片手で何かを操作するような動きを見せた。何をしているのかノエルが聞くより早く、男は突如発光し真っ白の光に包まれ、数秒と経たずにその中からアレックスが現れた。間違いない、今のノエルの外見とそっくり同じ、アレックス・ヴァレンタインその人だ。

「アレックス!」

 ノエルは歓喜の声をあげて彼に抱き着いた。はた目から見たら同じ人間が二人でひっついているのだから、奇妙な光景この上ない。アレックスは嫌そうにノエルを押しのけた。

「気色悪い、俺の外見で俺に抱き着くな!」
「だって気づいたらこうなってたんだよ! これ一体なんなの!? 何がどうなってるわけ!?」
「お前、覚えてないのか」
「何を!」
「今俺達が居るこの世界は、ヴァーチャルリアリティ。全部作り物だ!」
「は、ヴァーチャルリアリティ……?」

 ヴァーチャルリアリティ。VR。VRくらいノエルだって知っているし、VRゲームを実際にプレイしたことだってある。確かにVRはリアルな体験が出来るが、これはリアルな体験どころの騒ぎではない。リアルそのものじゃないか。これのどこがVRだと言うのか。

「待ってよ、これがヴァーチャルな訳ないだろ! だって全部、本物だよ!」
「本物に見えるように俺が作りこんだんだ、どうだ、見分けがつかんだろう。俺って本当に天才だよな。だが、よく出来すぎてSONYは買ってくれなかった。現実とヴァーチャルの境界線がないから、ガキがイカれちまうとさ」
「ア、アレックスがこれ全部作ったの? じゃあ、じゃあ、これが現実じゃないなら、今ここにいる僕は何?」
「ヴァーチャル世界にダイブした意識だ。現実のお前はVRゴーグルをつけてガレージのパソコンの前に座ってる。それを俺が見つけて、予備のゴーグルでこうしてぶん殴りに来たわけだ」

 そう言うやアレックスは問答無用でノエルの頭を殴りつけた。しかし驚いた事に、殴られた感触はあるが痛みはこれっぽっちも感じない。

「ほらな、痛くないだろ? このシミュレーションに痛覚はプログラムしてないんだ」
「すごい、驚いたな……」

 殴られたせいなのか、真実を知らされたせいなのか、ノエルは自分の記憶が急激に蘇ってくるのに気が付いた。そうだ、アレックスを呼びにガレージに行ったらパソコンの前にかっこいいゴーグルが置いてあって、興味本位でつけてみたのだ。そうしたら急に意識が暗転して……冒頭に戻ると言う訳である。

「あんまりにリアルだから、慣れてない奴がいきなりダイブすると脳みそが混乱しちまうんだ。まったく、勝手に人のもんを使うからこうなるんだぞ、この俺のガレージにそこらへんのVRゲームがあるとでも思ったのか!」
「だって、いかにもVRゴーグルっぽいものが置いてあったらつけちゃうよ! 僕16だよ、こういうガジェットには目がないの!」
「ああクソ、いつまでも自分の顔なんか見てられん。ちょっと待ってろ」

 再びアレックスは空中を見やり、何かの操作をした。すると今度はノエルが光に包まれ、瞬きする間に世界が慣れ親しんだ目線に戻っていた。急いでそばにあった謎のマシンのピカピカに磨かれた表面を覗き込むと、そこにはしっかりとノエル少年の顔が映っている。ノエルはノエルの体を取り戻したのだ。

「元に戻った!」

 見下ろしたやせっぽちの体も、少々丈の長い緑のパーカーも、靴紐がほどけた汚い白のスニーカーも、声変わりが終ったのかまだなのか微妙な声も、全てが元通りだ。はしゃぐノエルを見下ろし、アレックスは軽く肩をすくめた。

「ああ、こっちの方が落ち着く」
「僕、なんでアレックスだったの?」
「俺のアバターを使ってたからだ」
「へえ……ねえ、これなんなの?」

 床に落としたノートを拾い上げると、ノエルはそれをアレックスに差し出した。彼は一瞬目を細め、乱暴にそれをひったくると段ボール箱の中に放り込む。

「なんでもない」
「でも、それ、僕の何かなんじゃないの? 中身真っ白だったけど」
「勝手に読んだのか!?」
「だから白紙だったってば!」
「お前はなんでそうなんにでも首を突っ込むんだ! プライバシーって言葉知ってるか!?」
「知ってるけど、僕には無縁の言葉だよ」

 だって、頭の中が読めちゃうんだから。その言葉を直接アレックスの頭の中に響かせると、老人は顔に皺を深々と刻み込んで不機嫌極まる顔を作った。

「ただのお前のくだらん能力に関する記録だ。他の奴に見られちゃ困るから地下で保管してる」
「でも、何も書いてなかったよ」
「いちいち本や書類の文章までヴァーチャルに移してたら、終わる頃には地球は滅んでる! そっくりなのは上っ面だけで良いんだ、そこの棚にあるやつは全部白紙だよ! 満足したか!」

 なるほど、必要な部分は驚くほど作りこまれているが、手を抜く場所は抜いているのだ。確かに、ヴァーチャルの世界に来てわざわざ本を読む事もないだろう。

 納得こそしたものの、ノエルは不服そうに唇を尖らせてパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。

「で、なんのためにこんなもん作ったの」
「言ったろ、シミュレーションだ」

 段ボール箱の蓋を閉じ、アレックスは荒っぽくそれを元の位置に戻す。ノエルは食い下がった。

「シミュレーションって、なんの?」
「色んな事」
「色んな事って?」
「しつこい奴だな、俺の研究に口出しするな! どうせお前の脳みそじゃ1%も理解できんだろうが!」
「じゃあ僕にも理解できるように説明してよ、天才なんだろ!」

 今にも取っ組み合いを始めそうな二人の間に、突然間の抜けた玄関のチャイム音が飛び込んできた。作り物の世界でも突然の来訪者が来る事にノエルは驚いたが、アレックスはただ忌々しげにキーボードに手を伸ばす。パソコンの画面が玄関先を映す映像に切り替わった途端映ったのは、扉の前に立っているノエルの姿だった。

「はあ、なんだ!?」

 アレックスは素っ頓狂な声をあげた。

「ただの僕じゃん、こっちの世界の。そう言えばあの子、僕の事……つまり、あんたの事知らなかったよ。なんで?」

 事もなげにノエルが言うと、アレックスは凄い勢いでノエルを振り返り、鬼の形相で叫び出した。

「お前、あいつと会ったのか!?」
「う、うん、学校で……」
「なんで学校になんか行った!」
「あんたが僕の姿になってると思ったんだよ! で、確かめに行ったらちょうどもう一人の僕は車に轢かれて死んだから、二分前に戻ってそれを救った! どういたしまして!」
「お前っ!」

 アレックスは声を二倍にも三倍にも張り上げて、ノエルの頭を渾身の力で殴りつけた。勿論、痛くない。

「五分以内のタイムトラベルは危険だから厳禁だとあれほど言っただろうが! もし元の時間軸に戻れず過去が現在に追いついたら、お前の時間軸は消滅し、世界にお前が二人いる事になっちまうんだぞ! これが現実じゃなかったから良かったものの、簡単なルールも守れん奴にタイムトラベルをする資格はない! ああチキショウ! そんな事より……!」

 再びチャイムの音が鳴る。アレックスは唾を吐き散らし、歯を食いしばった。

「よくも俺の努力を無駄にしてくれたな! ああ、確かに今日の分のデータを消してやり直せば良いだけだ、だがそう言う問題じゃない! お前は俺の聖域に土足で入り込んで滅茶苦茶にした! お前と関わることなく助けるのがどれだけ大変だったか分かるか!? ここに居る時、俺はお前と接触しないように細心の注意を払ってきた。なのにお前ときたらのこのこ学校まで行ってあいつの命を救い、挙句の果てに家にまで押しかけさせたんだぞ!」
「ちょ、ちょっと待って、待ってよ。ここじゃあ僕ら出会ってないの?」
「もう過去形だ、お前がぶち壊したからな!」
「……じゃあこれ、僕らが出会わなかった世界のシミュレーションなの……?」

 最後はほとんど吐息になっていた。ノエルは大きな瞳を更に丸くし、愕然とした表情でアレックスを見上げる。アレックスはその様子に怒気を殺がれ、一瞬気まずそうに視線を泳がせた。それはノエルを打ちのめすのに十分な時間であった。

「……色んなパターンの世界を作ってある、ここはそのうちの一つに過ぎん」

 三度チャイムの音。言い訳じみた口調でアレックスが言うと、ノエルの眉間にしわが刻まれた。

「へえ、他はどんな世界なの? 僕が生まれてこなかった世界とか?」
「いいか、俺は科学者だ。ありとあらゆるパターンを考える必要がある」
「それじゃ、このシミュレーションが現実より良い未来を創るって分かったらどうするの? 過去に戻って僕と出会わないように手を回すわけ!?」
「お前が幸せになるなら、ああ、そうするさ! 時間を飛ばしてこの世界の大人になったお前を見せてやろうか? きっとリサと子供を作ってテレビドラマみたいな普通の家庭を築いてる、イカれた科学者は抜きでな!」

 ノエルが両の拳を握りしめると同時に研究室内にあるものがわなわなと震え出した。気が付くと少年の瞳は真っ赤になっている。またチャイムの音。

「ふ、ふざけんな、このクソジジイ! あんたに僕の幸せを決める権利なんかない! そんな未来より、僕らが上手くいく未来を見せたらどうだよ、あらゆるパターンを考える必要があるんだろ!」
「そんな気色の悪いシミュレーションなんか作っとらんわ!」
「へえ、そう! 嘘かどうかあんたの頭の中を覗いて確かめてみよう!」
「ああああ、クソッタレッ!」

 ノエルの怒声にチャイムが重なった瞬間、とうとうアレックスは爆発した。頭を掻きむしり、エレベーターのボタンをほとんど殴る勢いで叩くと、足音も荒くエレベーターの中に入り込む。彼は血走った瞳でノエルを睨みつけた。

「先にあいつを黙らせる! 来い、ノエル!」

 このままここで抵抗を続けることも出来るが、とは言えここはVR世界の中。こんなところで喧嘩を続けていても何にもなりはしない。ノエルはふてくされた顔のまま、何も言わずにアレックスの横に収まった。さっさと現実世界に戻って、確かな痛みを伴うパンチをアレックスのみぞおちに食らわせたくて仕方なかった。

 二人を乗せたエレベーターはガレージに通じている方のエレベーターだった。到着した先は掃除用具やら脚立やらをしまっておく物置の中で、エレベーターから降りて物置の扉を開けるとシャッターが閉まったままの暗いガレージの中に出る。ノエルはアレックスの後に続いて物置を出ようとしたが、アレックスが腕を突き出してそれを制した。

「お前はここに居ろ」
「なんで!」
「外にお前が居るからだ! ここに隠れて待ってろ!」

 至極最もな話ではあるものの、カッカきている今そんな事を言われては余計頭にくるばかり。しかしノエルはぐっと言葉を飲み込んで、荒っぽく閉められた扉を睨みつけるだけにとどめた。電気の紐を引っ張って物置の中を明るく照らす。狭く汚い室内を見ると、惨めさが増した気がした。

 一方アレックスはガレージのシャッターを開けた。そろそろと高度を下げる西日と一緒にもう一人のノエルがガレージに顔を出すと、彼は腕を組んで苛立たし気に唸った。

「何の用だ」

 この世界のノエルは、先ほどとあまりにも雰囲気の違うアレックスの様子にたじろいだ。見た目が一緒でも中身が違うのだから当たり前なのだが、この少年がどうしてそれを知れようか。叱られた子犬のようにこのまま尻尾を巻いて逃げ出すかと思われたが、少年は自分を奮い立たせて口を開いた。

「あ、あの、急にごめんなさい。あの後、僕を心配したおばさんが話しかけてきてくれたんだけど、彼女が貴方の事知ってて、その、ええと、近所で……”有名”な人だって……それで、住所を聞いて……」
「何の用だと聞いたんだ」
「た、助けてくれてありがとうって、言いたくて……!」
「そうか、もう用は済んだな。帰れ」
「え、あっ、ま、待って!」

 少年の伸ばした手が、踵を返したアレックスの白衣を掴んだ。反射的にアレックスは怒鳴りつけてやろうと振り返ったが、その先に驚く程真剣にこちらを見上げてくる少年が居て息を飲む。この目には見覚えがあった。ああ、忘れるわけがない。ガレージによたよたやって来た三歳のノエルが、そこに居たアレックスと目が合った瞬間に見せた瞳。

 純粋な哀れみの瞳。

「あ、あ、あの、ああもう、なんて言うか、どう言ったらいいのか、分からないんだけど」

 固まるアレックスを引き留めながら、少年は続ける。

「ちょっと、貴方の様子が変だったから、気になって、大丈夫かなって……! お、お礼じゃないけど、助けてもらったし、何か僕に出来る事がないかと、思って……!」

 ありがとうを言いに来たなんて嘘だ、こっちが本題じゃないか。しどろもどろに言葉を紡ぎながら、とどのつまりはアレックスを心配する少年の声を聞きながら、彼は頭がクラクラするのを感じていた。

 結局自分達が接触を持つとこうなるのだ。三歳も十六歳も変わらない、ノエルはアレックスのためにガレージにやってくる。例え四十歳まで会わずに済んだとしても、何かの拍子に接点が出来れば彼はこのガレージにやって来るのだろう。アレックスの為に。

 しかしそれは、間違っても愛だの運命だののせいではない。憂鬱に窒息させられそうな程抱きしめられているこの現代社会において、抜きんでて自滅的な思考に魅入られているアレックスの電波を心優しく正義感の強い人間がキャッチしただけの話だ。少年は思う。今自分が声をかけなければ、この老人は今晩にでも何かをしでかすのではないかと。

 こうして真っ白だった少年の人生に汚い染みが一つ落とされる。アレックス・ヴァレンタインと言う真っ黒い染みが。そして跡形もないほど白を飲み込んでいくのだ。

「……え、なに……?」

 不意に少年は困惑し、白衣から手を離した。理由は簡単だった。彼はアレックスの頭の中を見てしまったのだ。アレックスはそれを知るや一気に脱力し、全てがどうでもよくなってしまった。

「僕を知ってるの……? 違う、そんな、なにこれ、だって僕ら……!」
「ノエル、来い。現実に戻るぞ」
「は、現実!?」
「お前に言ったんじゃない」

 狼狽する少年を放り出し、アレックスは物置の扉を開けた。隠れていたノエルは驚き、咄嗟にアレックスの陰に隠れようとしたのだが、彼が出てこいと言ったのだからそうしても良いのだろうと思いなおすと恐る恐る物置から出ていく。自分と瓜二つの少年はノエルの登場に最早言葉も出ないようで、でくの坊のようにガレージと歩道の堺に突っ立っていた。

「い、良いの、アレックス……?」
「どうせ今日起こった分のデータは消す、何が起きようがどうでも良い。ログアウトと言え。そうすれば終わる」
「……ログアウト」

 遠慮がちにノエルが言った途端、彼はその場からぱっと消えてしまった。これでノエルの意識は現実世界の自分の体に戻ったはずである。自分とそっくりの人間が突如消失する現場を見ていた哀れな少年の口から、悲鳴なのかため息なのか分からない空気の漏れる音がして、アレックスの注意を引いた。二人の視線がかち合う。

 わななく唇をやっとの思いで開けたものの何を言えばいいか分からない少年をなんとも言えない顔で見つめた後、アレックスは突然作業机の引き出しを開けて中から銃を取り出し、流れるような動作でそのまま少年の眉間を撃ち抜いてしまった。

 軽い音を立てて少年の体は倒れた。歩道とガレージの中にどんどんと血が広がっていく。これはただのデータだ。自分がノエルに見立てて作り出した魂のない人形。今自分がしたことは、まったく、なんの意味も意義もありはしない。

 アレックスは暫く少年の死体を空っぽの瞳で眺め、わずかに震える声で呟いた。

「ログアウト」

 途端、全てが消えた。一瞬真っ暗な空間に放り出され、いきなり目が覚めたような軽い衝撃が彼を襲う。アレックスは目を瞬かせた後、被っていたVRゴーグルをゆっくりと外した。隣ではノエルが自分のゴーグルを両手で持って、辺りを見渡しているところだった。

 二人はガレージの中に居た。パソコンの前、椅子に座っている。画面にはポップアップウィンドウが出ており「シミュレーション終了」と書かれていた。ノエルがゆっくりとアレックスに視線を移す。

「それで……これって……現実?」
「ああ。叩いてやろうか」
「代わりに僕があんたを殴るのはどう?」

 アレックスは返事をしなかった。気のない様子でパソコンを弄り、何かの作業を始めている。先ほどのように喧嘩をする気はまるでないらしく、これ以上嫌みや直接的な罵声を浴びせても反応がないだろう事を悟ると、ノエルは居たたまれなくなって椅子から立ち上がった。

「言っとくけど、こんなもん作ったのを許したわけじゃないからね」
「へえ」
「確かに僕は普通の人より死にやすいし、あんたが居ないとやっていけないのは分かってる。でも、だからって僕の人生を操作する権利はないだろ! 僕の人生は僕のものだ!」
「良いスピーチだな」

 空気でも殴っているような手応えに嫌気がさしたノエルは、乱暴にゴーグルを作業机の上に放り出し、そのまま家の中に入っていってしまった。

 一人になったアレックスは大きく息を吐き出すと、立ち上がり、物置へと向かった。そのままエレベータに乗り込み、地下の研究室に降りていく。エレベーターから出ると彼は真っ先に書類棚の所に行き、そうして、Nと記された例の段ボールを棚から引き抜いた。

 先ほどVR世界で見たのと同じノートが何冊も収まっている中から、アレックスは一番上の一冊を手に取って開いた。先ほどは白紙だったが、現実では違う。そこには彼の手書きで、びっしりとノエルの”死亡履歴”が書き連ねられていた。

 日付、時間、場所、死因。この記録はノエルが初めて死んだ時……2006年4月9日午後8時07分、自宅、母親の恋人からの暴行により頭を強く打ち付けて死亡……にまで遡る。勿論、ここに書かれたノエルの死は、今となっては全てなかった事である。アレックスが歴史を一つ残らず修正したのだから。

 ノエルはここに記された膨大な量の死が自分に牙をむいたことを覚えていない。いくつかはアレックスから教えられているが、具体的にこれまで自分が何回死んだのかまでは知らなかった。それでいい。もしこの夥しい自分の死のカタログを見たなら、ショックを受けるだけでは済まず、部屋から一歩も出られなくなってしまうだろう。

 はじめこそ少年の死の関連性や原因究明にとつけていた記録であるが、いつしかこれはアレックスにある種の自傷めいた意味を与えだしていた。これはノエルの死の記録にして、そうに非ず。自責の備忘録。救えなかったノエル達の呪いの言葉。戒めと呼ぶのもおこがましい無力の証明書。

 嗚呼。

 アレックスは俯いて下唇を噛んだ。まもなく彼の舌先に鉄の味が触れた。

 ……言えるはずがない。自分とノエルが出会わない世界では、少年の苦しみがこのノート一冊分で済んでいるだなんて。

 突然、頭上から凄い音がした。ガン、ゴン、バタンと音は数度続き、後はそれきり何も聞こえない。アレックスは箱を元の場所に戻すと、エレベーターに乗って地上へと向かった。諦めにも似た嫌な予感が胃の中をゴロゴロ転げまわっている。

 家の中に入ってすぐに彼は音の原因を見つけ出す事が出来た。二階に続く階段の一番下にノエルが倒れている。首があらぬ方向を向き、目と口はうつろに開いていて、死んでいるのは一目瞭然だった。頭から流れ出た血が床にゆっくりと広がっていくのが見えるが、死因は頭ではなく首を折ったからだろう。

 アレックスは弱々しく息を吐き出し、静かにノエルの死体を抱き上げ階段の下に座り込んだ。両腕で優しく小柄な体を抱いてやると、彼の右腕をノエルの後頭部から溢れる血が濡らしていく。まだ血も体も暖かいが、すぐにその温度を失うだろう。赤く染まっていく白衣さえ、それがノエルの血であるなら愛しく思えた。

「……このまま」

 かすれた声でアレックスは囁く。

「お前を休ませてやるべきなんだろうな」

 考えたとしても、とても実行する勇気はない。シミュレーターが示す通りノエルと出会わないよう過去に戻って手を回せば良い物を、いつまでも出来ていないのと同じで。

 アレックスはノエルを抱く腕に力を込めた。

「お前は結局、周りの大人達に傷つけられてばかりの可哀そうな子供で、中でも一番お前を傷つけてるのが俺なんだよ。気づいてるか? これは全部俺のわがままだ。本当は、お前は苦しむ必要なんてないのに、俺がお前を手放せないから……」

 もう動くことはない少年の首筋に顔を埋めると、強烈な血にかすかにシャンプーが混ざった匂いが鼻腔をくすぐった。

「俺とお前が上手くいくシミュレーションは作ってない。そんなもん見る勇気ある訳ないだろ」

 それからアレックスは身を起こすと、不意ににんまりと笑みを浮かべた。彼の視線はのろのろと家の中をさまよい、夢でも見ているような顔つきになっている。血のにじむ唇の合間を縫って、発作のような笑いが飛び出した。

「ハ、ハハ、このまま一緒に死んじまおうか、なあ、ノエル。俺も階段をのぼって、上から飛び降りてやる。ハハハ、名案だろ。ノエル、聞いてるか? 今すぐ俺もそっちに行くぞ。ハハハハ……ハハ……そうもいかんか」

 ふっとアレックスの顔から笑顔が消え、みるみる険しい顔つきに……ほとんど泣くのを我慢しているような顔つきになると、後はもう力の限りにノエルの体を抱きしめた。

「……許してくれ、ノエル……」

 縋るようにそう言って、アレックスは何度もノエルの名前を繰り返した。血は体温と一緒にノエルの体から流れ出続け、二人を一緒に染めていく。構わないのだ、どうせこんな事実は事実でなくなる。アレックスの張り裂けそうな告白だって、なかった事になる。

 だから、今だけは。

 名前のベールをかぶった聞き届ける者のいない謝罪が、空気中に紫煙のようにくゆっている。アレックスは立ち上がれる元気を手に入れるまで、ノエルの名を呼びながら永遠とも思えるその瞬間に座りこみ続けていた。

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