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転校初日


「変なの」

 他の子がポニーを愛でる感覚と同じように、キャットはタランチュラを愛していた。その感情は全く同じものであるのだが、それは間違いなく”変”な事だ。

「変なの」

 他の子が恋愛小説を読むのと同じように、キャットは黒魔術書を愛読していた。胸の高鳴りに違いはないというのに、それは紛れもなく”変”な事だ。

「変なの」

 キャットは真っ暗な中で立ち尽くしていた。周りには大好きな黒魔術書や魔女の歴史の本が置かれ、かっこいい魔方陣が床に描かれている。両腕にはミスターベアが……きちんと体のついたミスターベアが収まっていた。

「あら!」キャットは彼を掲げて笑顔を浮かべた。「ミスターベア、あなた、体が、」

 言い終える前に、キャットの目の前を綿が飛んだ。暗闇から伸びてきた何者かの腕が、ミスターベアの頭と体をわしづかみ、それを引きちぎってしまったのだ。キャットは悲鳴をあげて頭だけになってしまったミスターベアを見下ろした。誰がこんな酷い事を!

「変なの」

 犯人はこの声の主。暗闇からゆっくりと現れる無数の腕の持ち主。一人ではない。キャットは戦いた。

「やめて!」
「変なの」
「何も悪い事なんてしてないわ!」
「変なの」
「私は何もしてない!」

 キャットはどうしようもなく、その場にへたり込んでミスターベアの頭を抱きしめた。腕は蛇のようにキャットに近づき、ゆらゆらと揺れている。捕まったらどうなってしまうのかなんて考えたくもないが、もう逃げる気力さえ残っていない。

 とうとう腕はキャットの頭上に向かって振り上げられた。ぎゅっと目をつむり、覚悟を決めて歯を食いしばる。恐ろしい手が開かれ、そしてキャットの頭めがけて振り下ろされ……優しくそれを撫でた。

「……え?」

 掌は確かに愛情を持ってキャットの頭を撫でている。その感覚のなんと気持ち良い事だろう。他の腕もするするとキャットに近づき、二の腕や足や頬を撫でさすってきた。

 きょとんとしていたキャットだったが、悪意が無いと分かると一気に体の力が抜けてしまい、その手を受け入れる事にした。なんと優しく、丁寧に愛撫してくれる事だろう。まるで両親のような安心感……。

「ん……」

 その感覚にうっとりと酔いしれながら、キャットはぼんやりと目を閉じた。気が付くと手の数は減って行き、頭から離れ、頬から離れ、残るは一本となっていた。柔らかく、それでいてひやりとする大きな掌。

「…ンっ……ふ、ぁ…」

 どこかくすぐったい様な、それでいて中毒性のある感覚。それはキャットの膝のあたりから太ももまで、ゆっくりと登っていって……。

 そこまで来て、キャットはやおらカッと目を見開きベッドの中で振り返った。

「おはよう、ベイブ」
「きゃあああっ!」

 素っ頓狂な悲鳴をあげてキャットはベッドから猫の様に飛び上がると、そのまま態勢を崩して床に落ちてしまった。シーツもろとも落ちたせいでキャットはそれを頭からかぶる羽目になり、子供騙しに語られるおばけの様になっている。

 オッドフィッシュが「おい、大丈夫か」と声をかけた途端、扉の向こうからバタバタ足音が聞こえたので彼はパチンとその場から姿を消した。

「ど、どうしたんだいキャット!」
「何があったの、凄い悲鳴だったわよ!」

 部屋に駆け込んできた両親は、シーツの下でもごもごやっている娘に目を丸くして立ち止まる。どうにかキャットがシーツの網から抜け出すとオッドフィッシュが居ないのに一瞬驚いたが、慌てて作り笑いを浮かべて両親に顔を向けた。

「ごめんなさい、目が覚めたら目の前にゴキブリが居て……」
「ゴキブリ? ……お前がゴキブリなんかで悲鳴を? 昔飼ってたのに」
「まあトマス、そんな事言わないのよ。キャットも女の子だもの。怖かったわね、ゴキブリはどうしたの?」
「もうどこかに行ったみたい。着替えてすぐ下に行くわ」

 両親は納得すると扉を閉めて部屋から出ていった。落ちたせいで痛むお尻をさすりながら立ち上がると、眉根を寄せて部屋の中を見回す。目星をつけたクローゼットまで行き扉を開けると、果たして中にはオッドフィッシュがすました顔で立っていた。

「ああ、嬉しいぜキャット。オレの事ゴキブリ呼ばわりなんて……ギャウ!」

 うっとりしているオッドフィッシュの横っ面を引っぱたいたキャットは、憤慨して彼をクローゼットから引きずりだすと荒々しく扉を閉めた。オッドフィッシュは頬に手形をこさえて目を丸くしている。床に座り込んだ死人を見下ろしてキャットは色の悪い彼の顔に指を突きつけた。

「私に納得がいくように説明してちょうだい!」
「オレはただ……お前を起こそうとしただけだ」
「起こそうとした!? ならどうして人のベッドの中に入って足を撫でたのよ!」
「オレって、手が早い男だから」

 言った途端オッドフィッシュの片手がぽろりと落ちて、部屋の中を凄いスピードで逃げ回りだした。それを捕まえる為に追いかけ回すオッドフィッシュを見て、キャットはぱちんとおでこを叩いて頭を振る。

「ザ・ハウスも酷いわ。どうして部屋に入れちゃうのかしら!」
『ごめんね、オッドフィッシュとは長い付き合いだから、裏口を知られてるんだ』

 キャットの恨み言に反応して、目の前の壁に文字が現れた。なるほど、いくら生きている家とは言え自衛できるのも限界があるらしい。仕方ないとは言え、前回必死にゴーストの群れから守ってくれた事を思うとがっかりしてしまう。

 ようやく手に飛びかかって押さえつけたオッドフィッシュを尻目に、キャットはクローゼットを開けて中を覗き込んだ。真新しい制服を取り出して眺めてみる。今日から通う学校の制服だ。

「ヘイ、クローゼットの中に残ってた掘り出し物か? 前の前の前の前の住人の忘れ物かもな」
「茶化さないで。私は可愛いと思うわよ」
「こんな古臭いの着るなよベイブ! お前はセンスが良いんだ、ストレンジなアレンジにチャレンジしろ!」
「初日からそんな生意気したら、レンジで丸焼きにされちゃうわ。さあ出ていって」
「なんで?」
「着替えるからに決まってるでしょ!」

 キャットの剣幕に圧されてオッドフィッシュはそのまま窓から落っこちてしまった。流石にキャットも驚いて窓の外を見やったが、そこには人っ子一人おらず何かが落ちた気配もない。

 よく考えればオッドフィッシュは死んでいるから落ちたって構わないし、妙な力を持っているのだからこれ位の事でどうなる訳でもないだろう。思い直して溜息をつくと、キャットはパジャマを脱いで着替え始めた。

 家が生きていると知っているとなんとなく気恥ずかしい感じもするのだが、それではまともな生活ができなくなってしまう。それは割り切って手早く着替えてしまうと、キャットは鏡の前に立って自分を眺めて見た。似合ってるかどうかは別として、やっぱりデザインが少し古臭い。

「仕方ないわ、学校の制服だもの。慣れないとね」
「でも私ったら何着ても可愛いわ」
「はあ?」

 鏡の中のキャットが勝手に動き出し、突然言葉を発した。本物のキャットが目を丸くすると、鏡の中のキャットの顔がオッドフィッシュに変わり、ひらひら楽しげに手を振るではないか。きゅっとキャットの眉間に皺が寄った。

「今のはオレの意見。さ、学校に行こうぜベイブ! 初日だからびしっと決めないとな!」
「ついてくる気なの?」
「おい、オレは死人だぜ? 人に憑いていくのはオレたちの役目だ」
「駄目よ、問題が起きそうだもの。私が帰って来るまで大人しくお墓の中に居て」
「でも、キャット……!」
「死人に口なしよ」

 ぴしゃりと言い放ってキャットは部屋から出ていった。少しきつく言いすぎたかと気になったものの、彼が学校に来るなんて考えただけでクラクラしてしまうのだから仕方ない。今日は大切な初日なのだ、心穏やかに過ごしてトラブルのトの字も無いようにしなくては。

 唯一キャットが安心できたのが、彼女が学校に行くのと同時に両親も仕事に出かけるので家が無人になると言う事だった。オッドフィッシュが何かしても両親がそれを知る事は無いし、一番早く帰って来るキャットが何かあったら後始末が出来る。それに、流石に家に危害を加える様な騒ぎをすればザ・ハウスも黙っていないだろう。

 朝食を終えるとキャットと両親はしっかり家に施錠をしてからそれぞれの場所へ向かっていった。両親は車だがキャットは徒歩である。彼らが走り去った後、キャットは心配になって一度家を振りかえったが、窓際には誰も居なかった。

「それじゃあ行ってくるけど、よろしくね、ザ・ハウス」

 ザ・ハウスはまた家鳴りでキャットに答え、キャットはようやく通学路につく事が出来た。

 家が町から少し離れた丘の上と言う、見晴らしは素敵だが生活に不便な場所にあるせいで、キャットの通学は中々に時間がかかる。街に入ってからようやくキャットは同じ制服を着た子供たちを目にする事ができた。

 楽しげに喋りながら歩いている彼らを見て、キャットは一気に緊張してきた。あの中に飛び込んで馴染む事なんで自分に出来るのだろうか。あんなに生き生きしている子供たちと溶け込むなんて、夢のまた夢な気がしてならない。

 胃がキリキリ痛むのを我慢してどうにか学校に到着したキャットは、校内に入ってまずうろたえた。当たり前なのだが職員室が分からない。学校に転入する手続きの際に一応行った事はあったのだが、この学校は由緒ある学校らしくやたらに広いのだ。

 同じ制服を着ているとはいえ、見た事も無い子が歩いていればそのうち誰かが不審に思うだろう。そうなる前に職員室へ逃げ込みたくて色々歩きまわってみたのだが、いまいち感覚がつかめない。キャットは嫌な汗をかいて顔色を悪くした。

「どうしよう、これじゃあ誰かに聞くより他は無いわ。でも誰かに聞くには話しかけなきゃいけないのよ!」

 きっとこれから学校生活をする上で今が一番辛い試験だろう。朝と言う事もあり元気に歩いている生徒をキョロキョロ見ながらキャットは廊下の壁際に立ち尽くしていた。ここでどうにかしなければ、最悪の初日を迎える事になってしまう。

 廊下の向こうから歩いてきた少女に、キャットは意を決して声をかけた。

「あ、あのっ、職員室はどこですか? わ、私、転校生で……!」
「あら、そうなの? はじめまして、私アンよ。よろしくね」

 アンはふわふわの赤毛を揺らしながらニコニコと優しく笑ってくれた。冗談ではなく、キャットは彼女が天使に見えた。

「よろしく。私は……あの……キャットって言うの。変な名前よね」
「そんな事ないわよ、可愛いじゃない。私が案内してあげるわ、キャット。ついてきて」
「……貴女ったら、天使じゃ足りないくらい良い人だわ」
「大げさね!」

 コロコロと笑いながらアンはキャットを連れて職員室まで向かった。道すがら、彼女はこの学校の事を色々と話してくれた。学校の雰囲気や注意した方が良い先生、生徒の間でのちょっとしたルール等転入手続きの時に教師が教えてくれない事ばかりだ。

「職員室はここよ。道覚えられた?」
「ええ、多分。親切にしてくれてありがとう、この学校に来て初めて喋ったのが貴女で良かったわ」
「私も貴女が転校してきて嬉しい。何かあったらいつでも頼ってね」

 ベルが鳴りアンは階段を上って教室へと向かってしまった。寂しくも思うキャットだが、それ以上に今は彼女の素晴らしさときちんと”普通”に会話ができた自分の達成感で胸がいっぱいだ。

 なんだか何でも出来そうな気がして、キャットは意気揚々と職員室の扉をノックして中に入って行った。

「すみません、今日転校してきたキャット・ブラックですが……」
「あら、来たわね」

 キャットに近づいてきたのは長身の女性教師だった。小さな眼鏡の向こうから小さな瞳がキャットを見下ろし、上から下までじっくりと眺めている。

「私は貴女の担任のモーガンです、よろしくね。必要な物はちゃんと持ってきたかしら?」
「はい、大丈夫だと思います……」
「よろしい。では教室へ行きましょう。今日は緊張すると思うけれど、リラックスなさい」

 モーガン先生はイギリス訛りで上品にそう言い、率先して職員室から出ていった。キャットはようやく感じたわくわくした気分に口の端が持ち上がってしまうのを堪えきれない。それを気付かれて変に思われないように、うつむきがちに後をついて行った。

 朝のホームルームの時間になろうとしているのか、賑やかな声は聞こえているが廊下を歩いている生徒は少ない。キャットが周りをしっかり見て道を覚えようと必死になっていた所へ、耳元で急にぷーんと煩わしい虫の羽音が聞こえた。

 片手でしっしと虫を払いながら歩いていたのだが、どうにも根性のある虫は頑なにキャットの周りを飛び回る。顔をしかめた時、キャットの耳に羽音に交じって声が聞こえた。

「ヘイ、ベイブ! オレだよオレ!」
「オッドフィッシュ!」

 キャットは飛びあがらんばかりにひっくり返った声をあげて驚いた。勿論その叫び声は前を行く先生にも聞こえてしまい、くるりと厳しい顔がキャットの目の前に飛び込んできた。

「失礼だけれど、なんて言ったのかしら?」
「い、いいえ、なんでもありません! しゃっくりが出ちゃっただけで……緊張してるから」
「そう?」

 訝しい表情のままモーガン先生はまた前を向いて歩きだした。ホッと胸をなでおろしたキャットは自分の右肩を見やる。そこには虫の体に頭をくっつけた様な小さなオッドフィッシュがとまっていた。

「何してるのよ、ついて来ないでって言ったじゃない!」

 今度は聞こえない様に、こっそりとオッドフィッシュに告げる。オッドフィッシュは涼しい顔で笑っていた。

「心配なんだよ、分かるだろ? お前に悪い虫がついたらと思うと」
「虫は貴方よ!」
「おっと」

 オッドフィッシュはパチンと一瞬で元の姿に戻った。勿論、大きさは小バエ程度のままだ。そうこうしているうちに一行は教室の前に到着してしまった。

「先に私が入ります。呼んだら入っていらっしゃい」
「はい、先生」

 モーガン先生がこちらを見たので、キャットは髪の毛を直すフリをして慌ててオッドフィッシュを隠した。扉の向こうへ彼女が消えると、ようやく大きな溜息をついてキャットは肩の強張りから解放された。けれど問題が解決したわけではない。

 朝の連絡事項を扉の向こうで話し始めた先生の声を聞きながら、オッドフィッシュはまたパチンと音をたてて一瞬消え、キャットの目の前に元のサイズで現れた。

「怖い顔すんなよキャット、可愛い顔が台無しだぜ。大人しくしてるって約束するからさあ」
「貴方が大人しくなんて出来るの?」
「図星を突くな」

 オッドフィッシュは紙に描かれた星の図を拳で突いて破り捨てた。

「でも誓うぜ、口笛を吹かれない限りは、死んだように静かにしてる」
「信用できないわ、貴方は死んでるのに騒がしいんだもの」
「俺だって静かにしようと思えば、いくらだって出来るさ。それに何より、可愛いお前の顔に泥を塗るような真似なんかするもんか」

 キャットはふーむと考え込むように唸った。オッドフィッシュに帰れと言った所で大人しく帰るとは思えない。きっと帰ったふりをして、どこかでこっそり自分を見ているつもりだろう。それならば、目の見える範囲に彼を置いて、トラブルがないようにコントロールできた方が良いのではないだろうか……。

 そう長い事言い争ってもいられないので、キャットは仕方なく折れる事にした。

「良いわ、分かった。でも絶対大人しくして誰にも見られない様にしてよ」
「死人に口なし!」

 自分の口をびりっと取り払ってしまったオッドフィッシュは、モーガン先生の足音が近づいてきたのに気づいてひゅっとキャットの鞄の中に吸い込まれてしまった。同時に扉が開き、先生の顔が突き出てきた。

「お入りなさい」
「は、はい」

 促されてキャットが恐る恐る足を踏み入れると、当たり前だが教室にはたくさんの生徒たちが座っており、その全員がキャットに注目していた。膝が震えそうになるのを堪えて、キャットは一度唾を飲み込むと先生の横に背筋を伸ばして立った。

 初めてのクラス、鞄の中にはオッドフィッシュ。心臓が限界を訴えそうなこの時、キャットに一つの奇跡が起こった。窓際の手前の席にぱっと目に飛び込んできたものがあったのだ。日の光を浴びてキラキラ輝くふわふわの赤毛。

 アンだ! キャットは叫びそうになるのを堪えるのに一苦労した。アンもキャットに気付いたようで、嬉しそうに目を丸くしている。小さく手を振ってくれたのでそれに応えようとした時、上から先生の声が降ってきた。

「自己紹介なさい」

 キャットは慌ててクラスの皆に向き直った。急に勇気と元気が湧いてきて、足の震えが消えてしまった。

「バーモントから引っ越してきたキャット・ブラックです。よろしく」
「にゃーお」

 途端に教室の中で笑いが起こった。

「ハァ!?」

 オッドフィッシュが驚いて鞄の隙間から教室の中をのぞくと、キャットをからかった一番前の女の子が意地悪な笑顔で頬杖をついているのが見えた。可哀そうなキャットは突然皆から笑われて固まってしまっているではないか。

 頭に来たオッドフィッシュが鞄の中で暴れようとした振動でキャットは我に返る事が出来た。

「クリス、キャットへ謝りなさい」
「い、良いんですモーガン先生。よく言われますから、変わった名前だし…でも気にいってるから、良いんです」

 キャットは蠢くカバンを必死で抱えて抑え込みながら、作り笑いを浮かべて言った。今やキャットは恥ずかしさよりもクリスに対する怒りが勝って、そのお陰で冷静になる事が出来た。緊張がほぐれたと言う点で言えば、良い事だったかもしれない。

 クラスが平穏を取り戻すと先生はキャットの席をどうするかと言いだしたのだが、真っ先に手を挙げたのはアンだった。

「先生、私の隣にお願いします!」
「そうね……それではキャット、アンの隣へ」
「はい」

 優しいアンのお陰でキャットの怒りは半分程まで和らぎ、嬉しそうに笑う事が出来た。隣の席にキャットが座るとアンはこっそりとキャットに声をかけた。

「クリスは気にしないで、凄く意地悪なの」
「ええ、ようく分かったわ」
「でも同じクラスだったなんて凄い偶然ね、とっても嬉しい!」
「そこ、私語は慎みなさい! 授業に入ります」

 先生が鋭い声をあげると、慌ててアンは口をつぐんで前を向いた。けれどちょっとだけこちらを向き、楽しげに微笑んでくれたのだ。これだけでキャットは十分だった。

 トータルで見ればアンと言う友達が出来たと言う事は素晴らしい事だ。初日としては悪くないスタートを切れたとホッとしているキャットの耳に、心臓をひやりとさせる声が飛び込んできた。

「あの性悪女、オレが懲らしめてやる!」

 鞄の中に居たはずのオッドフィッシュが何時の間にやら先ほどと同じ小さなサイズになってキャットの肩に乗っているではないか。憤慨した表情の向く先は、こっそり机の下の雑誌を読んでいるクリスに向けられている。

「大人しくしてる約束よ!」

 キャットは細心の注意を払ってオッドフィッシュに注意した。

「あいつはお前を馬鹿にしたんだぞ、黙ってられるか!」
「黙ってるのよ! 問題を起こしたら友達やめるからね!」
「でもキャット!」

 キャットの鋭い視線を受けて、酷く不満そうだったがオッドフィッシュはようやく黙り込んだ。ぶすくれた顔でぽんとどこかへ消えてしまい、キャットは安堵のため息をつく。これでやっと普通の学校生活が送れそうだ。

 その後はなんの問題も無く、授業を受けてランチの時間までこぎつける事が出来た。この学校は何ともフレンドリーな子が多く、転入生のキャットにあれやこれやと世話を焼きたがる子が少なくても三人は居た。

 確かに少し出鼻をくじかれたが、引っ越しに際して一番恐ろしい問題がこうして解決されたのはキャットにとってほとんど奇跡に近い様な幸運だ。きっと両親もこれを聞いたらさぞ嬉しがる事だろう。

「ねえキャット、一緒にランチ食べましょう」
「ええ、食堂に案内してあげる」

 歯列矯正器をつけたレベッカとちょっとぽっちゃりしたドリーだ。彼女たちは特にキャットを歓迎してくれており、休み時間の度に席までやって来て話しかけてくれた。キャットはアンと一度目配せした後、連れたって四人で食堂に行く事にした。

 食堂もまた校舎同様広々としており、壁際には火こそ入っていないものの立派な暖炉がついていた。流石にこの広さを暖炉一つでカバーするのは無理なので、きっとここは昔何かの建物だった所を改築したに違いない。食堂は元々もっと狭い部屋だったのだが、壁をぶちぬいて一つにしたのだろうとキャットは考えた。

「うちの学校、ミートパイが最高なのよ!」
「ええ、でもマッシュポテトはやめた方が良いわ」
「確かにそうね、とても粉っぽいの。それにたまに食堂のおばさんの髪の毛が入ってる!」

 うえー、と三人が一斉に舌を出したのでキャットは思わず笑ってしまった。前の学校では得られなかったが、これこそが友達と言うものなのだろう。幸せに目を細めながら、オッドフィッシュともこんな関係が築けたなら苦労しないのにと胸中で呟いた。

 その途端、そう言えば今まで彼がうんともすんとも言わない事を思い出して急に不安になってきた。確かに静かにしていろと言ったが、素直すぎる気がする。まだ鞄の中に居るのだろうか。後で一度確認した方が良いなと思いながらトレイに手を伸ばした途端、後ろから鋭い声が突き刺さった。

「ちょっと野良猫ちゃん、どいてちょうだい」

 忘れようもない、クリスの声だ。キャットが振り返り、キッとクリスとその取り巻き達を睨みつけると、友達もキャットと同じ様に彼女達を睨みつけた。クリスはそれを馬鹿にしたように笑った。

「新人なんだから順番譲りなさいよ」
「嫌よ、先に並んでたのよ」

 声をあげたのはドリーだ。クリスは細い眉を吊り上げてきつい眼差しを四人に向けたので、一瞬他の子はたじろいでしまった。けれどキャットは平気だ。キャットは女の子の優しさに慣れていない代わりに、怖い顔に睨まれるのは慣れていた。どれだけホラーコミックと見つめあったと思ってるの!

「ねえ、クリス。どうして私に意地悪するの?」

 怖気づく様子も無く、キャットがずばりと聞いてきたのでクリスの方が面くらった。しかし彼女はまるで女王だと言わんばかりに奇麗なブロンドをかきあげて鼻を鳴らす。

「礼儀を教えてあげてるだけよ。意地悪なんて人聞き悪いわ」
「横入りが礼儀正しいならやっぱり私は退かないわよ」
「もう良いわよ、行きましょう」

 クリス一行がキャットの反撃に息を飲んで憤慨していると、アンがキャットの腕を引っ張ってさっさとランチをとり始めた。後ろで彼女らがぶつぶつ言っているけれど、キャットは勿論アンもレベッカもドリーも無視を決め込んでいる。否、レベッカとドリーに関してはキャットの毅然とした態度が気に入ったらしく楽しげにしていたけれど。

 さて、四人がランチを受け取り席に向かった後クリス達がやってきたのだが、食事を提供してくれるおばさんの様子がいつもと違う事には気付かなかったようだ。キャット達の時まではいつものおばさんだったが、今は恐ろしい事に、オッドフィッシュが乗り移ってしまっているのだ。

「お嬢さんがた、何にするんだい?」

 甲高い声でオッドフィッシュが問いかけると、クリスはえばりくさった態度を改めるでもなくケースの中を睨みつけた。

「脂肪分ゼロの食べ物がないなんて信じられない。ニキビが出来たらどうしてくれるのかしら」
「あんらー、あるわよ。お望みのものが!」

 一度奥に手を伸ばしたオッドフィッシュは、クリスのトレイの上に生きた魚を放りだした。魚は暴れてびちびち飛びはね、クリスが金切り声をあげてトレイごとひっくり返す。オッドフィッシュは大笑いした。

「死亡分ゼロが良いんでしょ、そら、そんなに生き生きしてるわよ!」
「いやーっ、キモイ、何これ!」
「あんらー、魚は嫌い? 牛もあるわよう?」

 厨房の奥で牛の鳴き声が聞こえた。

「もう良いわよ! サラダにする!」
「はいよ」

 癇癪を起しかけているクリスに、オッドフィッシュはお皿を渡した。何も乗ってないそれを見てクリスが眉根を寄せる。暫く、無言の時が流れた。

「ほら、サラダと皿だって……クソ、面白くないか」

 低く唸ったオッドフィッシュは、皿を放り投げて割ってしまうとサラダを改めてトレイに乗せた。クリス一行が席に行くとオッドフィッシュはおばさんの体が抜け出して、そのままキャットが食べている魚のムニエルに入り込んだ。

「ヘイ、キャット! ヘイ!」

 突然、フォークを突き立てていた魚にオッドフィッシュの顔が現れたものだから、キャットは口の中のものを噴き出しそうになった。

「オッドフィッシュ!」
「え?」

 何の脈絡もなく叫んだキャットを、友達は全員驚いた様子で見やる。またも学校でオッドフィッシュだなんて叫んでしまった自分を恥じながら、なんと取り繕うべきか、キャットは冷や汗をかいて作り笑いを浮かべた。

「ご、ごめんなさい、私のしゃっくりって変わってるの。水をとってくるわ!」
「でも、ここにミルクがあるのよ」
「水じゃないと止まらないの!」

 言い終える前に席を立ち、一目散にトイレに駆け込む。その後を追ってキャットの横にポンとオッドフィッシュが現れたが、彼はそこが女子トイレだと分かると居心地悪そうに首をすくめた。

「おい、キャット、流石にここは……」
「しょうがないでしょ、急に出てくるんだもの!」キャットは腕を組んでオッドフィッシュを睨みつけた。「大人しくしててって、言ったわよね?」
「まだ何もしてないだろ!」
「したじゃない! 呼んでもないのに急に現れて、誰かに見つかったらどうするのよ!」
「なあおい、何をそんなにカリカリしてんだよ?」

 キャットはオッドフィッシュに怒っているというより、なんだかそわそわして、落ち着かない様子だった。

「今朝足を撫でたのをまだ怒ってるのか? それでそんなに様子が変なのか?」
「変?」

 変と言う単語にあまりに強く反応したものだから、オッドフィッシュの方が面食らってしまった。彼女は下唇を噛んで、そのままトイレの中をうろうろと歩きはじめる始末。そうとも、明らかに”変”である。

「そんな……私変に見える? 普通に振る舞ってるでしょ? 友達も出来たわ、普通の、友達が! それに、ミスターベアだって家にちゃんと置いてきたのよ……!」
「キャット? おいったら!」

 忙しなく動き回るキャットの二の腕を掴むと、死人と少女は女子トイレの中で向き直った。なんとみょうちきりんな光景だろうか。扉一枚隔てた食堂の喧騒が、作り物のようにさえ思われる。

「何が心配なんだ、言ってみろよ。オレが解決してやるから」

 オッドフィッシュが見下ろした先で、キャットの夜空のような瞳が揺れている。ここには居ないミスターベアの頭を抱きしめでもしているように、キャットは両腕で自分の体を抱きしめた。

「私が、どうして引っ越して来たか……」

 そこで言葉を切り、視線をはずす。トイレの白いタイルを見つめる横顔は、オッドフィッシュと同じ位青ざめていた。

「もう、しくじるわけにはいかないのよ」
「……前の学校で、なにか……?」
「家では」オッドフィッシュの言葉を遮ってキャットは続けた。「いくらでも貴方の相手をしてあげる。どんな奇妙でめちゃくちゃな事でも構わない。でも、学校では、お願いだからちょっかいを出さないで。私にとって、凄く難しいことだけど、ここは普通でいなきゃいけない場所なのよ。変になるのは家でだけ」

 オッドフィッシュがなんと言うべきか口をもごもごさせていると、不意に扉のすぐ向こうから甲高い笑い声が聞こえてきた。誰かがトイレに入ってこようとしている!

 二人はさっと顔色を変えたが、オッドフィッシュはキャットの首根っこをひっつかむと個室の一つに飛びこんだ。鍵を閉めるのと同時にトイレの扉が開いて、数人分の話し声と足音が静かだった女子トイレの中で炸裂する。いささか馬鹿っぽい笑い声の主は、なんとタイミングが悪いのだろう、クリスのものだった。

「もう、このリップすぐ落ちちゃう!」

 狭い個室の中でキャットとオッドフィッシュはほとんど抱き合うようにくっつき、必死の思いで息を殺していた。いつものように魔法で消えてしまえば良い物を、そう伝えたくても声さえ出せない有様である。こんなに近くてもオッドフィッシュの体温は一切感じられず、彼がどれだけ元気でも死体である事を再認識させられた。そして、やっぱり臭かった。

「次の授業なんだっけ?」
「体育じゃなきゃなんだって良いわ」
「ねえ見てよこのメッセージ、ケビンからなんだけど……」

 彼女達に用を足す素振りは全くなく、鏡の前でひたすらお喋りを続けている。もしかして、ランチタイム中こうしているつもりなのだろうか?

 もしオッドフィッシュに体温があったなら、こんなにぴったりくっついていたら今頃汗をかいていただろう。死人である彼は、キャットの温かい体温を感じているのだろうか。自分はひんやりしているのに、彼にだけ暑苦しい思いをさせているのであれば、それは申し訳ないなと思ったキャットは僅かに身じろいでオッドフィッシュを見上げた。

 彼は非常にイライラした顔でドアに片手をついてよりかかり、そこを睨みつけていた。もしかしたら、ドア越しにクリス達が見えていたのかもしれない。しかしキャットの視線に気が付くと彼女に目をやり、ほとんどおどけた様な呆れ顔を向けて見せた。こいつらどうかしてるぜ、と、言外にひしひしと伝えてくる。

 キャットは声をたてずに笑って、同意代わりに肩をすくめた。とりあえず、窮屈な事以外で彼が困っている事はなさそうだ。便器に座ればまだスペースは出来るのだろうが、今更ギシリと音を立ててしまったら、個室に誰かいると気づいた彼女達にちょっかいを出されるかもしれない。

 これがかっこいい男の子ならどんなに良いだろうか。キャットはぼんやりとそんな事を考えて、自分の置かれた状況の非日常っぷりにクラクラした。新しい学校の女子トイレの中、死人の男とくっついて息を殺して隠れている。確かにスリリングではあるが、そこには甘酸っぱい胸の高鳴りなんてものはない。

 ……ない、はずだ。鼓動がいつもより早いのはこの状況が恐ろしいからで、今キャットの心臓は、体の底から嫌な汗を汲みあげようとするポンプになっているだけなのだ。オッドフィッシュの冷たさのおかげで、心臓のたくらみは失敗に終わっているわけだけれど。

 一瞬、今朝の事を思い出してオッドフィッシュの手が自分の体に回されやしないかとキャットは身構えたのだが、オッドフィッシュは拍子抜けするほどに静かであった。先日はキスをされ、今朝は足を撫でまわされ、いまいち信用が出来ない事に変わりはないけれど、この状況を卑劣に利用する態度はうかがえない。

 まったく、訳の分からない男だ。良い死人なのか悪い死人なのか、いまいち判断が出来ない。

「て言うかさあ」不意に、クリスの気だるそうな声が響いた。「あの転校生本当ムカつくわよね」

 その瞬間、キャットは雷に打たれたように固まり、ひゅっと息を吸い込んだ。彼女は薄汚れたオッドフィッシュのジャケットを食い入るように見つめていたせいで、オッドフィッシュがその金の瞳を素早くキャットに走らせたのを知らない。彼の目には確かに、ショックを受けた可哀想な少女の顔が見えた。

「なんか暗そうな癖に生意気だし」
「さっきの聞いた? ”どーして私にイジワルするのぉ?”」
「キモいからだっつーの! あの汚い黒髪、ゴスでも目指してんのかしら」

 ゲラゲラと笑い声がトイレの中で爆発し、わんわんと反響して倍に倍にまた倍に膨れ上がっていく。キャットは呼吸が上がりそうになるのを必死に抑えた。ただの陰口だ、気にしてはいけない。

 キャットの白い手がぎゅうと握られたと同時に、何の前触れもなくオッドフィッシュに抱きすくめられた。頬は彼の冷たい首筋に押し当てられてひやりとし、声がもう少しで出てしまいそうだった。何事かとオッドフィッシュを見上げると、彼は魔法で空中にダイヤル式の目盛を出現させ、それを目いっぱい右に捩じる。それは、エアコンのダイヤルだった。

「ねえ、なんか暑くない?」

 トイレの中にエアコンなんてものはない。しかしオッドフィッシュが目盛を弄ると、ずばりその温度に室温はぐんぐん上がっていた。キャットが冷たいオッドフィッシュの体に抱き着いていても暑く感じるのだから、クリス達には相当こたえたのだろう。

 彼女達の化粧が汗と共に流れ出すと、全員が悲鳴をあげて一目散にトイレから飛び出していった。静寂を取り戻したトイレの中は、オッドフィッシュの指パッチン一つで元通りの温度に戻る。二人で警戒しながら個室から顔を出し、誰も居ない事を確認すると、大きく息を吐き出して個室から抜け出した。

「ありがとう、オッドフィッシュ」キャットはにっこりした。「貴方が追い出してくれなきゃ、ずっと出られなかったわ」

 オッドフィッシュは改めてキャットを見やり、何とも言えない顔で二、三度、何かを言おうと口を開いた。しかしそのどれもが不発に終わると、忌々しげにバリバリと真っ青な爆発頭をかきむしり、そこからミミズやムカデでを弾きだした。

「とにかく、なんと言うかだな」普段の饒舌ぶりがうそのように、オッドフィッシュはたどたどしく口を開いた。「お前は、このオレの夢の女だ。つまり、あの世でもこの世でもナンバーワンって事だ。忘れるなよ。……必要になったら呼んでくれ。すぐ傍にいるから」
「……あー……OK」

 突然の告白にキャットは目を丸くする。オッドフィッシュはそのまま姿を消してしまったが、雰囲気だけはまだほんのりとキャットの体にまとわりついていた。見えないが、本当に居るのだろう。

 一度鏡に向き直り、自分の顔と見つめ合った。顔立ちは悪くないけれど、その顔にはティーンエイジャー特有の煌めきは無いように見受けられる。目の周りを黒く塗って、気だるげな表情を浮かべれば、クリス達の言っていたとおり立派なゴスの誕生だ。確かにキャットはゴシック文化を愛していたが、自分がゴスになりたいわけではない。時には健康的にサイクリングをしたくなる時だってあるし、朝食にカラフルなシリアルを浴びるほど食べたくなる時だってある。

 でも、滲み出る”変”なオーラはなんだろう。ただそこに居るだけで、他の子とは違うと分かってしまう、何かが自分にはあるのだ。一体どうしたら彼女達のようになれるのだろう。金髪に染めてみる? ああ、バカらしい。

 冷たい水で顔を濡らし、キャットはトイレの扉に手をかけた。未練がましく一度振り返る。そこにオッドフィッシュの姿はないが、なんとなくまだ居てくれている気がした。トイレの向こうの”普通”の世界。トイレの中の”変”な世界。その境界線に立って、ひしひしと感じる。出て行きたくない。

 キャットは息を吸い込んで扉をあけた。明るい陽射しが差し込む食堂の中に突っ込むのは、戦地に飛び出していくような気分だ。否、勿論こんなものは気の持ちようで、戦地だなんて大げさだと自分でも分かっている。

「キャット」

 席に戻ると、友達は心配そうに彼女の顔を覗き込んできた。大丈夫、敵兵ではない。かといって、戦友と言う訳でもない。彼女達は学友。クラスメート。ただの女の子。

「大丈夫?」
「ええ。ごめんね、突然」
「なにも謝る事なんてないわよ。転校初日だし、体調崩してもおかしくないわ」
「そうそう、レベッカなんか、中学に上がった時緊張しすぎてずっとお腹を壊してたのよ」
「言わなくて良いでしょ!」

 キャットは彼女達と同じ様に楽しげに笑い、再びランチに取りかかった。キャットのランチだけが、まだまだたくさん残っていた。

 


 オッドフィッシュは本当に、それからうんともすんとも言わなかった。誰かに乗り移りもしないし、教科書を悪戯にめくったりもしない。最早彼の気配を感じる事さえない。もしかしたら、家に帰ったのだろうか。近くにいるとは言っていたけれど。

 そうして全ての授業が終わり、転校初日が終了すると、アン達がキャットに家はどこかと尋ねてきた。彼女が自分の家の場所を言うと、三人は目を丸くして驚いた。やはりあの屋敷じみた家は長年人が住んでおらず、隣が墓地と言う事もあり、お化け屋敷になっていると噂が立っていたらしい。

「本当にあの家、何も出ないの?」

 キャットは胸中で苦笑いした。出ないのですって? 出るも出る出る、出まくりよ!

「普通に住んでるわよ。確かに隣がお墓だから、ちょっと不気味だけど……」

 それがたまらないのよね、とは言わずに済んだのでキャットはホッとした。自分の注意深さを褒めてやりたい。

 三人が言うには、ハロウィンの時期でさえあそこに侵入しようという勇気のある者は居なかったらしく、中の様子を随分と知りたがった。今度遊びに行きたいと言われたが、引っ越しの片づけが落ち着いてからと話を濁す。友達を家に呼ぶのなら、ザ・ハウスとオッドフィッシュに大人しくしてるようにと、よくよく約束をさせないと。

 本日友達と呼べるまでに関係を深めた三人の中に、残念ながらキャットと同じ方角に住んでいる子は居なかった。仕方ない、キャットの新居があまりに町はずれなのだ。早く自転車を買ってもらわないと、やっていけなくなる程に。

 せめて校門まで一緒に行こうと四人は連れ立ち、名残惜しげにそこで手を振って別れた。学校が終わって「バイバイ」と手を振る相手が居た事なんて、小学生ぶりじゃないだろうか。それが妙に嬉しくてキャットはほんの少し口端を持ち上げた。

 何はともあれ、自分はやりぬいたのだ。新しい学校の第一日目を生き残った。早く両親に友達が出来た事を聞かせ、安心させてあげたい……。

「ちょっと」

 不意に嫌な声が聞こえた。キャットは息を飲んで振り返る。

「話があるんだけど、野良猫ちゃん」
「クリス……」

 それに、その取り巻き達。彼女らは腕を組んでふんぞり返り、威圧的にその場で仁王立ちしていた。とても友好的な態度には見えない。まさかついてきてまで文句を言いに来るとは思っておらず、流石のキャットもたじろいだ。

 じりりと思わず一歩後ずさる。心臓がぎゅうと押し潰されたように痛みだした。脳みその中で既視感が突然目をさまし、黒い拳で所かまわず殴りまくっている……否、既視感などではない。それは記憶なのだ。過去の記憶。あの時の記憶。囲まれ、追い詰められ、今に手が伸びてくる!

「こっち来なさい」
「……嫌って言ったら?」

 呼吸が荒くなりそうなのを抑え、必死にキャットは気丈に振る舞った。クリスの目が吊り上る。

「来なさいってば!」

 魔女のように尖った長いネイルを付けた指がキャットの二の腕をわしづかみ、乱暴に引き寄せた。悲鳴をあげる間もなく、キャットは路地裏に連れて行かれ、そこで荒々しく突き飛ばされた。

「あんた、人をコケにして楽しいわけ?」
「はあ? それはそっちでしょ!」

 痛む腕をさすりながらキャットはクリス達に向き直った。大丈夫、相手は女の子が三人だ。恐ろしい事態が起きるにしたって限度がある。戦える。

「転校生のくせに、いきなりでかい顔してムカツクのよ」
「でかい顔なんかしてないわ、横入りしないでって言っただけじゃない」
「横入りなんかしてない、順番を譲れって言っただけよ。なのに急に怒りだしちゃって、頭おかしいんじゃないの?」

 ”おかしい”。

 キャットの体温が一気に下がった。

 おかしいと言われてしまった。

 ”また”。

「お、おかしく、なんか、ないわ……!」

 キャットは急に彼女達が二倍も三倍も大きくなっていくような錯覚にとらわれた。錯覚だ、錯覚だ。そう分かっていても、体の震えが止められない。

「何言ってるの、どうみても変人じゃない!」
「あんた、あの町はずれの屋敷に引っ越してきたんだって?」
「じゃああんたの親も変人なんだ」
「うちの学校にいかれた奴が居るなんて、超迷惑よね」

 震える両腕でたまらず自分を抱きしめた。ミスターベアは居ない。二の腕に自分の指が痛いほど食い込む。

 耐えろ、耐えろ。もういっそ、謝ってしまおうか。謝って、彼女達の子分にでもなれば、平和に学校生活を送れるのだろうか。もしここで反撃などしたら、たちまち学校中にキャットがどれほど奇妙奇天烈な女の子なのか、噂を流されてしまうかもしれない。

 そうしたら、”また”。

「オイ、お前ら!」

 突然、路地裏に新しい声が飛びこんできた。見れば、路地の入口に一人の男が立っていて、汚れたエプロンをなびかせながら肉切り包丁を振りかざして喚きまくっているではないか。四人はぎょっとし、午後の日差しをギラリと跳ね返す包丁にくぎ付けになった。

「人の店の裏で何してやがる! 弱い者苛めなんて胸糞悪い、とっとと行っちまわねえとケースにお前らの肉を並べる事になるぞ!」
「な、なによ、警察呼ぶわよ!」クリスが悲鳴じみた声をあげたが、顔は真っ青だ。
「そりゃあこっちの台詞だ、店の敷地内に不法侵入したって通報してやる!」

 三人は流石にこれには怖気づいたようで、悪態をつきながら大急ぎでその場から逃げ出してしまった。後に残るはキャット一人。男に鋭い視線を向けられ、思わずごくりと唾を飲み込む。完全に逃げるタイミングを失ってしまった。

 男は大股でキャットに近づくと、その大ぶりな包丁をじっくりと見せつけるように掲げて、親指で刃を弄りだした。

「……お前がクリスのステーキを食べたいって言うなら、追いかけて腕の一本でも持ってきてやるぜ、ベイブ」
「……オッドフィッシュ?」

 男と目が合う。良く見ればそれは、見慣れた金色の瞳だ。ポンと音がすると同時に大きな男の姿は消え、代わりにいつものオッドフィッシュが立っていた。キャットはあまりに一気に安心感が襲ってきたせいで、へたり込みそうになってしまった。

「おいおい、大丈夫か?」
「あ、あんまり、大丈夫じゃ、ないかも……」

 オッドフィッシュはキャットに手を伸ばし、その体を支えた。まだ震えの余韻が残っていて、その額にはじっとり汗が滲んでいる。オッドフィッシュの眉間にしわが寄った。

「何かされなかったか? 助けるのが遅くなって悪かった」
「そこまで頭が回らなくて……今までどこに居たの?」
「ずっと横に居たんだぜ、言ったろ。でも、いきなりオレが現れると何かと面倒が起きるだろ、どうやって助けりゃいいか考えてたら時間食っちまって……ああ、キャット」

 ようやく震えの収まった彼女を見下ろし、オッドフィッシュは悲しそうに呻いた。

「お前がそうして欲しいなら、あいつらを呪い殺してやれるんだぞ」
「なんですって! 駄目よ、駄目、馬鹿言わないで!」
「この世には生きてる価値のないクズがごまんといる、信じろ、オレはその道のプロだ。あんな奴ら居なくても誰も悲しまないさ」
「家族は悲しむわ! お願いだからそんな恐ろしい事言わないで、死んで良い人なんかこの世には居ないのよ!」
「苛めっこでもか?」

 ぴたりと少女は動きを止めた。こぼれそうな程瞳を見開き、オッドフィッシュを見つめている。その瞳に映った絶望の欠片を垣間見て、オッドフィッシュは苦々しげに歯を見せた。その反応で、なんだか全てが分かったような気がしたのだ。

「あのな」彼は声を低くして、キャットの目をまっすぐ見つめた。「オレはお前を絶対に傷つけないが、他の奴ならためらわない。エドの口ぶりで分かると思うが、オレは良い奴じゃないんだよ」

 二人は見つめ合ったまま暫く何も言わなかった。ゆっくりとキャットは瞬きをし、それから縋るようにオッドフィッシュのジャケットを握りしめて言った。

「私の為に。……誰も傷つけないで、お願い」

 弱りきった顔でオッドフィッシュは呻き、大げさに天を仰いだ後、にんまりといつもの意地の悪い笑みを浮かべて見せた。

「キスしてくれたら考えるぜ、とびきりあつーいのをな」

 今度はキャットが弱りきった顔をする番だった。しかし何とも言えない空気は長く続かず、オッドフィッシュはひょいと肩をすくめて笑った。

「まだ冗談の雰囲気じゃないか。まあいいや、さっさと帰ろうぜ。その古臭い制服なんか脱いで、墓地をぼちぼち案内させてくれよ。オレ様のグレイトなグレイブでグレープでも食べようぜ」
「グレープがあるの?」
「腐ってるけど」

 オッドフィッシュはキャットの肩を抱きしめると、彼女のカバンの中にひゅっと隠れてしまった。ふわふわと空中に浮かぶ死人の男が横に居ては、表は歩けないと理解してくれたのだろう。感謝の意を込めてキャットはカバンを胸に抱えると、優しく一撫でして歩き出した。

 心臓はまだじりじりといやらしい熱を孕んでキャットを苦しめる。それがカバン越しに彼にも伝わっていたかもしれない。しかし、それも家への道すがら、あの素敵な墓場の事を考えるうちに収まっていった。頭の中を他の事でいっぱいにして、愛しく、安全な我が家に早く帰ってしまおう。

 だからその時、家の事、オッドフィッシュの事に集中していたキャットは、自分を見つめる人影に気が付かなかった。同じ高校の制服を着た、明るい茶髪の女の子。彼女はキャットの後姿を見つめながら、その胸に抱かれたカバンをも見透かすように目を細めた。正確には、その中身を見透かすように……。

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