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異常事態

「おい、ダン」

 ダニエル・エイムズはトランシーバーから聞こえてきた同僚の声にハッとして、慌ててスイッチを押しこんだ。ダニエルがこのショッピングモールの夜警としてデビューしたのは、まさに今日。仕事初日にヘマをする訳にはいかず、自分でも気づかずに切羽詰まった声がでた。

「はい、ベイツさん」
「今どこにいる?」
「八階の紳士服売り場です」
「急いでエレベーターの二号機に向かってくれ。変な奴がいる」
「変な奴?」ダニエルは心臓が縮こまったのを感じた。「どんな奴ですか?」

 

 初仕事でまさかいきなり非常事態に出くわしてしまうとは。早く鳴り始めた心臓をダニエルに嫌と言う程知らしめるように、数秒間の沈黙が続いたが、やがて困り切ったと言わんばかりの声が続いた。

 

「……シャンプーしてる奴がいる」
「…………はい?」
「エレベーターの中でシャンプーしてる奴がいるんだ」

 ダニエルは思わず立ち止まり、瞬きをするのも忘れて立ち尽くした。頭の中で、今日貰ったばかりのマニュアルを必死に思い返していく。“エレベーターの中でシャンプーをしている不審者を発見した場合”なんて項目あったか? いや、なかった。そんな項目、あるはずがないのだ。

「……あの……」
「突拍子もないこと言ってるのは分かってるが、監視カメラに写ってるんだ! 今リックが向かってる、早くエレベーターまで行って捕まえろ! 武器は持っていない、シャンプーボトル以外はな」
「は、はい……!」

 アメリカはニューヨーク州クイーンズに堂々鎮座する、巨大ショッピングモール“マルコム”。全十八階建て、圧倒的な店の種類と広さを誇るこのモールで揃わないものはない、とCMではうたっている。客としては、これほど便利な買い物の場はないだろう。しかし、客は営業時間内にショッピングをするために来るわけであって、閉店後の店内、それもエレベーターの中に陣取ってシャンプーをするために来るのではない。それは客ではなく不審者……否、異常者だ。

 前代未聞の珍事に動揺しつつ、ダニエルは走ってエレベーターの二号機に向かった。異常者だったとしても、武器はないと言うし、こちらには警棒も催涙スプレーもある。先手を打ってしまえば、こちらに勝機があるのは一目瞭然だ。さっさと頭のいかれた人間を捕まえて、警察に突き出してやろう。

「あ、待て、ダン!」

 そろそろエレベーターに着くと言う頃になって、再び無線が入った。

「シャンプー男がエレベーターを降りた! エレベーターを降りたぞ!」
「え、どこにです?」
「三階だ! すぐ行ってくれ!」

 シャンプーの泡をまき散らしながら店内をうろつかれ、店の品物を駄目にでもされたら大問題だ。ダニエルは了解すると、到着したエレベーターに飛び乗って、三階に急行した。

「ああっ、畜生め! ダン、あの野郎またエレベーターに乗ったぞ!」
「なに!?」

 三階に到着した途端、三度目の無線が入った。フロアは暗く、しんと静まり返って不気味な雰囲気を漂わせながらダニエルを迎え入れる。この薄気味悪さの中に、更に謎のシャンプー男と言う恐怖がプラスされなかったのは、幸運だったかもしれない。

「十二号機だ! 上に向かってる!」
「十二号機……ここの反対側じゃないですか」
「ああ、急いでくれ! あの野郎、シャンプーを継ぎ足しやがった! エレベーターの中が泡だらけだ!」

 監視モニターを見ているベイツは走らなくて済むから良いが、何せこのモールは広い。端から端まで歩いたら十五分はかかる。しかし、歩いて不審者を取り逃がすわけにもいかず、ダニエルは息を吸い込むと婦人服売り場を駆け抜けた。

 何体ものマネキンに見送られ、息せききってダニエルは十二号機のエレベーターまで走っていく。到着する直前、再び無線が入る音がしてダニエルは眉根を寄せた。またどこかへ言ったなんて言わないでくれ!

「ダン!」
「はいっ」
「十一階で止まったぞ! お前もエレベーターで、十一階まで行ってくれ!」
「分かりました!」

 エレベーターの前に到着した。扉が開くまでの時間が惜しく、つい何度もボタンを押してしまう。ようやく隣の十一号機エレベーターが到着して、転がり込むように身を滑り込ませた。十一階のボタンを押し、荒い呼吸を落ち着かせる。捕まえてやるぞ、そこを動くなよ、頼むから動かないでくれ……。

「おい、ダン!」

 ダニエルは泣きそうになった。

「なんですか……?」
「またエレベーターに乗り込んだ、同じ十二号機、今度は七階に向かってる!」

 七階ならまだ間に合う。慌てて七のボタンを押し、ダニエルは行き先を変更した。すぐにエレベーターは七階に到着し、ダニエルの事を吐き出して扉を閉ざす。隣の十二号機は……今は九階だ。

「七階に着きました、奴は今、九階です!」

 喘ぎ喘ぎダニエルは無線に叫んだ。

「気をつけろ、来るぞ! コンディショナーまで使い始める前に、その変態を捕まえろ!」

 八階のランプが点灯した。ダニエルは警棒を抜き放ち、腰を落として身構え、待機した。必要ならばすぐにでも飛び掛かれる。静かなフロア内にエレベーターの降りてくる微かな風切り音が聞こえてきた。来る。

 七階のランプが点灯した。一瞬の隙をついて、一気にねじ伏せなければいけない。大丈夫だ、自分なら出来る。バイト初日に功績を作り上げるチャンスだ。ダニエルは鋭く息をのみ、警棒を握る手に力を込めた。とうとうダニエルの目の前で扉が開き、中が露わになった。

 シャンプー男はいなかった。男はおろか、シャンプーの跡も、誰かが乗っていた形跡さえまるでない。ただ、壁に一枚張り紙があるだけだ。ダニエルは拍子抜けして目を丸くし、恐る恐るエレベーターの中に乗り込んだ。やはり誰も居ない。壁の紙をはがすと、さっとその文面に目を通して、へたり込みそうになってしまった。

『ひっかかったな、新人!』

「ベイツさん!」ダニエルは無線に向かって吠えたてた。「なんですかこれ!」

 無線からはたくさんの人々の爆笑が聞こえ、続いてベイツの息も絶え絶えな声が聞こえた。

「いやいや、悪かった! これが我が夜警の新人君に対する通過儀礼ってやつでな! 毎回毎回みんな引っかかるんだよ、ああ、腹の皮がよじれる程笑った!」
「勘弁して下さいよ! どれだけ走らされたと思ってるんですか!」
「良い運動になったろう、青年!」
「大体、なんなんですか、シャンプー男って!」


「いやな、元々このモールには幽霊が出るっていう噂があって、昔はそれで新人に悪戯してたんだよ。だが、最近じゃ幽霊なんて信じない奴が多くてな。それで、頭のおかしい変質者の悪戯に変更したんだ。どうだ、リアリティあったろ?」

 先輩達は、ダニエルが存在しない変質者を追いかける姿を、モニターで眺めてゲラゲラ笑っていたと言う訳だ。なんと質の悪い職場だろうか。ダニエルは疲れ切ってエレベーターの中にしゃがみこみ、元居た八階に向けて上昇を始めた。

「笑えないです、こんなの」
「まあ怒るな、次の新人はお前がからかってやれよ。ようこそ、マルコムの夜警へってな!」
「わざわざ他の人まで集めて、僕をさらし者にするなんて趣味悪いですよ! リックもケビンもそっちに居るんでしょう、いつまで笑ってるんですか、他の人は!」

 憤慨してダニエルが訴えると、急にベイツは黙りこくり、まだ笑っている数人の笑い声だけが聞こえる様になった。その間にダニエルは八階に到着し、再び薄暗いフロアのパトロールに歩き出す。

「…………ダン」

 ベイツの掠れた声が、笑い声に交じってイヤホンから聞こえた。

「俺、今一人だぞ」
「もう騙されませんよ! さっきのシャンプー男で十分です、八階見回ったら一回警備室戻りますからね。良いですか? ……ベイツさん? 聞こえました? ベイツさん?」

 イヤホンからは変わらず、ゲラゲラと笑い声ばかりが聞こえている。
 

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