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ユー・キャン・フライ

 ウィリー・S・バンバーは、汚く散らかった部屋の中でソファに沈み込んだまま、テレビに映る映画をぼんやりと眺めていた。それは、彼が幼い頃に主演したピーター・パンで、興行収入的に言えばぱっとしなかったのだが、彼にとっては人生の中で最も大切なものであった。なにせ、彼がピーター・パンである証拠なのだ。


「やあ、ぼくはピーター・パンだ」映画に合わせてウィリーは呟く。変声期前の高い少年の声に、今のウィリーのしわがれた低い声が重なった。ウィリーは突然恐怖にこめかみを殴られて、ソファからもつれるように飛び起きると、机の上にある白い粉をストローで鼻から一気に吸い込んだ。


 幸福感はすぐに訪れた。そうだ、素敵な事を考えるんだ。それがコツさ。薄汚れた天井が輝き出し、美しい夜空に変わると、ウィリーはいつの間にか空を飛んでいた。ようし、良いぞ。このままネヴァーランドに飛んで行こう……。

 ウィリーは、マカロニ製造で一財産築いたバンバー家の偉大なる祖父の名前を受け継いだにもかかわらず、自分の事を“ピーター”と呼び、周りにもそう呼ばせる事に幼い頃から情熱を注いでいた。


 それは彼が四歳の時、母親に寝物語として読んでもらったピーター・パンに酷く心を奪われた事に始まり、以来彼は、たとえ良い家に住んで、両親と歯列矯正器をつけた姉に囲まれ、何不自由ない暮らしをしていたとしても、心だけは、ネヴァーランドで孤児達を率いる、無邪気で勇敢でずるがしこい妖精の少年であり続けたのだ。


 そんなウィリーに転機が訪れたのは、十一歳の春だった。映画「ピーター・パン」のオーディションが開催されたのだ。そこで彼が見せた完璧な立ち振る舞いによって、ウィリーが合格したのは言うまでもないだろう。なにせ彼は、四歳の頃からもう七年間もピーター・パンなのだから。


 撮影はあまりに現実的で楽しいとは言いづらかったが、それでも、出来上がった映画を見れば、緑のシーツだった背景が見事なネヴァーランドの森になり、ワイヤーでたどたどしく吊るされたウィリーは縦横無尽に空を飛んでいた。


 言葉も無かった。ウィリーは本当に“本物”のピーター・パンになったのだ。


 けれど、夢は映画の上映と共に終わった。新しい映画に出るように何度かオーディションを受けさせられたが、彼の特技は“ピーター・パン”であって演技ではない。二度ほど他の映画に出たが軒並み評判は悪く、それ以降彼は映画に出ることは無かった……ピーターと呼ばれる事さえも。


 更なる悲劇は成長だった。永遠に大人にならないはずの妖精の少年は、ぐんと背が伸び、喉仏が出て声が低くなり、ひげが生えた。


 もう無理だった。これ以上はピーターでいられない。

 

 ウィリーは毎日を絶望漬けで過ごしていたが、ある日“妖精の粉”が売っている事を知り、それに飛びついた。粉の効き目は素晴らしかった。少々値は張るものの、ちょいと鼻から吸いさえすれば、ウィリーはまたピーターに戻ることが出来たのだ。


 ああ、やはり飛ぶには妖精の粉がなくっちゃ……。

 

 不意にウィリーは目を開けて、自分がいつものゴミ溜めのような部屋に居る事に気が付いた。おかしい、さっきまでネヴァー鳥と飛んでいたのに。もう一度起き上がってのろのろと鼻から粉末を吸い上げる。暫く様子を見て、なかなか効いてこない事に気が付いた。もしかして、もうこの粉では効かないのだろうか。更に強い魔法のかかった粉が必要だ。しかし、今は金がない。残りを全部一気に吸えばまた飛べるだろうか。


「良いかい、楽しい事を考えるんだ」

 

 テレビから声が聞こえて、ウィリーはそちらを見た。幼い自分が目を輝かせている。

 

「そうすれば君だって空が飛べる! そら!」

 

 ピーターが誇らしげに飛び回っている。けれどウィリーは突き出た自分の腹を見て愕然とする。

 

「飛べないんだ……」ウィリーは唸った。その途端に淀んだ目から涙があふれ出した。「俺は飛べないんだよお」


 ソファの上で丸まって彼は泣いた。歯を食いしばっても我慢なんて出来なかった。

 

 不意に彼が顔をあげると、壁に小さな影が見えた。影は大げさにベランダの方を指差している。ウィリーは涙を拭って笑った。「影か。また勝手に離れたな」

 

 身振り手振りでベランダを指差す影に導かれ、ウィリーはふらつきながらベランダに出てみた。蒸し暑い夜風に全身をねぶられ、好い気はしない。と、輝く夜景の中で一際煌めく光があった。

 

「ティンク?」ウィリーは呻いた。「ティンクかい?」

 

 小さな光は同意する様に瞬いた。そして急に彼の頭の中に彼女の声が流れ込んできたのだ。「ほらピーター、貴方が飛べないわけがないでしょう? さあ行くわよ、ネヴァーランドに戻りましょう!」

 

「待てよ、すぐ行くから! 相変わらずせっかちだな!」


 ウィリーは無邪気に微笑むと、柵に置いた手にぐっと力を込めてそれを乗り越えた。
 

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