ブラック家の引っ越し
可哀そうなキャットは殺風景な部屋の中に立ちつくし、深い溜息をついていた。新しい町まで引っ越して来たは良いのだが、彼女は名前と同じ位変わった女の子で、人間の友達を作るのが苦手だ。なんたって今のところキャットの一番の親友はクマのぬいぐるみの首なのだから。
「キャットちゃ~ん、貴女の荷物取りにいらっしゃあい」
まさに猫撫で声とはよく言ったもの、階下からの母親の声に再び溜息をつきながらキャットは階段を下りて行った。階段が時々軋むのは仕方ないだろう、この家は……否、屋敷は相当古いはずだ。新しい我が家に関しては、埃っぽい所を除けばキャットは満足していた。
家族三人で住むには広すぎる屋敷は、黒い服と魔術を愛し超常現象に焦がれるキャットをすぐに虜にした。古く荘厳な雰囲気の屋敷の中は嫌味でないゴシックでクラシックな雰囲気に統一されており、これから行う家族のデコレーション一つで、立派なお屋敷にも歴史あるお化け屋敷にも成りうる。勿論キャットは後者を望んでいた。
「どうだいキャット、部屋は?」
玄関ホールまで降りていくと、父親が大きな段ボールを抱えて家の中に入ってきた所だった。その後ろから屋敷の内装に良く合う樫の大机を運ぶ引っ越し業者が続く。母親は既に玄関ホールに居て、段ボールを選り分けながら業者の人間に支持を出していた。キャットは小さく頷いた。
「家は素敵よ。学校もこんなだったら行きたくなるのに。自宅学習じゃ駄目?」
「お前がアインシュタイン位天才でも学校には行かせるぞ。人間の友達を作りなさい」
「そうよキャット、せっかく新しい生活が始まるんですもの。これを機に変わってみるのも良いじゃない?」
キャットは何度目か分からない溜息を吐いて、頭を横に振った。
「私は元々変わってるわよ」
「そんな屁理屈言わないの。ほら、深呼吸して御覧なさい。この清々しい始まりの空気!」
母親は両手を広げてめいっぱいに鼻から空気を吸い込んだ。けれどすぐに目を丸くして盛大に咳き込んでしまった。賢いキャットは深呼吸はしなかった、何故なら屋敷の臭いを知っていたからだ。
「埃とカビと古い物の臭いよ、ママ。清々しいと言うよりガスガスしいわ」
「そら、もう良いから自分の部屋に行く前にこれをダイニングに運んでくれ。気をつけるんだぞ」
咳き込む母の背中をさすった後、父親は食器類の入った発泡スチロールの箱をキャットに渡した。こうしてキャットはまんまと自分の部屋を後回しにされ、ダイニング、キッチン、リビングの荷物を片づける手伝いをしなければならない羽目になってしまったのだ。
大体の作業が終わり引っ越し業者が帰る頃、太陽はとっくに南の空を通過しておやつの時間を知らせていた。元々この家は家具つきだったので、それ程大掛かりな作業をせずに済んだのが救いだ。両親は水道とガスがきちんと使えるかを確かめる為に、キッチンで紅茶を飲んでいた。
「こんなに大きくて立派な家があの値段で買えるなんて夢にも思わなかったわ」
「本当さ、君の古い物好きが高じて、とんだ掘り出し物を発掘したよ、サンディ」
「あら酷い言い方ね、トマス! 骨董品コレクターと呼んでほしいわ」
「でも本当、破格だよ。この家”出る”んじゃないかい?」
「違うわよ、町から少し離れてるし隣が墓地だから安いのよ」
キャットがこの家を好きなもう一つの理由がそれだ。少し町から離れた小高い丘の上の屋敷の隣は、見事に墓場となっ ていた。枯れ木と雑草、崩れた墓石の数々。だからこそキャットは墓地が見える部屋を真っ先に自分の部屋にすると言っ たのだった。
ちびちびと紅茶を飲んでいたキャットは両親の話を聞いて、途端に探検してみたい欲求に襲われいてもたってもいられなくなった。こんな素敵な我が家を見て回らない手は無い。
「ねえ、私探検してきても良い?」
「良いけど、あまり危ない真似はしないでよ」
二つ返事で母から鍵を受け取るとキャットは紅茶を飲みほして、まず自分の部屋に上がって行った。まだ荷物はひも解いていないが、バッグの一つからクマのぬいぐるみの頭を取り出す。彼女の親友だ。
「さ、行きましょうミスターベア。新しい家の中を見て回るのよ」
踵を返した瞬間、段ボールの一つに足を取られて転んでしまった。ミスターベアは転がりキャットは悲鳴をあげて顎を強か打ちつける。唸りながら起き上がり、腹立ちまぎれに段ボールにパンチを一発食らわせると辺りを見回した。
一瞬、キャットの顔色が悪くなった。親友が消えてしまったのだ。けれどキャットが屈みこんでベッドの下を覗き込むと、そこに彼が転がっているのが見えた。そしてなんだか奇妙なものまで見えてしまった。
それはベッドの下の床に描かれていた。ミスターベアを救出した後身を起こし、荷物の中から懐中電灯を引っ張り出してもう一度屈みこむ。灯りに照らされた先に見えたものは、非常に不気味でキャットには魅力的な魔法陣の様だった。
「ワーオ、見えるミスターベア?」
自分の隣にぬいぐるみの頭を置いて一緒にそれを眺める。黒いペンキの様なものでそれは描かれており、今までキャッ トが見たどの魔術図鑑にも載っていないものだった。
「面白くなってきたわ。質の悪い呪いじゃないと良いんだけど……今晩寝るのが楽しみね」
キャットとミスターベアはまず二階から見ていく事にした。部屋を開けては中を覗き、これまで部屋の主としてのさばっていた蜘蛛に挨拶をしていく。流石広いだけあって部屋数も中々の物で、客間や書斎は勿論、図書室があったのには感激した。
二階が終わり一階へ。バスルームを見た時、古めかしい金のシャワーヘッドが鈍く光っていた。母親が見たら大喜びするだろう。前の住人は余程センスの良い骨董品好きか、でなければ変人だ。赤い絨毯の敷かれた廊下の左右に置かれた、通る者を威圧する甲冑のコレクションを見ながらキャットは思った。
さて、探検は終わりを迎えようとしていた。家の中はやはり素晴らしい内装なのだが、結局それ以上キャットを惹きつける物は見当たらず、幽霊の痕跡はおろか黒ずんだ血の痕や壁のひっかき傷なんかも見当たらなかった。
「素敵な家だけど、やっぱり普通の家みたい」
鍵をチャラチャラさせながらミスターベアに話しかけたキャットが両親の元へ戻ろうとした時、廊下の奥にもう一つドアがあるのに気がついた。それは黒塗りの樫で出来たドアで、一見するとひっそり壁に馴染む様に作られている。まるで存在を知られたくない様だ。
キャットは目を輝かせてドアに近づき、ノブを回してみた。鍵はかかっておらず、押してみると軋んだ音を立てて地下へと伸びる階段をキャットの目の前に晒した。彼女の目が更に輝く。
「地下室まであるのね、何かあるに違いないわ!」
本当は普通の家だと分かっていたのだが、自分を楽しませる為にキャットは弾んだ声で言って懐中電灯で照らしながら一歩踏み出した。地下はよりカビ臭くて湿っている。加えてなんだか空気が寒く感じた。
階段を降りると残念ながらそこは普通の地下室で、埃を被った家具やガラクタがぱらぱらと置いてあるだけの殺風景な部屋だった。けれどそれで引き下がるキャットではない。キャットは懐中電灯を頼りにガラクタの中を漁り始めた。
もしかしたら掘り出し物があるかもしれない。それに呪いが掛かっていなくても、これだけ屋敷の内装にこだわった人物の物なら飾るだけで十分魅力的だ。シャレたランプなんかがあったら良いのだけど。
キャットが宝探しをしていると、不意に背後でドサっと音がして飛び上がりそうになった。振り返って照らしてみると、そこには随分と大きなクローゼットがじっと息をひそめている。何度か瞬きした後ミスターベアと見つめあってからキャットはクローゼットに近づいた。
埃こそ被っていたものの、クローゼットは大層立派なものでまだお役御免には早い様に思われた。そっと手を伸ばして開けてみる。途端にキャットは悲鳴を上げて屈みこんだ。蝙蝠が飛び出してきたのだ。
キィキィ言う鳴き声が遠ざかって静かになると、改めてキャットは立ち上がり胸をなでおろした。驚いて心臓がバクバクと脈打っているが同時に楽しくもある。探検はこうでないと。気を取り直して扉を開けると懐中電灯で中を照らしてみた。
まず目に入ったのは空の空間。けれどそれをどうこう思うより前に、キャットはハッとした。クローゼットの内壁にベッドの下に描かれていたのと同じ魔法陣が張り付いていたのだ。やはりこちらも黒のペンキの様なもので描かれている。流石に何かあるなと色々見てみたのだがそれ以上にまじない事の痕跡があるわけでもなく、ベッドの下と同じようにただ描かれているだけの物でしかなかった。
キャットが考え込むように顎を人差し指で叩いていると、ふと何か落ちているのに気がついた。クローゼットの隅の方に転がっているのは本だ。
「これが落ちたのね」
先ほど驚かされた音の犯人を拾い上げ、埃を払って懐中電灯で照らしてみる。黒の革で出来た本で表紙には銀色の文字で『あの世のまじない書』と記してあった。なんて素敵な本だろう。キャットは最大限まで目を見開き満面の笑みを浮かべた。
すぐに読み始めたい衝動に駆られたのだが、こんな真っ暗な部屋で懐中電灯を使いながら読んでいては疲れてしまう。 ただでさえ引っ越しで疲れているのだから、もっと楽に本を読める場所が良かった。
「そうだわ、墓場で読みましょうミスターベア。とびきり気味の悪いお墓の前か、首吊りの木の下で」
ミスターベアと本を一緒に胸に抱くと、キャットは足早に階段を駆け上って明るい家の中に戻ってきた。一瞬目がチカチカしたがすぐに外へと向かっていく。ちょうど玄関で不動産屋とすれ違った。
「あら、こんにちはお譲ちゃん。素敵な本と……ぬいぐるみね」
「ありがとう。この本は地下室で見つけたんです。とっても良い家だわ!」
「地下室で……?」
「ええ。両親はキッチンに居ますよ、それじゃあ」
キャットが意気揚々と歩いて行った後ろ姿を見つめる不動産屋。家の中から出てきた母親は彼女に気付き、笑顔で話しかけてきた。
「こんにちは不動産屋さん。どうかしました?」
「ああ、こんばんはミセスブラック。渡し忘れた鍵があったので届けに伺ったんですが……」
「あらあら、わざわざどうも。どこの鍵ですか?」
「地下室です。でも妙ですね、おたくのお嬢さんは地下室に入ったと言うんですよ。しっかり鍵がかかっていたはずなんですがね……」
きょとんとした二人がキャットの後ろ姿を追おうと墓場に目を向けた頃、当の本人は既に墓地の敷地内へと入り込んでおり墓の木立の中を機嫌よさそうに歩いていた。
キャットも他の変わっている女の子たちと一緒で墓場が大好きだ。独特の空気と静けさ、そして地面の下に眠る死体の人々。加えてここには気味の悪い大木が一本威圧的に構えており、事実はどうあれ『首吊りの木』と呼ぶにふさわしい風体で墓場を見守っているのだ。
「さて、どこが良いかしら。このお墓なんか古くて良いわね……ジョナサン・ヘンダー? この名前は変だ。もっとかっこいいお墓はないかしら……」
キョロキョロと辺りを見回して奥へと入って行くキャットとミスターベア。比較的新しいお墓から、今にも崩れてしまいそうなもの、動物の形をしたものとバラエティに富んだ墓場だ。散歩のしがいがある墓地である。
大分奥まで入った所で、キャットは不意に一つの墓に目を奪われた。それはとても古い墓で、ツタに絡まれながらまるで打ち捨てられた様にひっそりと建っている。キャットは近づいてしげしげと眺めてみた。
歪な形、ひび割れた表面を這うツタ、地面には雑草が疎らに生え、文字は風化されて読みづらい。真ん中には骨の魚の絵が掘ってあり、その上にオッドフィッシュと名前が彫られていた。さっきの名前より変てこな名前だ。
更に変てこなのは生まれた年と死んだ年が書いてなくて、『ここに眠る』と彫られた文句の横に、まるで落書きの様に『起こすな!』と赤い字で書かれていたのだ。キャットはこの妙ちきりんな墓が気に入り、ポニーテールを揺らしながら傍らに腰掛けた。膝の上にはミスターベア。本を両手に持って、ようやく開く事が出来た。
「ワオ、これって今まで見たどの本とも違うのね。ゴーストの呼び方、呪いのかけ方、お守りの作り方……見てミスターベア、さっきの魔法陣だわ!」
本をめくっていくうちにキャットは先ほどベッド下とクローゼットの中に描かれた魔法陣を見つけた。それは本によるとゴーストを封印しておくものらしく、キャットは目をキラキラさせて文字を追いかける。本は古びていて少し読みづらい所もあったが、大凡理解できるものだった。
「ゴーストを半永久的に閉じ込めておきたい場合は、定期的にセイジの葉で魔法陣の埃を払うのを忘れない事。こんな方法聞いた事がないわ……封印を解く場合は呪文を用いるか魔法陣を壊す事、呪文は下記参照、ですって」
そこで一度キャットはミスターベアの顔を覗き込むと、楽しそうに笑いながら本にもう一度視線を落とした。そして、顔を上げると自分の家を不敵な顔で睨みつけ、本を掲げながら高々と呪文を唱えたのだ。
「砕けよ銀の杯、止まれよ時計の針! 寝際に労い祈ぎ掛いて、仕事丸ごともう他人事!」
あまりにも奇妙な呪文だったので、キャットは言い終えた途端に笑いだしてしまった。今までの経験で彼女はこう言っ たものが本当に効かない事は嫌と言うほど分かっていたのだ。
しかしこんな諺がある。『事実は小説より奇なり』『三度目の正直』或いは『下手な鉄砲も数打ちゃ当たる』。キャッ トの知らない所で大変な事態が起きていた。彼女の部屋と地下のクローゼットだ。例の魔法陣が緑色の光を放ったかと思うと、その光の中から突然おびただしい数のゴーストたちが飛び出してきたのだ。
噴き出したゴーストたちは一斉に屋敷中に溢れかえり、キッチンに入った何体かが両親と不動産屋に目を付けた。ゴーストたちは姿を消すと彼らに忍びより、キッチンの物を浮かせたり打ちならしたりぶっ飛ばしたりと大暴れし出した。三人分の悲鳴は墓場に居たキャットの元にまで届いた。
キャットが仰天して家の方を見ると、無数のゴーストが家の中から飛び出してくるのが見えた。と同時に辺りが急に暗くなって、瞬きする真に墓地はひしめくゴーストで埋め尽くされてしまった。キャットは悲鳴をあげてオッドフィッシュの墓の後ろに逃げ込んだ。
こっそり顔を出して様子を見れば、ゴースト達は好き勝手に振る舞っており酷い有様だ。ある者はチェスを、ある者はお茶会を、ある者は喧嘩を始め、亡霊の馬車が大きな音を立てて暴走している。暗い世界でゴーストたちの青白い体が浮かび上がり、とても不気味な光景だった。
「うちは本当にホーンテッドマンションだったのね……どうしよう、私が封印を解いちゃったんだわ!」
震えながらキャットは自分のした事を悔いたがもう遅い。今まで本当に効いた呪文なんて無かったのだから、ゴーストを信じる気持があっても『本当はそんなもの居ない』と言う思いが生まれてしまうのは仕方がないのである。
家からまた悲鳴が聞こえたキャットは、両親が心配でいてもたってもいられず墓の裏から飛び出して家に駆けていこうとした。けれど丁度その時暴走馬車が飛び出してきて、キャットの目の前スレスレを凄い早さで過ぎていった。
「馬鹿野郎、危ねえだろ! もう一ぺん死にたいのか!」
馬車の運転手が荒々しく叫んだのを聞いて頭がクラクラした。この墓地で生きている人間はキャットしか居ないに違 いない。あまりのゴーストの多さにキャットは家に行く事が出来ない気がしてきた。
「何か方法があるはずよ、封印しなおす呪文がきっと載ってるはずだわ!」
大急ぎで本を開いてそれらしい項目を探す。封印のやり方は何種類かあったのだが、とても今この状況で出来る様なものは載っていない。大体が色々な物を用意しなければならないのだ。どうやってこんな時にヤギの血なんか見つけてこれるだろう!
それに何より数が半端ではない。一体どこに隠れていたのかと言わんばかりのゴーストを全て取り除くのは、そうそう成し遂げる事が出来るものではない。暗くなった世界の頭上では黒い雲がのさばり、不穏な雷の唸りを響かせている。
風が出てきてキャットはますます焦り出した。バラバラと本のページを捲りながらこれまでやった事がない程早く文字を読んでいく。東の魔女の知恵、一人悪魔憑きの払い方、困った時には……、サンドワーム除け、呪いの予防…………ん? 困った時には……?
キャットはハッとして行きすぎたページをまた戻った。章と章の間の空白のページに、汚い文字で『困った時には』と書き込まれている。そしてキャットの目の前でみるみるうちにその下に新たな文字が書き込まれていった。困った時には……。
「”困った時には、口笛吹いて”?」
誰も居ないのにまるでその場で誰かが書いた様な不可思議な文字は、それ以降うんともすんと言わなかった。キャットはそのメッセージを目を丸くして見つめ、一瞬考えこむ。この本に書いてある事を実践してこんな有様になってしまったのに、またそれを信じろと言うのか。
けれど屋敷からまた悲鳴が聞こえ、キャットは迷っている暇がないのを知った。これ以上事態が悪くなる事もないだろう。意を決すると、ピュウウと犬を呼ぶように口笛をどんちゃん騒ぎの墓場へと響かせた。
途端に、異変はキャットの後ろで起こった。恐ろしい呻き声が聞こえたかと思うとオッドフィッシュの墓が不気味に光り出したのだ。そしてみるみるうちに墓の手前の地面が盛り上がって、地下への扉が現れた。観音開きのそれが激しい音を立てて開くと、中から棺桶が飛び出してきた。
棺桶は空中でガタガタ暴れた後、激しくその蓋を開けた。中からは棺桶が地下から飛び出してくる勢いよりも遥かに荒々しく、一人の男が現れた。なんと奇抜な男だろう! まずは真っ青な爆発頭に目が奪われ、次に死人の様な肌色、ギラついた金色の目、色違いの靴へと視線は移った。
「おい、ザ・ハウス!」
男は耳を塞ぎたくなるような骨を軋ませる音を立てて伸びをしながら、ダミ声で呼ばわった。
「一体どんな用事でこのオレ様の眠りを邪魔しようってんだ、アア!?」
宙に浮いたままがなり立てた男はそのまま大暴れせんばかりであったのだが、驚いて動けなくなっているキャットに気がつくと途端に目を見開いて動きを止めた。そのまま呼吸の素振りさえ見せなかったが、急にパカンと顎が外れて大口を開けると、中から長い舌がベロンと出てきた。
一体何事かとキャットが様子を窺う目の前で、男は浮力を失い悲鳴を上げながら地下へと棺桶ともども落ちていった。
痛そうな音! 土ぼこりがあがって、男の呻き声が続く。迷いはしたものの、キャットは扉に近づいて中を覗き込んだ。
「あの……大丈夫ですか?」
「アア、ううー……なんてこった!」
頭の周りに星を飛ばしていた男だが、扉から顔を出した途端にキャットを見て声をあげた。それから大きな両手でキャットの手を握りしめると、ぴょーんと飛び出して改めて向き直った。
「オレの夢の女!」
「なんですって?」
「ユーレカ! まさか本当にまた会えるとは思ってなかったぜ!」
「ちょ、ちょっと待って。私たち初対面よ」
「現実で会うのはな」
困惑するキャットを今まさに抱きしめようとした男は、思い直して両手を降ろし扉の中にまた引っ込んだ。そしてすぐに戻って来るとキャットに額縁に入った一枚の絵を見せてきた。驚いた事にそれはキャットそっくりの少女が描かれていたのだ。
「オレが夢の中で会った忘れられない人、本当に居るとは思わなんだ」
男はうっとりと、絵の中の少女とキャットを交互に見やる。
「……つまり、貴方の夢に私が出たの?」
「誰の夢だって良いじゃねえか、オレたちこうやって出会えたんだ!」
「悪いけど人違いよ。私、他の人の夢になんか出た事無いもの」
「それがどうした、お前はオレの理想と瓜二つの女なんだぞ!」
大喜びの男を暫く眺めていたキャットは、きゅっと眉根を寄せて目頭を指で押さえた。
「これ以上悪くなるなんて、口笛吹かなきゃ良かったわ……」
「お前が呼んだのか? ザ・ハウスじゃなく?」
「ザ・ハウスって?」
「可愛いが頭は良くないみたいだな。家だよ、家、そこの……なんじゃこりゃ!?」
そこまで来て、ようやく男は大騒ぎの庭に気がつき悲鳴を上げた。キャットは呆れて首を横に振ったが、もう文句を言う気力もない。ゴーストたちが縦横無尽に駆け巡る墓場をぐるりと見渡した男は、キャットの持つ本に気がついた。
「なんでその本を持ってるんだ、お前まさか封印を解いちまったのか!」
「知らなかったのよ、だから助けを呼んだの。つまり、貴方だけど」
男はバシンと額を叩いた後、改めて周りを見回した。キャットはそんな男を見ながら、今更何者なのだろうと疑問に思ったのだが聞ける雰囲気ではない。ぶつぶつと独り言を言いながら、顔をしかめているのだから。
「ハウシーの野郎、やりやがったな……起きて早々こんな事に……」
「あの、貴方が誰か知らないけど、助けてもらえませんか?」
「嫌なこった、面倒事には関わりたくないね。墓に書いてあったろ、起こすなって」
「お願いします、家には親が居るの。なんでもするから!」
なるべくキャットは丁寧に言って、黒地に細い金のストライプが入った汚いスーツを引っ張った。男はキャットに向き直り、じっくりと彼女を見下ろしてくる。
暫く間があった。その間ゴーストたちは好き勝手に暴れて酷い音が家の中から響き、キャットは気が気でいられない。腕を組む男にお願いと手を組んで切願すると、ようやく男は口を開けた。なぜか男は笑っていた。
「オーケイ、助けてやっても良いが条件がある」
キャットはこくこくと何度も頷き、天の助けとばかりに男を熱心に見上げた。
「オレの女になれ」
汚い歯を見せて笑った男の言葉を理解するまでキャットは頷いていたが、その意味を把握すると途端に眉根を寄せて「はあ?」と声をあげた。聞き違いかと思ったが、そうではない様だ。
「本気だぜベイブ。お前がオレの物になるんなら、助けてやる」
「こんな時に何言ってるのよ! 貴方正気なの!?」
「いや全然、これっぽっちもマトモじゃない。でも大マジなんだよ、オレは蛇みたいに狙った獲物に絡みついて逃さないんだ」
男は長い舌をべろりと見せてきた。それはいつの間にか蛇となってキャットの頬を真っ赤な舌で舐めるものだから、悲鳴をあげて身をのけぞる。途端に男は腕を伸ばしてキャットを自分の元に引き寄せた。
「さあてどうする、ゴーストたちはもう三百年封印されてたんだ。久々のパーティにハメをはずしすぎる奴も居るだろうぜ」
「でも、でも……」
「あー急かさないさ、ゆっくり考えろ。オレは待ってやるよ、あいつらは違うけど。ハーハハハハ!」
うろたえる視線を墓場に放る。この世のものとは思えない現状に、いくらオカルト好きのキャットでも恐怖を覚えた。それに、家の中から酷い音はするのにもう悲鳴は聞こえないのも気がかりだ。
キャットは間近にある男の金色の目を見て息をつめた。普通であるなら大急ぎで逃げ出すべき要注意人物が、今のたった一つの望みなのだと思い知らされる。やがてキャットは意を決して口を開いた。
「分かったわ、なんでもするからちゃんとやってよ」
「よしきた! さあ、キスしな」
「キス!?」
「これがオレとの契約の仕方だ。なんでもするって言っただろ、他を探すか?」
飄々と言う男を見上げたキャットはこのまま気絶してしまいたくなった。どんなにハンサムで清潔な男から突然キスを迫られてもNOと言うのに、今の相手はこの男だ。今日初めて会った、奇妙奇天烈で、墓場から出てきた男なんて。
けれどキャットはやはり利口な女の子で、これはきっと悪魔との契約の様なものだと考えた。悪魔と契約する場合、魂を取られたり自分の家族を奪われたりする。今回はキスだ。それを考えたら安いものかもしれない。
一か八かの賭けと腹を括り、ええいままよと男のネクタイをむんずと掴むと自分の元へと引き寄せてキスをした。強引な口づけに男は一瞬目を丸くしたが、すぐに調子に乗ってキャットを抱きしめると口内に舌まで滑り込ませた。
始め、キャットは予想外の出来事に抵抗した。けれど男の腕はびくともせずに逃れられなくて、人より長い舌が丹念に口内を撫でていくうちに、体の力が抜けそうになってしまったのだ。
「んっ、ん……ふぅ、ン……!」
鼻にかかった声が漏れ、呼吸がうまくいかなくなる。くすぐる様に男の舌がキャットの舌を捕えると反射的に舌を引くせいでキャット自身がキスに積極的になっている様だった。もしかしたら、いつの間にかそうだったのかも知れない。思考は既に正常ではなくなっていたのだから。
生まれて初めて体験する濃いキスに、知らずに頬が紅潮していた。やがて永遠にも思えたそれが終わるとゆっくり糸を引いて男が離れた。べろりと濡れる唇を男の舌が舐める。そんな様子が間近にあるのは、男が唇が触れるか触れないかの所にまだ居るからだ。
「最後にオレの名前を三回呼ぶんだ」
男は低い声で囁いた。それはまるで、美しい音楽の様にすらすらとキャットの耳に流れ込んできた。
「な、まえ……?」
「オレの名前だ、呼んでみろ。オッドフィッシュってな」
悪魔にたぶらかされている最中の人間は、まさにこんな風なのだろう。けれどそんな事を思う暇もなく、キャットはぎらりと輝く男の金色の瞳に釘づけになっていた。熱い唇が震えて、言葉が零れる。
「……オッド、フィッシュ……」
「もう一回」
「……オッドフィッシュ」
「もう一回」
「オッドフィッシュ」
オッドフィッシュは口端を鋭く釣り上げて笑うと、離れ際にもう一度キャットにキスを落としてから彼女を解放した。 キャットはふらつきながら数歩下がり事の様子を見守る。オッドフィッシュは空中に跳ね上がると、湧き出してきた力を誇示するように勢いよく両手を広げて叫んだ。
「イィッツ、ショウタアーイム!」
振り被った腕を降ろすと稲妻の様な光が手から飛び出し、墓場の中央にステージが現れた。ぱっと消えたオッドフィッ シュはステージ上に現れると、手にしたマイクで高らかに言う。
「アテンション、ゲストのゴーストさん方! 三百年も眠りっぱなしで、ペストのペーストのテイストも忘れちまったんじゃないか!」
今まで散々暴れていたゴーストたちは、突然現れた奇妙な男に気がついて動きを止めた。それは家の中のゴーストも同じで、墓場が文字通り墓場の様に静まり返る。
スポットライトを浴びて、オッドフィッシュは上機嫌そうに眼を細めながら自分の頭を指さした。途端にポンと帽子が現れ、手を広げるとその中にステッキが現れる。それをくるくる回して恰好つけながら、オッドフィッシュは指でちょいちょいと彼らを呼び寄せた。
「せっかくこの世に戻って来れたんだ、ショックなミュージックでロックしようぜ!」
乗せられたゴーストたちが楽しそうに歓声を上げる。外の様子に気がついて、家の中に残っていたゴーストたちもふわふわ飛び出しステージの前へと集まってきた。
オッドフィッシュが彼らを引きつけている間に、キャットはこっそり墓場を駆け抜けて家へと戻ってきた。大急ぎで家の中に入るとキッチンは固く扉が閉ざされており、不思議な事にびくともしない。ドンドンと扉を叩いて中に呼びかけた。
「パパ、ママ、私よ! 開けて!」
中から何の反応も無かったのだが、突然扉は開き、体重をかけていたキャットはそのままバタンと倒れ込んでしまった。顎を強か打ちつけるのは今日で二度目だ。本とミスターベアが吹っ飛んだが、気にしていられない。
痛みから回復してキャットが目を開けると、突然、目前の床に文字が浮かび上がった。あの本に書かれた文字と同じ筆跡だ。
「”ごめんね”? なんなの、まだ家にゴーストが残ってるの?」
キャットは身構えながら立ち上がると、床でひっくり返ってのびている両親と不動産屋の元へ駆けつけた。傷ついた様子もなく、ただ気絶しただけの様だ。キャットが彼らの様子を見ていると、今度はキッチンの棚に例の文字が浮かび上がった。
『僕はザ・ハウス。その人達は怖くて気絶しただけだから大丈夫。僕がここにゴーストを入れない様にしたから、誰も傷ついていないよ』
それでも最初の侵入は防げなかったらしく、キッチンの中は酷い様子だ。廊下に比べれば大したことないのは、気絶して無防備になった彼らを守ってくれた証拠だろう。さっき扉が開かなかったのもそのせいか。
「ザ・ハウス……さっきオッドフィッシュが言っていた? 家が生きてるの?」
最初の文字が消えて、新たに文字が浮かび上がった。
『そうさ。驚いたよね』
「そんな事どうでも良いわ、貴方が彼を呼び出せなんて言うから、大変な事になってるのよ!」