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ラスプーチンのネックレス


 エルモズ街九三。それが僕と同居人のウィリアム・ナイトレイが住む家の住所である。見晴し、日当たり良好。男二人で住むには少々手狭なものの不便はなく、職場にも駅にも近くて、物件としてはこれ以上ないと言う代物だった。
 我々が一日ぶりに赤いレンガ壁が特徴的なそのアパートに戻り、自分たちの部屋に入り込むことができたのは、昼の十二時を少し回った頃だった。
「愛しき我が家!」荷物を置いたナイトレイは、定位置の茶色いアンティークソファに横になって寛いだ。「ニューヨークは都会過ぎて、私には合わないね。この、今一つ垢抜けない、古き良き時代を感じさせるエルモズ街こそ、我が故郷に相応しいよ」
 起床してから帰宅するまで、彼はハンバーガーを三つにポテト、サンドイッチ、菓子パン、板チョコレートと常に腹に詰め込みながら移動していたので、空腹が解消されている分機嫌がよいらしい。
 暫くしてから、不意にチャイムの音が飛び込んできた。古いアパート特有の割れたビーッと言う耳障りな音が、長く、何度も鳴らされる。僕とナイトレイは顔を見合わせた。まだ時刻は十二時二十分。約束の一時には間があるが、この来訪者の正体は随分せっかちな件の依頼人なのだろうか。
 はたしてそうであった。僕が「どうぞ」と声をかけると扉が開き、恰幅の良い初老の男性が入ってきた。スーツを着込んで、口ひげを生やし、いかにも威厳のある博物館館長と言った体である。ラードでべったり撫でつけた量の少ない髪の毛が、窓から入り込む陽光でてらてら輝いていたのに対し、彼の顔色は優れなかった。
 客人はナイトレイを見るや、口を開きながら大股に歩み寄ろうとしたのだが、その隣に僕の姿も見とめて、困惑した表情になった。
「ワイズマンさん、一時の約束でしたが随分早くいらっしゃいましたね。カナダでは約束の四十分前に来る習慣が?」
 ワイズマン氏はナイトレイの言葉にバツの悪そうな顔を見せたが、視線はちらちらと僕を伺っていた。
「いや申し訳ない、少しでも早く――仕事の成果を見せていただきたくて……失礼ですが、お隣の方は?」
「今回、私と一緒に仕事をしてくれたローガンです。彼の事は私と同じくらい信用して下さい。彼は私の、パートナーですから」
 にっこり笑ったナイトレイの言葉に妙な含みを感じたが、依頼人にはそれが伝わらなかった様で安心した。ナイトレイに一睨みくれてやるも、彼は人のいい笑顔を浮かべるだけである。まったく、この男は……。
 ワイズマンはようやく安心したのか肩の力を抜き、ナイトレイに勧められた椅子に座るや否や身を乗り出してきた。
「それで、取り返してくださったんですよね。見せてください。傷なんかついてないでしょうね?」
 ナイトレイは例のシガレットケースを取り出して、ワイズマンへと渡してやった。
「奴らも丁寧に扱っていたようで、新しく傷がついたなんて事はないと思いますよ。どうです? 何か気が付いた点でも?」
 ワイズマンはソーセージの様な指で慎重にネックレスを取り出して矯めつ眇めつし、やがて満足そうに息を吐き出すと、その顔に生気を取り戻した。
「ああ、これです。間違いなく依頼したラスプーチンのネックレスです。盗まれた時から少しも変わりありません。さすがは『失せもの探し屋』ウィリアム・ナイトレイさん! ぜひ、一部始終を話して聞かせてください」
 依頼人の要望に応え、ナイトレイは昨晩繰り広げられた攻防戦を話して聞かせた。話し終わる頃にはワイズマンはすっかり打ちのめされてしまい、あわや命を落としかけたと話した時には、彼の額にじわりと汗さえ浮かんだのだった。
「なんと申し上げてよいやら、そんなに恐ろしい事になってしまったとは……」
「今度は貴方にお話をして頂きたい」ナイトレイの目が光って、ワイズマンを腹のうちまで観察していた。「確かにそのネックレスは価値あるものですが、人を殺してまで奪おうとする恐ろしい影がちらつく程とは思えない。我々を狙ってきた連中が一体誰なのか、心当たりがあるんじゃないですか?」
 ワイズマンの瞳は、神の助けを求める様に十字架へと注がれていたが、やがて取り出したハンカチで汗を拭って、口を開いた。
「……この事は他言無用でお願いします」
「私も、ローガンも、勿論そうしましょう」
「ではお話させて頂きます。このネックレスは元々、とある団体の所有物でした。その団体と言うのがおかしな連中でして、ラスプーチンを神の様に崇めている輩です。ラスプーチンのオカルト人気が高いと言うのは理解していたつもりでしたが、いや、あいつらの熱心な事と言ったら、まるでカルト教団だ。
 熱狂的な集団なだけあって、彼らが集めている品物は本物ばかりでした。しかし所詮は変人の集まり、歴史的に価値のあるそれらを独り占めし、あまつさえ妙な儀式に使用したりしてどんどん駄目にしていくのです。奴ら、ラスプーチンが着ていた寝間着を苦心して手に入れたと思ったら、その日のうちに油をぶっかけたんですよ、信じられますか! このままでは、せっかくの品々が無駄にこの世から消えていってしまうと思った私は、ニューヨークで彼らと話し合いの場を設け、少なからぬものを払い、このネックレスを買い取ったのです。私は博物館をやっておりますから、保存するにも完璧な環境ですし、皆様へ知識の貢献もできる。こんな素晴らしいことはないじゃないですか。埃や雨風に晒され、最後は燃やされるか砕かれるかするよりよっぽど良い!」
「なるほど、カルト教団ね」
 興奮し始めるワイズマンを宥める様にナイトレイが相槌を打った。
「しかし、貴方に落ち度は無いように思えますが。連中は貴方に売ったのでしょう?」
 途端にワイズマンはぐっと息を詰めて視線をキョロキョロさせ、それから一、二度呻いた後に小さな声でこう切り出した。
「その……話し合いの場で、相手にかなり酒を飲ませたんです」
 依頼人の言葉を聞くや、ナイトレイはたまらず噴き出し、口端を釣り上げて人の悪いニヤつき顔になった。
「そいつは良くないですよ、ワイズマンさん! 非常に良くない!」
「分かっています! でも、何せおかしな相手ですからマトモに取り合ってくれないんです。でもね、前後不覚になるまで泥酔させた訳じゃありませんし、最終的に契約書にサインしたのは向こうです。そりゃ、アルコールの力を借りはしましたが、同意を得て、こちらは金まで払っている以上、このネックレスはもう私の――いえ、人々の財産なのです」
「しかし、先方はそう思っちゃいないみたいだ」
 ワイズマンは再び黙り込み、困り果てた様子で項垂れていた。
 なるほど、相手が熱狂的なカルト教団となれば、我々に発砲してきたのも納得ができるというものだ。依頼人が正規の手段でネックレスを手に入れたのだと主張しても、向こうの言い分は、騙されて宝物が奪われた、と言ったところだろう。神だかラスプーチンだかの名のもとに、犯罪者へ裁きを下そうとしているのだから、あんな過激な逃走劇が昨晩繰り広げられた訳だ。
「それで、これからどうするつもりです?」
「どう、と言いますと?」
「カルト教団に喧嘩をふっかけたのは愚かな事です。私も依頼でそう言った信者に会う機会がありましたが、連中はこちらの考えにも及ばない行動に出ます。危険で、残忍で、非人道的な行動にね。彼らがどこまで執念深いかは知りませんが、下手をしたら貴方はこの先一生、命の危機を感じながら生きなければならないのです」
 だんだんとナイトレイの声のトーンが落ちるにつれて、部屋の空気もどんよりとしてきた。ワイズマンは、初めて依頼をしに訪れた時、ここまでの覚悟を持ってきていたのだろうか。彼は顔に汗を浮かべ、口元をきゅっと一文字に結んで眉間に深く皺を刻んでいた。
「まあ、もう、私が首を突っ込む話じゃありませんがね」と、ナイトレイは肩を竦めて話を終えた。
 ワイズマンは何も言わずに座り込んだまま動かなかったが、やがてそれをケースにしまいこむと腰を上げた。「とにかく、今回は有難うございました。謝礼はご指定の口座に」
 ナイトレイは立ち上がりもせず、観察する様な眼差しで帰っていく依頼人を眺めていた。
「また盗まれたらお越しください、貴方の命が残っていればですけど。ごきげんよう、ワイズマンさん」
 辛辣なナイトレイの一言に、ワイズマンはこちらが一瞬ドキリとする程憎々しげな一瞥をくれてから、そそくさと出て行った。
 咎めるようにナイトレイの方を見れば、彼はお菓子を口に放りこみながら、天井を眺めていた。何かを考えている様だが、すぐに飽きたのか視線をそらす。「何かあるんだよ、あれはね」そういう割に、気のない口調だ。
「態度でわかる。昨日の事を話している時に顔色が悪くなったのを君も見たろう? あれは、我々が恐ろしい目に遭ったからではなく、それが今後自分に降りかかるだろうと予想されたからだ。ネックレスを手に入れた経緯だって、どこまで本当か分かったものじゃない。とにかく彼は恨みを買っている自覚があるんだ。命の危機にまで発展するとは思ってなかった様だけどね」
「それで、どうするんだ?」
「どうもしないさ。私の仕事は終わったんだよ、後の事は知るもんか。あの男が悪人だろうが善人だろうが、興味ないね」
 彼の興味は本当に失せてしまって、すぐに目の前のお菓子の虜となってしまった。ナイトレイはこれで中々の人嫌いであるから、元から他者への関心も薄いのである。
 それから三十分程を、我々は昼食としてチーズとカロリーたっぷりな冷凍ピザ三枚に費やし(僕が一枚、ナイトレイが二枚だ)、僕もナイトレイも本業へと戻ることになった。
 『失せもの探し屋』は彼の副業兼趣味であり、本来の勤め先は、驚くなかれ、かのハーヴァード大学である。民俗学や考古学の豊富な知識を買われて、二十八歳と言う若さで教授の椅子に納まっている。アメリカ国内はもとより、イギリス、スイス、カナダと諸外国からも授業のオファーが来る程で、今でもオックスフォード大学からは、三か月に一回は手紙が届くのを僕は見ている。
 とはいってもウィリアム・ナイトレイ教授は素行不良で悪名高い。学校へ行くのだろうが、きちんと仕事をするかは甚だ疑問だ。
 身形だけはきちんとスーツを着て、気に入りのフェドラ帽を被ったナイトレイが行ってしまうと、僕も家を出た。我が相棒のご立派な肩書の前では霞んでしまうものの、僕だって店を一つ切り盛りするオーナーだ。従業員は他に居ないから、威張れる訳ではないのだけれど。
 その店と言うのが、我が家から歩いて二十分ほどの場所にあるアンティークショップである。店名を「物知り翁」、遺産として親から継いだものだが、この手の店が繁盛するはずもなく、生活に困らない程度の賃金を得るだけで半分趣味のような店である。
 店のデザインは周りの古き良き町並みを壊さないように作られており、母が自ら設計したものだ。僕から言わせると、表から大きな窓ガラス越しに店内を覗いた時、映画のセットかと思う程気合の入ったクラシックな店内が、逆に客足を遠のかせている気がしてならない。
 木立のように聳え並ぶ箪笥や本棚の古家具の奥に、樫で出来た長方形のカウンターがあり、接客は基本的にここで行われる。開店してから二時間、ここの椅子に座ったのは四人だった。少ないとは思うが、いつもの事だ。骨董品の売り上げだけでは流石に無理があるので、時計から人形に至るまで様々な修理を請け負っているが、最近ではこちらがメインになりつつある――現に三年前から、看板に修理受け付けの旨を大きな字で付け足した。
 骨董品に囲まれるのは子供の頃から好きで、一人黙々と作業に没頭していると心が落ちついた。歴史をその内に潜ませた品々は、それぞれ違った息遣いで僕に語りかけてくる。耳を澄ませば彼らが経験した色々な話が聞こえて、店内はいつも、静寂と共に独特の賑やかさが満ちているのだった。
 来客のドアベルに気が付いてハッと顔を上げると、脇にあったイギリス製の置時計の針は四時を回ったところだった。スタンドルーペ越しに腕時計の細かい修理をしていたせいで目が痛み、ぎゅっと閉じたり開いたりして緩和させようと努めながら、暖色系のライトに照らされた店内を見やる。
 客は一人の青年だった。白い肌に黒髪のコントラストが目をひく美男子だ。パッと見、二十代前半と言ったところだが、その横顔には年相応の生意気さは見受けられず、思慮深さと落ち着きが覗いて、思わず話しかけるのを戸惑うほどだった。そして彼は足に問題がある様で、右手にT字杖を持ち、ぎこちなく歩いていたのだった。
 青年は、杖を突くコツコツ言う木音と一緒にゆっくりと歩きながら、感心したように店内を見回していた。
「……何かお探しで?」
 努めて愛想よく声をかけると、青年はこちらに向き直り、親しみに満ちた笑顔を向けた。
「すみません、お尋ねしたいのですが」
 声色もしゃべり方も非常に気持ちがいい。
「事務所の扉にあったプレートを見て来ました。ウィリアム・ナイトレイさんはいらっしゃいますか?」
 彼が店の客ではないと分かり、正直僕はがっかりした。
 僕らの家は、ナイトレイが『失せもの探し屋』の事務所として使っている。なので二人とも出かけてしまう際は、この店の住所と電話番号と「現在留守にしています。用件がある方はお電話を頂くか、こちらまでお越しください」と書かれたプレートをひっかけておくのだ。こうして店にナイトレイの客が来る事も少なくない。
「申し訳ないですが、彼は今仕事中です。よろしければ僕がお話を伺いましょう」
「今日はお戻りにならないので?」
「いえ、そんな事は。もうしばらくすれば戻ると思いますよ」
「ではその時、彼に直接話したいと思います。どうか気を悪くしないでください、事が事ですので、本人に僕の口から直接お話ししたいんです。ところで、貴方は?」
 彼があまりにも申し訳なさそうに話すので、僕は気を悪くするどころかその謙虚さに目を丸くした。
「ああ、失礼、僕はエドワード・ローガンです。彼の相棒と思ってください」
 本心を言うなら、相棒と言うより強制的に事件に巻き込まれる被害者と言いたいけれど。僕が握手を求めて良いものか迷っていると、それを察したのか彼は白い手を差し出して、強い力でがっちりと握手をしてくれた。
「アイザック・バースです。よろしく」
「バースさん。そこに座ってください。何か飲み物でも……」
「いえいえ、良いんです!」
 バース青年は微笑んで手を振った。
「後で改めて事務所に伺わせていただきます」
「でも、それほど待たせないと思いますよ」
「お気遣い有難うございます。ですが貴方のお仕事の邪魔をする訳にもいきませんし、これで一旦帰ります……あれ、雨だ」
 彼の声につられて外を見れば、パラパラと降り出した雨に、道行く人々が小走りを余儀なくされているのが見えた。
「ついてないな」
「タクシーを呼びましょうか?」
「平気です、どうせこんな小雨じゃすぐ止みますよ。じゃあローガンさん、また後で」
 彼の予想ははずれた。それから三十分しても雨は止むどころか威力を強め、初夏の町並みを灰色に塗りつぶしている。人通りの少なくなった表を見て、今日の客はこれ以上見込めないと諦めると、店じまいの支度を手早くすませて、本日の営業は終了とした。
 店に常備してある傘を持って湿った空気の中に立つと、不意にナイトレイが傘を持っていない事に思い至った。携帯には何の連絡もないが、そろそろ帰る時間のはずだ。
 ……傘ぐらい学校にあるだろう。無かったとしても店で買えるし、最悪、嵐でもないのだから濡れながら帰ってこられる。気にしなくて良いだろう――そう思いながら置き傘をもう一本持って地下鉄に乗り込み、気が付くと僕はチャールズ川を越えてケンブリッジのハーヴァード大学までやって来ていた。
 ああそうさ。こうやってナイトレイは調子にのっていくんだ。まったく、僕はどうしてこう、あの猫を甘やかしてしまうのだろう。
 雨に打たれるジョン・ハーヴァードの座像を横目に、目指す校舎に向かって早足にハーヴァード・ヤードを抜けていく。青々と茂る芝生や木々は綺麗に手入れがされており、六月の雨にその身を震わせている。普段なら学生で賑わうここの庭も、灰色の雲に覆われた雨の夕暮れともなると、人っ子一人見当たらなかった。
 彼に与えられた研究室は、広さはそれほどないものの快適な空間……らしい。彼にとっては。僕からするとあまりにも雑多な室内は、「汚い」の形容詞以つけようがない。
 大きなデスクの上には、パソコンと一緒に本、書類、スタンドライト、ペットボトルにお菓子、ファイルが常備されており、これだけでも巨大デスクの三分の二を占拠しているというのに、日によってこれに色々な物が加わるものだから(ぬいぐるみ、殺虫剤、食器類等本当に取り留めもない物)、僕は机の木目をろくに拝んだことがない。恐らく、ナイトレイ本人もそうだろう。
 室内に他にあるのは、専門書が詰まった本棚が後ろの壁に二つに、彼が発掘したらしい出土品や、巡り巡って彼の物になった歴史的資料の数々が飾られた棚が左右の壁に二つ、応接用の机とソファに、なんだかよく分からない物がたっぷり乗ったラックが三つである。更に、ゴミ、段ボール箱が部屋中に夜空の星よろしく散らばっていて、酷い時は足の踏み場もなくなるのだった。ナイトレイ自身の部屋も似た様なものだが、神聖な職場までこうだと最早呆れて何も言えない。
「ナイトレイ、僕だ、ローガンだ。入るぞ」
 ノックと共に声をかけてから扉を開ける。返答はなかったが、扉は開いていたので気にせず中に首を突っ込んだ。
 ナイトレイはやっぱり汚い室内に居て、デスクに向かっていた。――膝に男子生徒を乗っけて。
「先生、全然学校に来ないんだもん」男子生徒の甘い声が聞こえる。彼の顔はナイトレイの顔にひっつく寸前だ。「先生に会えないの、さびしいんですよ」
「そうは言っても、私も他に仕事があるからね……あれ、ローガンじゃないか」
 開いた扉に気がついたナイトレイが、片手をあげて僕の方を見た。……もう片方の手は、ポルノ男優もかくやと思わせる手つきで男子生徒の尻を掴んでいる。否、揉んでいる。否、揉みしだいている。
「あれえ、邪魔が入っちゃった」
 僕が動けないでいると、男子生徒が残念そうに声をあげて身を起こし、ナイトレイから離れた。顔立ちは可愛らしく、ついついちょっかいを出したくなるタイプではある。彼は乱れたシャツを直しながら、机の上の紙を一枚手に取ると、それをひらひらさせながら僕の方へ……扉の方へ歩いてきた。
「残念、続きはまた今度。じゃあナイトレイ先生、問題もらっていきますね」
「ああ、勉強もしっかりしなさいよ」
 ナイトレイは椅子に座ったまま、肌蹴たシャツを直すこともなくふんぞり返っている。
「こんな時ばっかり教師らしい事言っちゃって。じゃあ次の授業で」
 男子生徒は僕に一瞥をくれてから、気取った様子で部屋から出て行った。その手には確かに、何やら小難しい問題の書かれた紙が握られていて、今の二人の会話も合わせると、ナイトレイが生徒にテストの問題を流出させた事が分かってしまった。信じられない!
「テストの問題を教えたな?」
 ナイトレイは机の上のカラフルな熊グミを三つ摘まんで口に放り込み、肩を竦めた。
「賄賂は歓迎してる」
「お前な、あんな子供から金を巻き上げるなんてどうかしてるぞ!」
「流石の私でも、そこまで下劣な事はしないよ。私にだってプライドがある、中々高いやつがね。それに、誰にでも教えてる訳じゃないぞ。言わばこれはね、ローガン、報酬なんだよ。つまり――ちょっとした肉体労働への」
「ナイトレイッ!」
「ああっ、左耳の近くで怒鳴るな!」ナイトレイは顔を庇う様に両手をあげて、怒鳴る僕を遠ざけようとした。「こっちまで聞こえなくなったら、どうしてくれるんだ!」
 ナイトレイは右耳が聞こえない。以前、危ない仕事の折に怪我をして聞こえなくなったのだそうだ。これを出されると引き下がらざるを得ないのだから困ったものだ。
 これみよがしに左耳に指を突っ込んでほじった後、ナイトレイは「それで、何をしに来たんだ」と改めて聞いてきた。僕は傘を彼に放り投げた。
「傘を届けに来てやったんだよ。お邪魔だったみたいだがな」
 嫌味をぶつけても、やっぱり彼には通用しなかった。それどころか、僕の言葉に目を丸くし、隠しきれない喜びがその口端を釣り上げているのが見て取れる。
「わざわざ迎えに来てくれたのか? 店は?」
「元々繁盛してる訳でもないし、雨だったから早めに閉めたよ」
「ローガン……」感極まった、と言うと少々大げさだが、とにかくナイトレイの声音は上ずっていた。そして甘える様に両手を突き出して無言で僕を誘ってきた。ほらな、やっぱり調子にのった。
 さっさと帰るべく、ここは彼の好きな様にしてやろうと僕も腕を伸ばす。しかし引っ張り上げて立たせた瞬間、ナイトレイはその勢いに任せて僕を押し、ぐちゃぐちゃのデスクの上に座らせた。半分ほど中身の入ったペットボトルが倒れて机の上を転がり、重要だろう書類が床に落下していった。
「こら、何する……おい!」
 ナイトレイは僕の前で跪くと、躊躇なく足の間に割って入り、股間に顔を近づけてきたではないか。彼は驚く僕に目を細めて笑った。
「報酬、だよ。ローガン、報酬」スラックス越しに鼻を埋められれば、悲しいかな反応しない訳にはいかない。息を吹き込まれると布を通りぬけ、熱さがダイレクトに伝わってきた。たまらず腰が引けてしまう。
「そんなものが欲しくて迎えに来たんじゃない、ナイトレイ、離れろ!」
「君は優しいんだよ」
 僅かに硬さを持ち始め、下着の中でピクリと震えるペニスに、布越しとはいえ頬ずりをする彼の淫蕩たる表情ときたら。まるで猫にマタタビ状態だ。
「なんだかんだ言って、心配したり大切にしたりしてくれる。君は認めたがらないだろうが、そんな何気ない心遣いに、私はいちいち愛を感じずにはいられないんだ」うっとりした表情でナイトレイはジッパーに手をかけた。「そして、愛を感じるたびに嬉しくて幸せで、君と繋がりたいと思うんだよ」
「ロマンチックに言ったって、一発ヤりたくて我慢できない、と意味は一緒だ」
 ささやかな反抗に汚い言葉を使うと、ナイトレイは何とも言えない微笑を浮かべた後、立ち上がって唇へとキスをしてきた。
 時々、ナイトレイはこんな顔を向ける。内心を覗こうとこの時ばかりは茶化すのをやめるのだが、結局、ただでさえ人とは考え方が異なる男の秘めたる思い等理解できるはずがないのだった。
 ……なんて事を考える間に、ナイトレイは再び膝を床につき、僕のスラックスの前を寛げているではないか。その手慣れた様子が妙にカチンとくる。
「おい、ここは学校だぞ!」
「そうだね」
 そう言いつつ、彼は片手で僕のペニスを引っ張り出した。ああ、こんな場所で下半身を曝してるなんて、正気の沙汰とは思えない。
「それにお前の職場だ!」
「そうだね」
 軽く頷いた直後、ナイトレイは何の躊躇もなく手にしたそれを口に含んでしまった。
 こうなると無理だ。情けないのは百も承知だが、男性諸君の中で彼の毒牙にかかって冷静でいられる者があるとすれば、同性愛と言う文字を見ただけでも盛大に吐く人物でない限り無理な話なのである。彼は、どこでそんな経験を積んできたのか、はたまた天賦の才なのかは知らないが、とにかく男を喜ばす天才だ。魔性。まさにこの言葉がぴったりだ。ストレートの男でさえ、彼の前では抗えなくなるのだから。
「ん、ン……」
 ナイトレイはいつも、極上の酒でも飲むように口淫を堪能する。くぐもった声を漏らしながら、絶対に美味しい訳なんかないのに、丹念に舌で舐めあげ、先端から滲み出るものを吸い上げた。
 彼に煽られ、その気になるのにさして時間はかからなかった。いつもの通り結局流された僕は(我ながら浅ましいけれど)すっかりやる気になっており、一切の道徳や常識を脇に押しやって、ひたすら彼の舌使いや熱く濡れた口内を楽しむ事にした。
「……とんだ淫行教師だな、ナイトレイ」
 突き抜ける様な刺激に息が詰まりそうになるのを我慢して、熱心なナイトレイの頭に手を置き、上を向かせた。彼の前髪をかき上げて、こちらを見上げる表情を覗きこむと、目元は赤く色づき、根元までものを咥えこんでいる唇は、唾液で濡れていた。
 こんな表情をされて、突き放せるほうがどうかしてる。
 気が付けば、それは彼の口内を圧迫する程育っていて、僕の呼吸も乱れ始めていた。反応を見せると、ナイトレイは嬉しそうな顔をする。そうして更に熱中するものだから、途中で僕が止めないと終わりがないのである。
「……ナイトレイ、もうやめろ」
 ナイトレイは素直に口から猛ったペニスを離して、名残惜しげに先端にキスを落としてから立ち上がった。
 すぐに再びキスをしかけ、今度はより深く、首筋に腕まで絡めてねだってくる。熱い舌を迎えながら、両手でナイトレイのスラックスの前を寛げ、右手を差し入れた。
「ん……その気になってくれたかい?」
「声は出すなよ」
「じゃあお手柔らかに頼むよ」
 ナイトレイのキス攻撃を受けながら、下着の中へと滑り込ませた手は、膨らみを撫でてその合間へと下ろしていく。彼の呼吸が乱れ、微かに声が零れだした。
 入口へ中指が触れた途端、そこは期待する様にきゅうと収縮し、すぐにでも僕の指を飲み込もうとしてきた。具合を見る様に指の腹でそこを押し、その弾力とひくつく動きを堪能する。ともすればこんな愛撫なしにさっさと突っ込んでやりたくなるのだが、そこまで理性を失ってはまずい。ここは学校なのだ。
「あ、は…っ! うぅ……ん」
 指を立ててゆっくり埋めていくと、ナイトレイは掠れた声を漏らし、背中を反らせた。
 流石の彼も、それ以上キスを続けらない。ぎゅっと抱きついてくると、ほとんど僕の膝の上に乗り上げ、片膝をはしたなくも机の上について尻を突き出し、随分と協力的な体勢になった。それに応えて中指を根元まで埋め込むと、きつい締め付けに襲われて指がしびれそうだった。
 中をひっかく様に指を動かせば、ナイトレイは面白い程僕の思い通りに感じ入る。どこをどうすればどうなるか、自分の体以上に僕は彼の体を熟知していた。そうして隙を見つけては指を増やし、三本の指を最終的に飲み込む頃には、彼は泣きそうな顔になっていた。
「ハァ…っ……ローガン、もう……」
 熱にうかされた声でナイトレイは訴え、自ら腰を引いて指を引き抜き、僕の隣へとずれて机に手をついた。誘う様に腰を突き出し、恥部を曝け出したままナイトレイがこちらを振り返っている。指で弄ったせいで赤く色づいた入口はひくりと揺れて僕を呼び、まだまだ弄り倒して泣かせたいと言う加虐心に油を注いだ。
 細められた彼の灰色の瞳に吸い寄せられる様に、痩せ気味な体に覆いかぶさった。項に唇を寄せながらゆっくりと挿入していくと、押し返すような強い抵抗が心地良い。しかしそれも最初だけの事で、根元まですっかり捻じ込むと、早くもナイトレイの中は僕に絡みつき、奥へ急かすように轟くのだった。
「うぁっア、あ……!」
 苦しげに、けれども感極まった声をあげながら、ナイトレイの片手が机の上にあった紙を握りしめた。重要な書類だったのかもしれない。しかし僕だってそんな事にいちいち気を遣ってやる余裕はなかった。
「は、あっく……んっんぁ!」
「…っこら、ナイトレイ、声がでかいっ」
「っ君が、出させてるんだ……!」
 自分から誘っておいて、その言い草はなんだ。口には出さず、代わりにぐっと腰を奥まで突き入れると、彼は喉を反らせてまた大きな声を出した。
 雨は未だ続き、この部屋の周りも人気はない。とは言え、いつ誰が来るかも分からない場所である事に変わりはなく、ただでさえ最中は声の大きいナイトレイを好きに喘がせておく訳にはいかない。
「ッハァ、あ、ローガン……ローガン……!」
 うわ言の様に名前を呼ばれ、知らずに腰の動きが速くなる。締め付けはきついのに中は適度な弾力で柔らかくうねり、その肉壁を無理やり押し分けて侵入する度に、二人へたまらない快感を与えてくれた。
「あっあ、っく、んうぁ……ンッん…!」
 右手の指をナイトレイの口に突っ込むと、間の抜けた声を上げた後、舌を絡めてそれに吸い付いてきた。舐めたり吸ったり噛んだりと余裕のないナイトレイの心情が手に取るように分かる。
 彼の舌に指でちょっかいを出しながら、気が付けばナイトレイを机に押し付ける様に組み伏せていて、はたから見たら僕はレイプ魔だ。余裕がなくなってきたせいで律動も激しくなり、その度にデスクがガタガタと不満げに音を立てて揺れる。スタンドライトが危なっかしく首を振って、今にも床に落ちてしまいそうだった。
「うぁあっ…う、ンん……はぁ、ア!」
 指を口に突っ込んでも、これ以上声を殺せるとは思えない。空いた手を下に持っていけば、今にも達してしまいそうなナイトレイの熱が手に触れた。既に先走りが溢れ、きゅっと握りこむと更に先端からとろりと零れてくる。と同時に、ナイトレイも高い声をあげて僕の指を噛んだ。
「……もうイきそうか?」
「ン、ンッ!」必死にナイトレイは頷く。
「いつもより早いな。学校でセックスするのが興奮するのか?」
 意地悪くそう言って奥まで突き上げると、ナイトレイは許しを請う様に上ずった呻き声を漏らした。
「うぅ、んーっ……!」
「辛そうだな、自分から誘ってきたくせに」
「ハアっ、く、あっあ……!」
「声を出すなと言ったろう。さっきみたいに、お前の可愛い生徒がいつ入ってくるか分からないんだぞ。それとも見られたいのか?」
 ナイトレイは呻きながら首を横に振ったが、僕のこう言った台詞を聞くだけで、中をきつく締め上げるのだった。まったく、この発情猫め。それに付き合う……それも、喜んで付き合う僕も大概だけれど。
 まだ苛め足りないが、これ以上ここで行為に没頭するわけにもいかず、一旦腰を引いてナイトレイから離れた。その途端に、絶望的な顔で振り返ってくる彼の可愛らしい事と言ったら。いつもこれ位従順なら良いのに。
「ローガン……!」
「物欲しそうな顔するなよ、淫乱」
 ナイトレイを起こし、こちらに向かせて机に座らせる。抱き合うと言うよりは、僕が半ばナイトレイを抱えるような形になり、キスで口を塞いでから再び挿入した。
 ナイトレイの声はくぐもったそれに代わり、キスのせいで呼吸がし辛くなっている。しかしそんな事考えてやる余裕はもう無くて、声を抑えさせた分、欲望のままにナイトレイを突き上げた。
「んんっん、う、ンー…!」
「ンっ……」たまらず僕も声が零れて、限界が近いのを知った。
 動くのが難しい体勢のナイトレイだが、この状態でも出来る限り腰を揺らして快感を得ようとしている。それに応えるために奥へ奥へと侵入しては、また入口まで引き抜く力強い動きを繰り返した。
「はあっ、あ!」
 一度口を離すと、長いこと水に潜った後の様に、お互い酸素を求めて息を吸い込む。同時に彼の口からは甘い悲鳴が漏れたからドキリとしたが、快感に打ちのめされた脳みそはろくに機能せず、ここがどこかとか、どんな危険があるかとか言う考えは一切かなぐり捨てて、只管お互いに絶頂だけを求めていた。
「っそこ、アっ……ローガン、もう……!」
「ああっ、分かってる」
「んんンっ……もっと突いて、ローガンっ。ハア、は、あっあっん、イイ……イく……!」
 きつく抱き合った瞬間、最後の理性を働かせてナイトレイの唇に噛みつく様に口付け、二人同時に欲望を吐き出した。頭の中に火花が散るな感覚は、気を抜けばそのまま意識が遠のいてしまいそうな程強烈だ。
 もうどうでも良い。ずっと抱き合っていられればそれで良い。そう本気で思えてしまうのが恐ろしいところである。肌をピリピリと走る快楽の信号がゆっくり消えていき、同時に頭の中の熱が引いて思考がクリアになるのに、一分もの時間を要した。この間僕らは一言も喋らず、じっと抱き合って呼吸を整え、思い出したかのように汗ばむこめかみや首筋に唇を寄せていた。
「はー……」ナイトレイの大きなため息を合図に、二人とものろのろと身を起こした。その拍子に硬さを失ったペニスがずるりと引き抜かれ、その感覚にナイトレイがまた上ずった声をあげる。再びスイッチでも入ったら大変なので、さっさと後始末に取り掛かった。
「ああ、服がベトベトだ……」ティッシュで注意を払いながら白濁を拭ってやると、ナイトレイがぽつりと呟いた。さいぜんの情欲に憑りつかれた瞳は、いつもの眠たげな灰色に戻っていた。
「自業自得だろ」
 事後独特の気だるげな色香を纏う彼の姿が、どうにも収まりかけていた熱を煽る。それに気づいていないふりをするのに毎回苦労するのだが、今日は思ったよりナイトレイが速く身支度を済ませてくれたおかげで、長く苦しまずに済んだ。
「よし、帰るぞ、ナイトレイ」
「ああ、さっさと帰ろう」帽子を被りながらナイトレイは頷いた。「人間の三大欲求のうち、とりあえず性欲は満たされた。次は食欲だよ、ローガン。まったく、夕飯前に運動なんかするもんじゃないね、空腹が過ぎて胃がキリキリする」
 帰宅して手分けして夕食を作り、食卓に落ち着いたのは八時になろうと言う頃だった。ぷりぷりの海老とトマトクリームソースのリングイネは、余ったサーモンを突っ込んで鮮やかなピンク色。ボウルいっぱいのシーザーサラダには、たっぷりクルトンとパルメザンチーズを散らし、オーブンで軽くあぶった白パンから香ばしい独特のにおいが香った。
 実に食欲をそそるメニューではあるが、食卓の上にこれらがどっさり乗っていると、流石に目だけで満足しそうになる。と言うか、今でこそ気にせず食べられるが、実際ナイトレイと同居を始めてすぐの頃は、このてんこもりな食卓を見ただけで食欲が引っこんだものだった。
 ナイトレイは大食漢だ。この細身にどうしてそれだけ入るのか疑問だが、彼の食べっぷりたるや、掃除機どころかバキュームカーもかくやと言う勢いで、食事はどんなに少なくても二人前、お菓子は常に携帯し、気が付くと口に何か入れている。同居の際、生活費が折半になったのは大変助かったが、食費が四倍に膨れ上がったのには眩暈がした。(勿論、ナイトレイの方が多く払っているが)
「そう言えば、今日お客が来たんだ」
 食事の最中、突然その事を思い出して僕は時計を見やった。夕方の好青年の話をナイトレイに話して聞かせると、彼は肩を竦めた。
「忘れてるんじゃないのか。なんにせよ、来ないのならその程度と言う事だよ。気にする事はないさ」
 結局ナイトレイの言う通りだったらしい。四人前はあった夕食が無くなり、食後に、バニラアイスが見えなくなる程チョコレートソースをかけ、クッキーを砕いてまぶしたサンデーも平らげ、ようやくナイトレイが満腹を宣言しても、青年はやって来なかった。
 夜はゆったりと更けていき、日付も変わろうと言う時分、僕らは寝室へ引き上げる事にした。あの青年が探し出して欲しかった物は、見つかったのか、あるいは見つける必要がなくなったのか。とにかく、青年が現れなかったと言う事実が、彼にとって良い意味である事を願うばかりだ。

 夢うつつに、妙な気配を感じた気がした。あるいは物音だったかもしれない。ふっと目が覚め、枕元の時計が目に入って時刻を知った。二時四十一分。妙な時間に起きたものだと寝ぼけた頭で考えながら、寝なおそうと目をつむった、その瞬間だった。
 微かに扉の開く音がしたかと思うと、いきなり男の手が僕の口を封じ、襟首を掴んでベッドから引きずりおろした。騒ぐ事もかなわず、何が起きているのか見極めようとしたが、床に押しつけられた僕の目に飛び込んできた光景は、あまりにシンプルなものだった。即ち、侵入者とその手に握られた銃だ。
「騒いだら殺すぞ」男は訛りの強い口調で唸った。「良いな、少しでも声出したらブっ殺してやる。大人しくしてりゃ何もしない、分かったか!」
 僕が頷くと、男は口を覆っていた手を離し、銃口をぴったりと僕の頭に突き付けたまま、隣のリビングへと引きずって行った。スタンドライトだけがひっそりと灯されたリビングには他に三人の男と、ナイトレイが居た。
 ナイトレイはタンクトップにスウェットのズボンと言う寝間着姿で、不貞腐れた様にあぐらをかいて床に座っていた。男のうち一人が彼のこめかみに銃を向け、もう一人は彼の髪を鷲掴んで動きを封じている。最後の男は一際体格が良く、ボス然と腕組みをしてナイトレイを見下ろしていた。
「ローガン、怪我は?」
 僕に気が付いたナイトレイが早口に言うと、ぐっと髪の毛を引っ張られて痛そうに呻き声をあげた。思わず駆け出しそうになったのだが、動こうとするそぶりを見せた途端、男が僕を突き飛ばすようにして座らせ、改めて銃口を向けて来た。
 僕らは隣同士で座らされたまま、暫く男たちを睨みつけていた。彼らは銃口で睨み返してくる。勿体ぶった沈黙を破ったのは、例の大柄な男だ。
「ネックレスはどこにある?」
 男の野太い声にハッとした。よく見てみればニューヨークの違法カジノで、ナイトレイが殴り倒した男ではないか。
 なるほど、報復か。この状況を納得したと同時に、無差別な強盗の方がまだ質が良かったと胸中で嘆く。こいつらは昨晩僕たちを撃ってきたのだ、無事でいられると考える方が馬鹿と言うものである。
 そして、その馬鹿は、顔色を失った僕の隣に座っていたのだ。
「ここには無いよ」ナイトレイが悪びれた様子もなく答えた。「こっちも仕事だったんだ。ここは一つ、恨みっこなしといこうじゃないか。とにかくその物騒な物をしまって、人間らしく話し合いで解決しよう」
「お前は自分が何をしでかしたか、分かってないンだ!」途端に男は声を荒げ、大股にナイトレイに近づくとずいっと顔を寄せた。まるで猛獣が獲物に食らいつく気迫だったが、我が猫は涼しい顔のままである。
「いいや、大体把握してるつもりだよ」とナイトレイ。
「分からない事と言えば、何故、体の悪い君たちのリーダーと話をさせないかと言う事だ。彼と話した方が、こんな野蛮な方法に訴えるより、よっぽど早いよ」
 男たちの間に動揺が走り、それを見逃さなかったナイトレイは勝利の笑みを浮かべた。
「どういう意味だ?」大柄な男が唸った。「リーダーは俺だ!」
「考えればすぐ分かるさ。なあ?」
 同意を求める様にナイトレイは僕を見たが、さっぱり分からない僕は顔を顰めて見せた。続いて彼は男たちを見たが、その歪んだ顔に知性が見受けられないと分かるや、肩を落として口を開いた。
「謎と言うピースをきちんとはめ込んでいけば、途中いくら支離滅裂に見えようとも、最後には真実と言う絵が浮かんでくるものさ。最初のピースは、君たちが博物館からネックレスを盗んだ後、そのままロシアへ帰れば良いにもかかわらず、何故かニューヨークに戻った事だ。切迫した状況なのにそうせざるを得なかった理由はただ一つ、そこへ人を残してきたと考える以外ない。彼を迎えにニューヨークへ戻り、結果、我々に捕まったんだ。
 では次のピース、何故彼はニューヨークに残されたか。これは考えるまでもない、彼は健康体でなかっただけの話だ。ネックレスを奪われて悔しいものの、君たちと共に危険な奪還任務について行っては、足を引っ張るばかりで邪魔になる。だから泣く泣くニューヨークに留まった。さあ、これでリーダーの体が悪いと分かった。因みに、この事実によって君たちが少人数で、リーダーが男であると言うのも分かる。体の悪い女性の付添に、同性が居ないと言うのはおかしな話だし、もしここには居ない女性が現在一緒に居るのなら、先にロシアに帰っているはずだ。同じ理由で、人数が多いのであれば、リーダーは誰かに付き添ってもらい、先に帰っているはず。それが不可能と言う事は、君たちはせいぜい二、三人でアメリカに来たんだろう。ローガン、そいつの英語は訛っていたか?」
 唐突に話を振られ、僕は驚いて一瞬思考が停止してしまった。それから先ほどの男の口調を思い出し、ちらと僕に銃を向ける相手を見てから首を縦に振る。
「ああ、訛ってた」
「こっちの二人はアメリカ英語だったから、ロシアから誘き出された哀れな人物は全部で三人と言う事だな。このアメリカ人二人と昨日車で追いかけてきた連中は、雇ったゴロツキだろう。あのカジノは、そう言う連中を見つけるのにもってこいの場所だからな。――それでは最後のピース、リーダーが別にいると確信する理由だが、君がリーダーならば、そもそも体の悪い人間を連れてくる必要なんてなかったからさ。恐らくワイズマンに取材か何かと言われて、アメリカまで来たんだろう。それを受けるために無理をおしてやってきた人物こそ、グループの中心人物でなければならない。君たちはその付添だ――と、まあ、これ位のパズルは完成するもんさ」
 ナイトレイの講義に、全員が閉口した。そう言われると、先ほどまで五里霧中だったのに、まったくその通りとしか思えなくなるのだから不思議なものだ。そして何より、誰も反論しないと言う事実こそが、彼の話を裏付ける証拠なのだった。
 沈黙を破ったのは、扉の向こうから聞こえてくるコツコツと言う規則的な音だった。それを聞きつけるや、男たちはさっと扉の方を見やる。音はゆっくり大きくなり、こちらに近づいてきた。
「――彼の体が悪いと言う話だが」
 ナイトレイは扉を見つめて続けた。
「重い病気ならばアメリカまで渡って来られない。そして、上半身の怪我ならば、いざと言う時でも比較的素早く逃げられるから、ワイズマンを一緒に追ったはず。つまり君たちのリーダーは――」
 コツ、と音が止まり、僕はその音の正体を思い出した。扉がゆっくりと開き、信じられない……否、信じたくない光景に息をのむ。
「――足が悪い人物と言う事になる」
「バースさん!」たまらず、僕は叫ぶよう訪問者の名前を呼んだ。
 部屋へ入ってきたのは、誰あろう昼間の好青年、アイザック・バースだった。出で立ちは昼間のままだったが、薄暗がりに居るせいか、ただでさえ白い顔色が一層青白く見え、亡霊と見間違う程だった。
 彼の杖をつく音が部屋の中に響き、目の前に彼がやって来るまで、誰一人口を開かなかった。
「……貴方は、僕らがどこから来たかも分かってしまうんですね」
 バースは胸に秘める苦悩に顔を歪めながらも、無理に微笑んで呟いた。
「貴方はずいぶん綺麗な英語を話されますが、彼らの酷いロシア訛りを聞いても、彼らの出身国を当てられない者が居たとしたら、片方耳が聞こえない私より耳が悪い事になる」
 バースは笑ったが、男たちは非常にバツが悪そうな顔をした。大柄な男の隣にバースが立つと、なんだか美女と野獣と言う言葉が頭をよぎる。
「思いのほか若くて驚きました」ナイトレイがしげしげとバースを眺めて言った。
「これだけ統率のとれた組織の一番上に、その若さで鎮座ましましているとなると、何か特別なものをお持ちなのでしょう。とは言っても、具体的に貴方がたがどう言うグループであるか、よく分かっていませんがね。とりあえず、我々を解放してくれるところから始めませんか。そうしたら全員に飲み物を用意して、座り心地の良い椅子を勧めますから、お話を伺いましょう。望まれるなら、このローガンがお聞きしたアイザック・バースと言う偽名のままでも構いません」
 言われてみれば、アメリカの名前だ。この青年はちっとも訛っておらず、聞き取りやすい言葉づかいだったので、僕は彼がアメリカ人だと信じて疑わなかった。と言うより、ウィリアム・ナイトレイの様な観察力に長けた人物でもない限り、この素晴らしい青年を疑うなんて事は誰もしなかっただろう。
「イヴァン・ヤコフです」
 アイザック・バース改め、イヴァン・ヤコフは微笑した。
「“神の人を守る会”の代表をしています。貴方に依頼があって伺いました」
 十分もすれば、雇われ襲撃者たちは帰り、残った三人のロシア人にコーヒーを振る舞って椅子に座らせ、すっかりいつものナイトレイの仕事に取り掛かる空間が出来上がった。
 僕もナイトレイもコーヒーを片手に彼らに向き直った。ナイトレイのコーヒーはどっさり砂糖をぶち込み、溢れんばかりにミルクを入れたものだから、その過程を見ていた彼らは顔を顰めていたけれど。
「先ほどは失礼致しました」と、口火を切ったのはヤコフだった。
「貴方がまだネックレスを持っていると思ったんです。返してくれと言葉で言って済むとは思えなかったので、強引ですがああさせて頂きました。勿論、危害を加えるつもりはありませんでしたよ」
「だったら名演技でしたね、殺されるかと思いました」
 僕がちくりと嫌味を言うと、僕を襲った男は軽く眉根を寄せた。この男をアンドレイ・グレヴィッチ、ナイトレイが殴った大柄の男をルスラン・アルスキーと言うそうだ。
「我々としても暴力に訴えたくはないのですが、あのネックレスは何よりも大事な物なのです。取り返すためならなんだってします」
「詳しく聞かせて貰えますか」
 ナイトレイは片手で口元を覆い、集中して話を聞く体勢に入った。彼は集中する時、唇に触れる癖があるのだ。
 ヤコフは拳を握りしめて語り出した。
「まず、我々が何者なのかを説明しましょう。我々はグリゴリー・ラスプーチンについての真実を、世に知らせる事を目的とした集団です。やれロシア帝国を滅ぼしただの、怪しい力で皇帝に取り入っただのと言われていますが、世間に知られている彼のイメージは、どれも偏っていて屈辱的なものばかり。ラスプーチンが本当はどれだけ偉大な人物だったのか、それをきちんと世界に知らせ、彼の失われた名誉を取り戻す事が我々の目的です」
 正直な話、ここまで聞いた時に僕は、この青年がある種の妄想に囚われた、哀れな狂人なのだと思ってしまった。宗教関連の事件でこう言った事例は少なくなく、ナイトレイと共にぞっとした経験も何度かある。己の空想を真実と思い込み、歪んだ正義を振りかざして突き進む彼らを止めるのは至難の業だ。
 ワイズマンの言葉をそっくり信じるつもりはないが、カルト教団と言うのは、あながち間違っていなかったらしい。どうしたものかとナイトレイを見つめたが、彼はじっと探る目つきでヤコフを見据えていた。
「貴方がたは」ナイトレイは言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「ラスプーチンを崇めているのですか?」
「尊敬はしていますが、崇めていると言うとちょっと違います。僕らはキリスト教徒ですから、別にラスプーチンを神と思っている訳ではありません」
「では何故、そこまでラスプーチンに固執するのです? 歴史好きが高じたにしては度がすぎている」
 三人のロシア人はさっと目配せをしあった。一瞬戸惑うような沈黙があったが、ヤコフは思い切った風に僕らを見つめた。
「ラスプーチンは我々の命の恩人なのです」
 僕らの驚いた表情が予想通りだったのだろう、ヤコフは苦笑した。突拍子もない台詞に、思わず目の前の青年をじっくり眺める。そこまで頭のおかしな人物には見えないのだが、彼の脳は修復できないダメージを負っているのかもしれない。
「あまり知られていない事なので、お二人には狂人の戯言に聞こえるかもしれません」ヤコフは言った。「我々は、今から約百十年前にラスプーチンによって命を救われた人々の末裔です。彼は、一九〇四年にポクロフスク村からピーテルへとやって来て、人々の病気を治療して回りました。はたして彼が何をしたのか、本当に不思議な力で病魔を消し去ったのかは分かりません。けれど現に人々は病気が治ったのです。ロシアには僕たちの他に、ラスプーチンのお蔭で助かった人の末裔がたくさん居ます。彼が居なければ、僕たちはここに存在していなかった。だから我々は、命の恩人が恐ろしい策略家で、ロシア中を敵に回した悪党と言う汚名が許せないのです……ここに、証拠があります。合成なんかじゃありませんよ」
 依頼人はそう言って、一枚の恐ろしく古い写真を差し出した。過ぎ去った年月には勝てず、色褪せてインクが滲んでいるものの、保存状態は極めて良い。僕はあまりピンと来なかったのだが、ナイトレイはプレゼントを差し出された子供の様に興奮していた。
「これは凄い! ワイズマンから依頼を受けた時、ラスプーチンについて軽く調べましたが、こんな写真は見つからなかった。これはラスプーチンがセントピーターズバーグに……貴方がたが言うピーテルに来た時の写真ですね。百年以上前の写真にしては、とても保存状態が良い」
 写真に写っていたのは、ベッドに寝ている若い女性とその脇に立つ年配の男性。そして、女性の手を握りしめる黒づくめの男だった。男の黒髪は真ん中らから左右に分けられ、精力の強さを感じさせる大きな鼻から下を、鳥の巣のような長い髭が覆っている。法衣らしい物を身にまとい、目をつむって一心に祈る姿からは威厳が溢れ、いかにも高位な僧を思わせた。この男こそ、ラスプーチンだ。
「ネガも焼き増しもありませんから、取り扱いには相当気を遣っています。その写真は、噂を聞きつけたカメラマンが祈祷中の彼を撮ったもので、本当ならば、時の皇族たちに彼を紹介するために見せられるはずでした。しかしその前に、ニコライ・ニコラエヴィチ大公の妻、アナスタシヤ大公妃に見出されたので写真は必要なくなり、世に出回る事もなく、この女性に写真は贈られました。この、ベッドに寝て、ラスプーチンの祈祷を受けている人物はニーナ・ヤコフ。僕の曾祖母にあたります。そして、ほら、ここ」と言って、ヤコフは写真を指差した。
「あのネックレスだ」
 ナイトレイの声が弾んだ。確かに、ラスプーチンの首からネックレスがかかっており、画質は良くないものの、僕らと彼らとワイズマンとがそれぞれ追い求めていた、件のネックレスにそっくりに見えた。
「……ワイズマンも、この写真を見て、そんな風に喜んだものです」
 ヤコフは項垂れて付け加えた。親指を空に滑らせて、ネックレスについた十字架の幻想を撫でている様に見える。
「祈祷後、曾祖母はすっかり元気になり、父親と共に神を崇めるようにラスプーチンに感謝しました。なにせ、母親は彼女を生むと同時に亡くなり、父娘の二人きりの家族でしたから、その喜び様はご想像つくでしょう。涙ながらに感謝されたラスプーチンは、自分がしていたネックレスを曾祖母に差出しこう言いました。『私は生神女マリヤの啓示により、人々の悲しみを減らすために生きています。貴女の感謝は私にではなく、神に捧げるべきなのです。どうぞ貴女にこれからも、神のご加護がありますよう』――そうして、ネックレスを曾祖母へと贈ったのです。以来、我が家にはこの話と共に、奇跡の証であるネックレスが伝えられてきました。あのネックレスは我が家の宝であり、一族の魂なんです。
 ワイズマンは、ラスプーチンの本当の姿を世間に発表したいと、僕たちに取材を申し込んで来ました。僕は、そんな申し出受けた事もありませんでしたから、すっかり舞い上がって、彼が望むまま写真やネックレスを持ってニューヨークまで来てしまったんです。なんて世間知らずだったのか……!」
「気落ちするものではありませんよ。まだ、取り返しのつかない事だと決まったわけではないのですから」
 落ち着いたナイトレイの声は、ヤコフ青年を慰めると言うよりは、端的に事実を述べているだけと言った風だ。
「ところで、ヤコフさん、貴方はネックレスの正当な所有者なのですから、警察に行けば良かったのでは? これは立派な窃盗です」
「それが、そうでは無いんです」ヤコフはこの話題になると、一層悲しげに顔を歪めた。
「あのネックレスの所有権は、現在ワイズマンに渡っているんです。そう言う契約書を書かされました」
「えっ、まさか本当に酔い潰されて、サインしたんじゃないですよね? ロシア人がヘベレケになるなんて、そんな」
 面白いジョークでも聞いた様にナイトレイが笑い出すと、アルスキーがその巨体を更に大きく怒らせて立ち上がりかけたので、僕とヤコフとで宥めなければならなかった。
「毒を盛られたんです」とヤコフが説明した。
「取材はワイズマンが宿泊していたホテルの部屋で行われました。話の最中に毒の入った酒を出され、口にしてしまったんです」
「三人とも?」
「いいえ、僕しか居ませんでした。ただの取材に二人も引き連れていくのはおかしいと思って、ホテルの前で一旦別れたんです」
「なるほど。裏目に出ましたね」
「その通りです。奴は僕に毒が回り始めると、契約書と解毒薬を持って、これにサインしたら薬をやると言ってきました。最初は抵抗したのですが、体の自由が利かなくなり、死が迫ってきたのが分かると、とうとう僕は負けてしまいました。サインをし、解毒薬を注射され、僕が動ける様になるまでに、あいつは逃げてしまいました」
「イヴァンから電話が来た後、俺たちはすぐにイヴァンを助けて、ネックレスを取り返しにかかったンだ。例のカジノで、金で雇える奴を集めて、仕事はうまいこといった。でも戻ってきたら、あンたらに捕また。余計な事しやがって…!」
 ヤコフの台詞をアルスキーが引き取り、感情的に締めくくった。再びヤコフが宥めるが、猛獣じみたギラつく瞳が我々を威嚇している。
「君の心に隙があったのさ、アルスキー。さっさとチンピラに報酬を渡して、店から立ち去るべきだった。そこに現れた誘惑に、君はネックレスを取り返せた達成感から、首を突っ込んだ訳だ。つまり、誘惑は私で、突っ込んだのは首じゃなく別の物だけど……」
「ナイトレイ!」
「ルスラン!」
 僕とヤコフが同時に叫び、銘々呼んだ人物の顔を見た。僕はナイトレイを叱っただけだが、どうやらヤコフは仲間の失態を詳しく知らなかったらしい。アルスキーの巨体が急に小さく見えた。
 彼らはロシア語で少し言い合った。と言っても、ヤコフが信じられないとばかりにアルスキーを非難して、アルスキーはしょげて低い声で弁解を言うばかり。それを見かねたグレヴィッチが助け船を出している様だ。
 僕はロシア語が分からないが、ナイトレイは語学に通じており、この会話も理解しているのだろう。横目で彼を伺うと、驚いた事に、目を細めてじっと三人を見つめていた。その表情は他者には無愛想にしか見えないだろうが、僕くらい長く付き合っている人間ならば、彼が自らの思考に集中している事が一目で分かった。何かに気が付いたらしい。
「まあまあ」不意にナイトレイは彼らを仲裁した。「なんにせよ、貴方たちはかなり上手い事やったんです。奪われた次の日には取り戻しているなんて、そうそう出来ない事ですよ。お蔭で、奴の取引の日程がずれ込んだ」
「取引?」と僕が問いかけると、ナイトレイは、自分の知的レベルに届かない人間と会話をするのは酷く億劫、と言わんばかりの投げやりな態度で言った。
「売るんだよ、ネックレスを。馬鹿な金持ちの虚栄心を満たすと言うビジネスは、中々どうして市場が大きいものだ。……とは言え、貴方たちが再びネックレスを奪い返しに来ると言うのは奴も承知だから、日程がずれ込んだと言っても、改めて設けた取引は近々でしょう。さっさと売って、さっさとずらかるのが一番だ」
「今まさに、取引をしている可能性は?」グレヴィッチが厳しく問いかけたが、ナイトレイは平然と首を横に振った。
「奴は、貴方たちが銃まで持ち出したと聞いて恐れています。もし貴方たちが、我々にしたのと同じように荒っぽく押しかけてきても、ネックレスがあれば自分の命を救う交渉に持ち込める。だからもう少し、切り札として手中に置いておきたいはずです。奴がネックレスを売る時は、即ち、自分が雲隠れをする準備が整った時。今日の昼にここから帰路について、その準備を整えられたとは思えない。だから、今はまだネックレスの無事を保障しますよ」
 これを聞いたヤコフの顔に、少し色が戻ってきた。他の二人もそれにつられて肩の力を抜き、淀んだ空気が和らいでコーヒーの味が分かる様になった。時刻はそろそろ四時になろうとしており、真っ暗だった世界が青白く輝きだしている。
「それでは」ヤコフ青年が懇願するようにナイトレイを見つめた。「この不毛な奪い合いに、決着をつけていただけますか。お金ならいくらでもお支払します」
「報酬の話は、とりあえず置いておきましょう。私とローガンは、準備をして夕方の便でトロントに向かいます。上手くいけば、その日の内にネックレスは正当な所有者の手へ戻っているはずですよ」
 ヤコフの頬に赤みが差し、心からの笑顔を見せたので僕は口を開き損ねた。
 何故勝手についていく事にされてるんだ。僕には店があるし、ナイトレイ自身、教師と言うれっきとした仕事があると言うのに。
 ……と、三人のロシア人が居なければ訥々と説教をしているところだが、ヤコフ青年の笑顔を見た後では、間違っても言えるはずがない。仕方なく、任せてくれと笑顔を返す事にした。
「では僕たちも、一緒にカナダへ行きます。お願いです、もう待っているだけなんて耐えられない。邪魔にならない様にしますから、どうか来るなとは言わないでください」
 この申し出にナイトレイは考えるそぶりも見せず、二つ返事でオーケイを出した。奪還は我々が請け負い、ヤコフの面倒は残りの二人がみてくれるので、大丈夫だろうと言う事だ。ヤコフは何度も礼を述べ、二人の付添と共に、来る時は違法に押し入った扉を、今度は普通に開けていった。
「おお、そうだ」
 不意に僕らのもとへアルスキーは戻ってくると、何の前触れもなくナイトレイを殴り倒した。あまりに唐突で僕は声もあげられなかったが、すぐに、ナイトレイが起きようともがいているのに手を貸してやった。
「これでお相子だ。スッキリできた。今からは仲間としてよろしく頼むぜ」
「私はゲイだが」晴れやかなアルスキーに、ナイトレイはよろよろと指を突きつけた。「こういう男くさいのは好きじゃない!」
 彼らが帰っていくまで、ナイトレイは「安全に気絶させるために顎を殴ってやったのに」だとか「これだから筋肉馬鹿は嫌なんだ」だとか文句を言っていたが、二人きりになると気を取り直して、僕にこう宣言した。
「さあローガン、出かける支度に取り掛かろう。でないと朝一の便に間に合わないぞ」
「朝一? 夕方の便じゃないのか?」
「調べたい事があるんだ。この事件は思ったより根っこが深い、そこから始末しない限り、あの好青年の心の平穏は望めないよ。トロントにつくまでにプランを決めておかねば」
「……はあ。僕が何を言っても、連れて行くつもりなんだな?」
「君が居るか居ないかで、私の調子はずいぶん変わるんだよ」ナイトレイは微笑んだ。「君が隣に居てくれさえすれば、そこが地獄だろうと、我が家みたいに寛げるからな」
 僕が二人分の荷造りをしている間に、ナイトレイはパソコンで何やら調べ物をしていた。そして、荷造りも終わろうと言う頃、突然歓喜の叫び声をあげたので、僕は驚いて声が出そうになった。なんだかよく分からないが、首尾は上々な様子だ。
 ジェネラル・エドワード・ローレンス・ローガン国際空港に最後に足を運んだのは昨日の昼前の事。昨日はここからニューヨークに発ったが、今日は国境を越えて、カナダのトロントだ。慌ただしいスケジュールに僕は疲れていたが、ナイトレイはこの事件を存外気に入っているらしく、目は興奮に輝き、活力に溢れていた。移動中は言葉も少なく空想の世界に憑りつかれていたが、トロント・ピアソン国際空港についてタクシーを拾ってからようやく、彼は口を開いた。
「我々は博物館へ向かう」
「ワイズマンに会いに行くと言う事か?」
「その通り」
 予想外の作戦に、僕は目を丸くした。
「でも何故? ネックレスを寄越せと言って、はいどうぞと渡してくれると思ってるのか?」
「まず無理だろうな。しかし、我々が来たのを知れば、奴は必ず行動を起こす。機が熟さぬうちに何かを始めれば、人間、大なり小なり必ずヘマをやるものなのさ。その隙をついて、あの悪党を捕まえてやる。悪いが今晩も徹夜になるだろうね、ローガン」
「まったく!」僕はわざとらしく呆れたふりをしてやる。「どうしてお前が、警察か探偵にならなかったのか、不思議でならないよ」
「警察は嫌いだし、探偵には向いてないからだよ」ナイトレイは口端を持ち上げた。
「探偵ってのは、常に冷静でいるために、愛だのなんだのとは無縁であるべきだからね。探偵をやるには、私は情熱的過ぎるのさ」
 含みのある言い方に僕は気づかないふりをして、窓越しに見慣れない町並みを眺めて時間をつぶした。
 タクシーで二十分程走り、周りに緑が増え始めると、とある公園の隣で車は止まった。個人経営だと聞かされていたので、こじんまりした趣味の範囲のものを考えていたのだが、立派な博物館がそこには建っていた。白い壁に大きく「ワイズマン博物館」の文字を掲げ、一階建ての建物だが横幅は十分にあり、公園に面した広い駐車場には、ぽつぽつと車もとまっている。なかなか繁盛している様だ。駐車場を見るや、ナイトレイは急にひっくり返った声で悲鳴をあげた。
「スクールバスだ!」駐車場に停められた一台のバスを指差して叫んだ。
「子供がいる!」
「博物館だぞ、社会科見学くらい来るだろ」
「行きたくない、一気に行く気が失せた!」
「ブツブツ言うんじゃない、ワイズマンに会うんだろう。この事件を解決したいんじゃないのか、ナイトレイ」
「畜生! ……信頼してるよ、ローガン。いざとなったら、恐るべき“こ”のつく魔の手から、私を助けてくれるって!」
 博物館の周りを囲む花壇はちょうど植え替えの時期らしく、作業服の人々がリヤカーに取り除いた草を積み上げていた。土色しかないその花壇の中央に据えられた入口をくぐってからも、ナイトレイは僕の手を握りしめたまま忙しなく視線を巡らせている。これでは不審者だ。
 館内は清潔的で明るく、悪党には似合わない素敵な博物館だった。若い受付嬢に館長を呼んでもらおうと口を開いたが、ナイトレイが手の甲を抓るので中断を余儀なくされた。彼は二人分の入館料を払い、普通の客として館内を歩き始めた。
「ちょっと見てみよう。我らが御敵の腹の中がどんなものか分かれば、後々有利に働くかもしれないからね。いや、意外としっかりしてるじゃないか。へえ、中々貴重な物を揃えている。見ろよローガン、これは古代エジプトで使われていた預り証だ。穀物を倉庫に預けたと言う証書で、これ自体が通貨として使われた事もあるのだ。そしてこっちは……」
 そこでナイトレイは急に口をつぐんで、展示物とのにらめっこを始めてしまった。彼は展示物と我々を隔てるガラスに、掌も額もべったりくっつけて、瞬きもせずにそれらを観察している。何かが気に食わないらしい。こんな時は、気がすむまでほっとくのが一番だ。
 外壁と同じく白く輝く館内は広々としており、展示物の数も豊富。博物館に一日何人入れば黒字なのかは分からないが、きちんと手入れが行き届いているところを見るに、それほど困窮した経営状態にあるとは思えない。僕には普通の、否、むしろ良いクラスの博物館に見えた。
 ナイトレイはずるずるとガラスの壁を横に伝って、鬼軍曹が怯える新兵たちをじっくり睨めつけ、無言のプレッシャーを与える様に歩いていった。と、突然一つの展示物の前で立ち止まり、大きな目を更に見開いて食い入るように凝視し、急にくつくつと笑い出した。
「なるほど、なるほど!」
 彼が見ていたのは、非常に歴史を感じさせる、一枚のコインだった。握り拳位の大きさで、横の説明には、聞いた事もない地域、部族の名前と、このコインがその部族にとって神聖な物である云々と記されている。僕には彼がニヤリとした理由が全く分からない。
「これがどうかしたのか、ナイ――」
「悪魔め!」出し抜けにナイトレイは毒づくと、僕の後ろへ隠れた。同時に、奥の通路を小学生の集団が引率の教師に連れられて横切った。彼は首をすくめて、罪なき子供たちを罵倒したくてたまらぬ、と言った風にその体を僅かに前後に揺すっていたが、やがて耐えかねたのか、僕の手を取ってその場所から逃げだした。
「もう十分だ。さっさとワイズマンに会ってここから抜け出そう。一刻も早くだ。そして気分転換に美味しい物を食べるのだ。カナダの名物はなんだ?」
「お前が子供を嫌いなのは構わないが、子供たちの前でそんな態度を見せてくれるなよ、ナイトレイ。ただの無邪気な子供じゃないか」
「無邪気の要因は思慮の欠落だ。分別を与えられ、喚く猿から人間と呼ぶに足る生命体に成長するまで、私は一切関係したくない。成長しないのならば、きちんと教育出来ない無責任な親共々、どこかへ隔離すべきだよ。何故って、図体だけ大きくなり、中身は猿のままだったら、それはこの世で最も醜い生き物だからね」
 受付嬢に今度こそ館長を呼んでもらうと、ナイトレイが名乗った偽名を聞いたワイズマンが何も知らずにやって来た。彼は僕たち二人を見た途端、顔色が失せてしまった。取り乱しそうになるのを堪えるのに必死で、取り繕った笑顔がピクピクと痙攣している。エルムズ街でこの男を見送ったのは昨日の事だが、大分やつれた印象を受けた。
「こんにちは、お二人とも。いや、驚きました。受付から、レミングと言う方が来ていると言われたものですから……何故ここに?」
「いえ、仕事で近くに来たものですから」ナイトレイはにこやかに答えたが、その笑みには、狩人が獲物を追い詰めた時に見せる余裕と興奮の入り混じったものが垣間見えていた。「ついでに博物館を見学させてもらいました。実に良い博物館だ。清潔感もあるし、立地も申し分ない。展示物も充実している」
「それはどうも」
「しかしワイズマンさん、レプリカならばそう記さないと。あれではさも本物を展示している様に見えますよ」
 ワイズマンの顔が土気色になり、ナイトレイの眼光が一層鋭くなった。僕は驚いて彼を見やり、それからこの宣告に打ちのめされたワイズマンを見た。三秒ほどの間を置いて、ワイズマンは我に返った。
「ハ、ハハ。何をおっしゃいます、突然……」
「ワイズマンさん、私は大学で民俗学と考古学を教えています。それでも一目で確信が持てない程、あのレプリカは出来が良い。貴方の技術は素直に賞賛に値します。勿論、それを犯罪に使うのはいただけませんが」
「……私が偽物を博物館に並べていると言いたいのですか?」
「手に取ってじっくり見られれば良かったのですが、そうもいきません。何となく違和感はあるが、百パーセントとは言えない。これならば、疑わしきは罰せず、と言うやつです。しかし、一つだけ絶対に本物でないものがありました。サゴンド族の神のコインです」
 ワイズマンは残った気力を振り絞り、鼻息を荒くしながら反論した。
「あれは知人の紹介で、冒険者から寄贈された物だ! 何を根拠に偽物だと言うんだ!」
「いや、なに」ナイトレイは口端を釣り上げて、この男を甚振るのを心底楽しんでいた。「あのコインは世界に一枚しかなく、その一枚は、私の研究室に大事に保管されているだけの話ですよ」
 ……なんて性格の悪い男だろう。
 この種明かしにより、ワイズマンは立ち直れない程ショックを受け、今にも床に頽れてしまいそうな様子だった。
 ナイトレイは笑みを消し、まじめな顔でワイズマンを見つめた。
「私は貴方のケチな商売についてとやかく言うつもりはありません。ただ、私も仕事なのであのネックレスを取り返さなければならない。誰が依頼主だか、勿論貴方にはわかりますね。なるだけ事は穏便に済んだ方がお互い良いでしょう、貴方のなけなしの良心に私は賭けようと思いますが、いかがですか?」
 たっぷり十秒は間があって、ワイズマンはまるで死に際の重病患者の様にぜえぜえした声で「お待ちください」とだけ呟いて、フラフラと元来た道を辿って行った。
 敗北者が見えなくなると、僕はナイトレイに賞賛の言葉をかけようとしたのだが、彼はさっと携帯を取り出し、どこかへ電話をかけだした。
「……ああ、どうもヤコフさん。ちょっと待って下さい」そう言うと、一度耳から電話を離し、スピーカーフォンへと切り替えた。僕にもヤコフ青年の声が聞こえてきた。
「お待たせしました。今、どちらですか?」
「クリスティと言うパブです」
「ああ、それは素晴らしい! そこの人参とチキンのサンドイッチは絶品ですよ。人参を酢漬けにしてあるんですが、フィンランドのビールが隠し味で入っているから柔らかな口当たりで、スパイスの効いたチキンとの相性が抜群です。ぜひ試してください」
「分かりました。それで、もうそちらに向かった方が良いのですか?」
「ええ、そうですね」ナイトレイは目を細めて、次のヤコフの答えに全神経を集中させた。「今、三人そろってますか?」
「はい、全員ここに……あ、どうした……? ――ああ、分かった」
「どうしたんです?」
「すいません、グレヴィッチに電話があって。きっとロシアの仲間からです、酷く心配してましたから……。では、すぐに合流します」
「すぐはちょっと無理かもしれませんね。何せ我々はもうカナダに居るんですよ」
 ヤコフが驚きの声をあげ、不思議そうなアルスキーの野太い声が続く。ヤコフから説明を受けたアルスキーはロシア語で短く叫んだが、やはり驚きの言葉だったのだろう。
「あの、一体何故そちらに?」ヤコフ青年の声は困惑しきりだ。
「申し訳ない、ちょっと野暮用があったものですから」とナイトレイは悪びれず答えた。「貴方たちも、用意が出来次第こちらへ向かってください。ホテルの住所をメールで送りますので、そこで落ち合いましょう。それからついでに、人参とチキンのサンドイッチを二つ程テイクアウトして持ってきてもらえると、私は非常に助かります」
 電話を終えると、ナイトレイは上機嫌そうに両手をこすり合わせてニヤついていた。
「さて、あの悪党めどう出るか。十分以内に結果が出るよ、ローガン。大丈夫、ワイズマンは逃げても無駄だと分かっているから、その心配はないさ。奴が怖気づいて、こちらについてくれれば楽なんだが……もうちょっと脅しておけば良かったかな」
「急にヤコフに電話して、一体どういうつもりなんだ?」
「後で話すよ。彼らが来たら種明かしといこう。みんな集まった時に話せば、長い話をするのが一度で済むからね。……それにしても、随分待たせるな。往生際の悪い。まさか愚かにも本当に逃げ出してやいないだろうな」
 ナイトレイの宣言していた十分を過ぎても、ワイズマンはおろか誰一人やって来る者は居ない。焦れたナイトレイは受付まで戻り、館長を呼べと申し立てた。けれど、受付嬢が内線をかけても繋がらず、空しい呼び出し音の数が増す毎に、ナイトレイの眉間の皺も増していった。
「館長室はどこです。案内してください」
 僕らは館長室に駆けつけ、声をかけたり扉を叩いたりしてみた。返答はない。僕とナイトレイは自然と目配せして、緊張感を共有する。ノブに手をかけると意外にもそれはあっけなく回り、ナイトレイの手で扉が開かれた。
 室内の光景を目の当たりにした途端、全員が息をのんで絶句した。
 ワイズマンはまんまと逃げおおせていた。高名なウィリアム・ナイトレイでさえ捕まえる事の出来ない――それどころか、誰一人追いつける事の出来ない、遠い、遠い、あまりにも遠い場所へと。
「か、館長! 館長、ああ、そんな!」
 受付嬢が悲鳴をあげて、床の上に倒れているワイズマンの亡骸にすがった。一目見ただけで、それは死んでいるのだと判断できる有様だった。周りには錠剤が散乱し、うつ伏せに倒れたワイズマンは白目をむいて硬直している。肌は生者にはあり得ない淀んだ色で、変わり果てたワイズマンは苦悶の表情を浮かべたまま絶命していた。
「そんな馬鹿な……っ!」
 ナイトレイは掠れた声で叫んで、狼狽する受付嬢を押しのけ、死体に飛び掛かった。けれど、生きている証が何も見つからないと分かると、呆然と黙り込んでしまった。
 何と言う結末だろう。ナイトレイが解決する前に、犯人が自殺してしまうなんて。
「……お二人とも」悲劇から立ち直った受付嬢が、顔面蒼白で僕らを見つめた。「すぐにここから出て行ってください。私は今から警察を呼びます、お客様を巻き込むわけにはいきません」
「そんな、僕らも証言しますよ!」
 受付嬢は気丈にも首を横に振った。
「扉の鍵は開いていました、殺人の容疑がかかってもおかしくありません。私一人が死体を見つけた事にしますから、お客様はどうか今のうちに行って下さい! さあ、急いで!」
「でも……」
「彼女の言うとおりだ、ローガン」
 僕の言葉を制し、ナイトレイが口をはさんだ。これには僕が驚いた。必要ならいくらだって警察に事情を話すし、それに何よりナイトレイはまだネックレスを手に入れてないではないか。確かにワイズマンは死んでしまったが、これによって依頼を中断せざるを得ないと考える彼ではあるまい。
「お嬢さん、どうしようもなくなったら私たちを呼びなさい。きちんと証言して、貴女の無実を証明しますから」
 ナイトレイは彼女に自分の名刺を渡し、僕を引きずるようにしてその場を後にした。道中僕が何を言っても彼は取り合わず、最後に博物館の前で立ち止まり、その光景を目に焼き付けた後、急に力強く歩き出した。
「まずは食べ物が要る。ホテルの部屋で考え直しだ。この私が、このまま引き下がると思うなよ。必要ならあの男を地獄から連れ戻してやる」
 

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