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ラスプーチンのネックレス


 博物館を去って四時間後、部屋の中は酷い有様になっていた。お菓子、ジャンクフード、デリバリーが散乱し、ナイトレイはそれらを時に寝転がって、時に歩きながら、時に物を書きつつ、石炭を食って加速する機関車のように口に詰め込み続けた。
 彼は紙にこれまでの経緯を書き連ね、僕が読めない程汚い字で色々書き足していった。紙の数はみるみる増えていき、とうとう部屋に備え付けのメモ用紙を使い切ると、今度はハンバーガーの包みにまで手を出す始末だ。
 彼は時々喋るのだが、僕に話しかける事は少なくて、ほとんどが自分に語りかけてばかりだった。不意に、ベッドの上に散らばる紙をパズルの様に並べ替えながら、ナイトレイはこちらを見もせず、パチンパチンと指を二度鳴らして僕の注意をひいた。
「ピースだ、ローガン」
 彼の思考は聖域であり、僕はあまり踏み込むことを許されていないので、こうして手助けを求められる事は純粋に嬉しかった。彼の横に立ち、どうにか判別できる文字を探しながら、紙を時系列順に上から並べて読み上げる。
「まずはワイズマンがヤコフたちに連絡を取った。次に彼らはニューヨークに呼び出され、そこで偽の取材――」
「待った、違う。そこから違うんだ!」板チョコレートを咥えたまま、張り切った僕の言葉を急にナイトレイは遮った。「事件の始まりはワイズマンの連絡じゃない。その前があるのだ……ワイズマンが何故“神の人を守る会”に連絡し得たのか」
「二十一世紀には、電話とか電子メールとか、そう言った便利なものがあるからだろ」
「誰かその点について言っていたっけ?」僕の皮肉は無視された。彼はチョコレートを紙の一つの上に置いて、両掌を合わせて口元へ持っていき、唇に触れさせていた。
「いいや、そんな覚えはないけど」
「そうだな、私もそんな話を聞いた覚えはない。とにかく話を進めよう。次のピース」
「ニューヨークにヤコフが呼び出される。六月十八日の出来事。ルスラン・アルスキーとアンドレイ・グレヴィッチも同行。同日夜十時、ワイズマンの偽の取材が始まった」
「会合場所は?」
「ワイズマンが宿泊していたホテルの部屋」
「その際、同行者は一緒には行かなかった」
 ナイトレイは瞳を閉じて集中し、当時の幻を脳内に作り上げ、その中に佇んでいた。微かに動く唇から低い声が漏れ聞こえて、彼の見えている世界を僕に垣間見せてくれる。
「扉を開ける、笑顔でワイズマンがヤコフを迎え入れる……室内は小奇麗だ。荷物らしいものは見当たらない……扉を閉める……足の悪いヤコフへ、丁寧に椅子を勧める……まだ笑顔だ。声のトーンも優しい。飲み物を尋ねた……いや、これが良いと勧めて出してきた、あらかじめ用意したものだ。何だ?」
「酒だとヤコフは言っていた」これはメモを見なくても覚えていた。「そしてその酒に毒が盛られていたんだ」
「毒……」
 彼の呟きをかき消すように突然ドアがノックされ、外からヤコフ青年の声が聞こえた。ナイトレイはじっと紙を見つめ、心ここにあらずなので、僕が代わりに三人のロシア人を部屋へと招き入れた。
「悪いね、ナイトレイは今考え事の最中なんだ。実はとんでもない事が起きて……。おい、ナイトレイ、みんな来たぞ」
「一体どうしたんです?」
 ヤコフが問いかけた瞬間、青年の姿を見とめたナイトレイは、現実に引き戻された様なハッとした顔をして動かなくなり、それから突然大声をあげて頭を抱え込んでしまった。全員がぎょっとして、彼の奇行を見守った。
「馬鹿だ、馬鹿だ、私は信じられない馬鹿だ! こんなボンクラ、世界中探したって見つかるもんか! ヤコフさん、貴方にお話がある。残りの二人は外で待っていてくれ、とても個人的な話だ!」
「何故俺たちが居ちゃいけない!」
 アルスキーが猛烈に抗議してきたので、ヤコフが慌てて彼を宥めた。ナイトレイは、興奮と自己嫌悪が入り混じって話がろくに出来る状態じゃなく、はたから見れば狂人でしかないだろう。
 どうにかこうにか二人の付添人を部屋から出し、室内には僕とナイトレイとヤコフだけになった。途端にナイトレイは落ち着きを取り戻し、ヤコフの腕を引っ張ってドアから遠ざけ、声を落とした。
「貴方にはつらいお話をしなければなりません。しかし、ネックレスは必ず取り返しますから、その点は安心して下さい」
「ナイトレイ、まさか博物館に押し入るつもりか? どこにあるか分からないぞ」
「分からないとはどう言う事です? ワイズマンが持っているんでしょう?」
「実はワイズマンが死んだんですよ」
「なっ……!」僕の言葉に驚いて声をあげかけたヤコフの口を、素早い動きでナイトレイが塞いだ。長い指を唇に押し当てて、静かにしろとジェスチャーをすると、手を離して更に顔を近づける。
「大きな声を出さないでください。君もだ、ローガン。――ワイズマンは死んでいない、あれは偽装自殺だ」
 今度は僕が声をあげそうになったが、寸でのところで飲み込んだ。ナイトレイが褒める様に目を細めてくれたけれど、頭の中は混乱しきりだ。彼が自ら脈を測り、死んでいたのは確認したはずなのに。
「毒を使ったんです」ナイトレイは早口に説明を始めた。「仮死状態になる薬を自分で打ち、死んでいると思い込ませたんです。ローガン、ワイズマンの服装を覚えているか?」
「とんでもない肌の色しか覚えてないよ。スーツだったとは思うけど……」
「そう、スーツ。そして、左腕が皺になっていたのを私は見た。これは腕まくりをした証だ。あの時、受付嬢に邪魔されずきちんと調べられれば、左腕に注射痕が見つかったはずだ。彼女もグルに違いない。周りに散らばっていた錠剤はフェイクで、予めワイズマンがバラ撒いたんだろう。柑橘系のにおいが微かにしていたから、恐らくただのビタミン剤だ。何事にも致死量はあるが、バケツいっぱい飲んだって、ビタミン剤なんかで死ねるもんか。ヤコフさん、貴方が奴に毒を盛られたと言うのを、今思い出したんです。考えてみれば、これほど明確な事なんてないのに、ああ、全く私はなんて馬鹿なんだ!
 博物館の周りを思い出してくれ、ローガン。何か植え替えていただろう? この時期に植え替える植物、あの葉の形……あれは水仙だったんだ。有名な話だが、水仙には毒がある。その毒を使って貴方を脅し、自らの死を偽装したんだ。あれだけ水仙が植わっていたら、材料には事欠かないからね。でも別に、毒を使って人を脅すのがワイズマンの常とう手段と言う訳ではない。それは、博物館の展示物を見れば分かる。ワイズマンのやり方は、博物館に寄贈された、或いは買い取った物の複製をつくり、本物は裏で売っぱらうのだ。元の持ち主には、あの精巧に作られたレプリカを見せて、こうして大切に展示していますよ、と言っておけば良い。いちいち毒なんて使って脅していたら、絶対にいつか悪事が世にバレてしまうから、こう言ったペテンは穏やかに済ませるに限るんだよ」
「じゃあ、どうして毒なんか……」ヤコフは、毒を盛られた時の感覚が蘇ってきたのか、胸に手を当てて声を詰まらせた。
「それは勿論、貴方があのネックレスを手放す可能性が無いからです。貴方がどんな誘惑にも屈しないと分かっていたから、強硬手段に出ざるを得なかった。そして、ヤコフさん、ここからがつらい話なのですが……」ナイトレイは一度言葉を切って、珍しく眉根を寄せた同情を示す表情になった。「……貴方たち“神の人を守る会”と言うグループは、あまり表立った活動はしていませんよね?」
「ええ……あまり声高に真実を訴えようとすると、酷い迫害を受けるのです。今でも、彼を忌み嫌う人はたくさん居ますからね。僕も昔、大々的に講演会を開こうとして、それに怒った人々に襲われた事があります。命は助かりましたが、自由に歩く事は出来なくなりました」
「貴方は、取材の依頼はワイズマンが初めてだったと言っていましたね。精力的に宣伝活動をしている訳ではない貴方たちを、ワイズマンはどうして見出せたのでしょう。ここまで世間に知られていないとなると、内部の者が外界へとその情報を持っていく位しか方法がありません」
 ナイトレイの低い囁きに、ヤコフの白い顔が一気に色をなくした。取り乱しかけて一度息をのみ、震える拳を握りしめ、必死に自制しようとしている。
「ナイトレイさん」ヤコフの声は色々な感情によって、震えていた。「そんな事あり得ません。そんな馬鹿な話……っ。貴方は、僕たちの仲間が、ワイズマンにネックレスの事を教えたとおっしゃいたいのですね。僕たちの同胞が、薄汚い詐欺師に大切なネックレスを売ったと、そうおっしゃいたいのですね」
「誰が裏切り者か、私にはもう分かっています」
 ヤコフが今にも倒れてしまいそうによろめいたので、僕は慌てて彼の肩を抱いて支えてやった。最早震える事も出来ず、呆然とナイトレイを見つめるヤコフ青年の姿はあまりにも痛ましい。目じりに溜まる涙が彼の絶望を物語り、「神様」と小さく呟いた干からびた声を、僕は忘れられないだろう。
「貴方に使った毒、仮死状態になる薬――水仙を口に突っ込めば良い訳ではありません。毒の生成は、素人が見様見まねで出来る事じゃないし、ワイズマンが毒に長けていたとは思えない。気を悪くされるかもしれませんが、まずは依頼人を疑えと言う原則に従い、私はカナダに来る前にパソコンで貴方たちを調べました。現代の技術は誠に恐ろしい、なんでも分かってしまいます。特に、何かに秀でていればいるほど、検索に引っかかりやすい。とあるロシアの大学のサイトで、優秀な成績を表彰され、記事になっている者が居ました。専攻は、毒性学です。彼の名前は――」
 突然、扉の向こうから怒声が聞こえ、何やら暴れる音が続いた。我々が扉を開けてみると、廊下でアルスキーが四つん這いになっていて、手元に注射器が転がっていた。他には誰の姿も見えない。
「ルスラン、何があった!」
 ヤコフが駆け寄り、その巨体を支えようと手を伸ばす。彼の細い腕の中にアルスキーが倒れ込み、唸りながら廊下の奥を睨みつけた。汗が額に浮かび、顔色は死人の様だ。
「くそったれ、なんだってンだあの野郎!」
「動くな、動くと毒が回る!」ナイトレイが、起き上がろうとするアルスキーに鋭く一喝した。「ローガン、救急車を呼んでくれ。注射器は……よし、毒はまだたっぷり残っている、注入されたのは少量だ。この量ならば即死する事はないから、とにかくじっとしているんだ。すぐに救急車が来る。よく抵抗したな、素晴らしい反射神経だ」
「俺ぁ元軍人だ、舐めンな……! それより、早く奴を追ってくれ! 逃げられちまう!」
「大丈夫、行く先は分かっているし、まだ時間に余裕があるんだ。奴は袋の鼠さ。だから君は、安静にしているんだ」
 僕が救急車を呼んでいる間、ヤコフがアルスキーの震える手を握りしめて、必死に顔を覗き込んでいた。そしてとうとう、聞きたくはないが聞かざるを得ない問題に踏み込むべく、自らも毒に侵されたように震えながら喘いで言った。
「ルスラン……逃げた奴と言うのは……?」
「アンドレイだよ! 俺を襲いやがって、あいつ急にどうしたンだ! イかれたのか!」
「ああ、神様!」ヤコフはナイトレイを一瞥した後、悲鳴をあげて今度こそ泣き出してしまった。突然の出来事に狼狽するアルスキーは視線でこちらに助けを求めてくる。ナイトレイは口を開いた。
「アンドレイ・グレヴィッチは裏切り者だ、ワイズマンと通じていたんだ。ワイズマンに毒を与えたのも、途方もない価値のネックレスの存在を教えたのも奴だ」
「なにっ!」起き上がりそうになったアルスキーを、ヤコフが泣き顔で慌てて制した。
 ナイトレイは話を続けた。
「私は前からグレヴィッチが怪しいと思っていたんだ。我々の家で、一度口論になっただろう。私とアルスキーが、ニューヨークで云々と言う話の時だ。あの時ロシア語で喋っていたからローガンには分からなかっただろうが、アルスキーはこう言ったんだ。『アンドレイが、ネックレスは取り返したんだから一杯くらいひっかけても良いじゃないかと言って、俺に酒を勧めたんだ』とね。あの状況で、いくら作戦が成功したからと言って酒を勧めるなんて正気じゃないよ。私には、グレヴィッチがアルスキーを足止めしたがっている印象を受けた。事実、そうやって時間を稼いだからこそ、ニューヨークで我々がネックレスを奪えたんだ。まるで奴はそれを待っていた様じゃないか」
 僕はその一連のやり取りの最中、そう言えば隣でナイトレイがじっと三人を見つめていたのを思い出した。あの時から、すでにナイトレイはこの事件に潜む真実に気が付いていたのだ。
 アルスキーの真っ青な顔が悔しげに歪み、ヤコフの顔も絶望で似た様な色になっていた。
「じゃあ、昼間急にヤコフさんに電話をしたのは、我々の訪問でパニックになったワイズマンが、グレヴィッチに電話をかけると思ったからか」僕の言葉に、ナイトレイは頷いた。
「ああ。だから申し訳なかったけれど、貴方たちには我々が夕方の便で出発すると嘘を教えたんです。案の定、あの時グレヴィッチに電話がかかってきたから、奴が裏で手を引いているのだと確信しました。さあ、話をしているうちに救急車が来たようだ」
 付近は救急車とパトカーのランプで照らし出され、一時物々しい雰囲気に包まれた。我々は警察に事情を聞かれたが、ナイトレイが何やら話をするとすぐに背筋をピシッとさせ、トロント警察はウィリアム・ナイトレイの忠実な犬へと早変わりしてしまった。ナイトレイの類稀な能力を知っている者は、アメリカだろうがカナダだろうが、その名を聞いただけで彼に全て委ねてしまえるのだ。
「そろそろ行かなくては」ナイトレイは警察に指示を出した。「君たち、我々を博物館まで乗せていってくれ。敵は武器を持っている、人数は少ないが、狙撃手を用意した方が良いだろう。すぐに手配を」
「僕も行きます」
 僕とナイトレイがパトカーに乗り込もうとした時、ヤコフが後を追ってきた。彼の瞳には燃え上がる決意の念が宿っている。アルスキーに付き添うものだと思ったので驚いたが、彼の決然たる姿は、友を傷つけられ、誇りを汚され、この上身内の恥に自らの手で終止符を打てずにいられるものかと言う強い意志を纏い、誰にも口答えを許さなかった。
「彼は良いのですか」ナイトレイが病院に向かって走り出した救急車を見て言った。
「話をしました」ヤコフの声は低く、落ち着いている。「アルスキーはとめましたが、僕が断固行くのだと言うと、納得してくれました。僕は会の代表として、ネックレスの正式な所有者として、この事件を見届け、ネックレスを再び手にしなければいけないのです。もし僕が足手まといになったら、その時は見捨ててくださって結構。この命と引き換えにでも、僕はネックレスを奪い返します」
 ナイトレイは微笑んで青年を一向に迎え入れ、僕とナイトレイとヤコフ、そして二人の警官と言う総勢五人が、博物館に進路を取る事となった。
 警官は始終興奮して「あのウィリアム・ナイトレイさんとご一緒出来て光栄です」と声を上ずらせていた。ナイトレイは気にもとめず、車に乗り込むなり、いつの間にか持ってきていた、ヤコフに買ってきてもらったパブのサンドイッチを食べ始めた。人々は彼の行動にあっけにとられていたが、彼の燃費の悪さはよく知っている僕は驚きはしない。ものの二分でそれを平らげ、体中へ血を巡らせると、ナイトレイはじっと今後の展開を頭の中で思い描くのに夢中になった。
「でもナイトレイ、何故時間があるんだ? 僕ならさっさとネックレスを持って、遠くへ逃げてしまうぞ」
「グレヴィッチはそうしたいだろうが、いかんせんワイズマンの回復に時間がかかるんだ。何せ一時的にとは言え死んでいたんだからな。ワイズマンがまともに口をきけるようになるまで、奴はどこにも行けない。グレヴィッチはネックレスの在り処を知らないから」
「何故です、彼らはグルなのでしょう?」ヤコフが驚いて聞いた。
「もし、自分がワイズマンの立場だったら」ナイトレイは、いつもの教授然とした口ぶりになった。「敵を目の前に一人戦うことを余儀なくされ、藁にも縋る思いで助けを求めた相手は、仮死状態になれと言う。だが、この男はそれほど信用に足るのか? 薬が効いている間は、自分は死んでいるのと変わらない。その間に、奴はネックレスを持って逃げてしまい、自分には罪以外何も残らないのでは――こんな疑念を抱くのは当然の事だ。グレヴィッチが土壇場で裏切らないよう、私だったらネックレスの在り処は教えないね」
 我々は程なくして博物館へ到着した。気づかれない様に博物館の手前で車を停め、一行は静かに、小走りで建物へ向かった。
「君、玄関を見張ってくれ。君は裏口だ。中へは我々三人で突入する。応援が来たら、他の非常口にも人を配置して、逃がさないようにしてくれ。よし、二人とも、行こう」
 館内は暗く、非常口を示す看板がぼんやりと輝いて廊下に緑色の光を落としている。昼間は明るく清潔的に見えた博物館だったが、暗闇に沈んだ今は、墓場の様な陰気くささが館内に充満していた。
 ナイトレイは僕とヤコフの前に立ち、足音を殺しながらぐんぐん進んでいく。昼間、館内を歩いた時に地図をちらっと見ていたが、あれだけでナイトレイの頭の中には館内の構造が刻み込まれ、例え目隠しをされていても、白昼の下歩いているのと違わない足取りで歩けるのだ。彼はいくつか驚くべき特技を持っているが、記憶力と暗闇でも困らない程目が見えると言うのもそのうちの一つだ。
「博物館は」とナイトレイは静かに語り出した。「死者と対話が出来る場所なんだよ。歴史と言う棺の中に眠る彼らに話しかけ、再び命を吹き込み、現代へ蘇らせるんだ」
 関係者以外立ち入り禁止の文字が書かれた扉をくぐり、廊下を抜けた先には倉庫と書かれた扉が見えてきた。隙間からほのかな光が漏れ、慌ただしい人の気配もする。ナイトレイはその扉を押し開き、堂々と踏み込んでいった。
「しかし、別に貴方まで蘇る必要はありませんでしたね、ワイズマンさん」
 庫内は無数の棚が聳え、本物なのかは分からないが、表に飾られていない品が所狭しと並べられていた。薄暗い庫内の唯一の光源は、中央に据えられた机の上にあるスタンドライトで、その前で二人の人間が死人の様な顔色で立ち尽くしていた。片方は、少し前までは確実に死人であったわけだが。
 ナイトレイの姿を見とめたワイズマンと、僕らを追い出したあの受付嬢は、恐怖に凍り付いて口もきけない様子であった。
「さあ、もう良いでしょう」諭す口調でナイトレイは話しかけた。「外には警察が居ます。これ以上抵抗すれば、どんどん立場は悪くなる。大人しく捕まるのが貴方たちのためです」
「私は関係ないわ!」受付嬢が叫んだ。「全部この男のせいよ! 私は無理やりやらされたの! 被害者なのよ!」
「き、貴様、黙ってろ!」
「やめないか!」
 ワイズマンが彼女を殴らんばかりに怒鳴ったので、ナイトレイは二人を一喝した。受付嬢はその声に恐れをなして悲鳴をあげ、部屋の奥にあった扉から逃げて行ってしまった。心配せずとも、彼女は外の警官が捕まえてくれるだろう。
「……グレヴィッチが居ない」
 辺りを伺っていたヤコフが呟いた。確かに庫内に他の人気はない。ワイズマンはとうとう居直って、ヤコフの言葉を馬鹿にする様に鼻を鳴らし、我々の前に立ちはだかった。
「あの臆病者は逃げちまったよ! ネックレスをよこせとナイフで脅してきたが、俺はあの馬鹿にレプリカを渡してやった! 今頃、偽物を持って必死に逃げてるかと思うと笑えるじゃないか、エエッ?」
「救い様のない悪人だな、ワイズマン。ネックレスを渡すんだ、お前はもう、神に祈るには遅すぎる」
 ナイトレイがワイズマンへ近づくと、奴は懐からあのネックレスを取り出し、反対の手で机の上からライターを取り上げた。素早くライターを着火し、ゴミ箱の中へと放り込むと、中に入っていた書類に引火して火柱があがる。ワイズマンは、その忌まわしい炎の上にネックレスを晒した。
「俺を逃がしたら返してやる。でなきゃ、大切なネックレスは火の海にダイブするぞ」
「やめろ!」
 ヤコフが悲痛な声で叫んだが、目の前の悪魔には何の効果もない。炎の明かりを受け、醜く歪んだワイズマンの顔が赤く色づき、まさに地獄の業火から這いずり出てきたサタンさながらだった。
「無駄だ、建物の周りは包囲されている。逃げる事は不可能だ」
「ならネックレスが消し炭になる!」
「見苦しい真似はよせ。これ以上けだものに成り下がるのは勝手だが、それに人を巻き込むな」
「俺を逃がせ! どうにかしやがれ!」ワイズマンは喚きたてた。「俺の安全が保障されなきゃ、馬鹿なネックレスも道連れだ!」
 感情的になった人間は何をしでかすか分からない。ヤコフは手が白くなるほど杖を握りしめ、今にも駆け出しそうだった。
「……分かりました」
 一触即発の空気の中、ナイトレイがとうとう呟いた。僕とヤコフが驚いて彼を見ると、彼は諦めきった表情で肩の力を抜いていた。
「今から警察に電話して事情を話します。ただし、そのネックレスに傷一つでもつけたら、貴方は牢屋へぶちこまれるのだと言う事を、肝に銘じておきなさい」
「おい、ナイトレイ!」
「ネックレスのためだ」
 彼は静かにそう言って、ポケットに手を入れた。
 次の瞬間、携帯電話が取り出され様にワイズマン目がけて放たれた。それは弾丸の様に空気を裂き、ワイズマンが反射的に顔を庇おうとした時には、ナイトレイはもう駆け出している。奴の額に痛い音をたてて携帯が直撃し、怯んだ隙にナイトレイはワイズマンの太った体に猛然と突っ込んで、拳で顔を強か殴りつけた。
 悲鳴と共に派手な音をたてながらワイズマンは倒れ込んだ。ナイトレイはすかさずその腕を捩じり上げて背中に回し、完全に拘束して奴を身じろぎもできなくさせる。あっという間に全てを終わらせると、もう片方の手を、床に転がったネックレスに伸ばした。
「……こう言う事があるから、常に何か食べて体力をつけておかないといけないんだ」
 冗談じみた彼の言葉を聞き、ヤコフの顔に安堵の色が広がった。僕もまた、犯人確保で肩の力を抜いて彼に歩み寄った。
「お前が何か食べるのは、趣味みたいなものだろ」
「その趣味で命を救われたんだぞ、馬鹿にするなよ」
「馬鹿にはしてないよ。ナイトレイ、交代しよう。僕の方が体重があるしな」
 ワイズマンの腕に手を伸ばそうとした瞬間、ヤコフの悲鳴が鼓膜に突き刺さった。「後ろ!」と言う言葉と同時に顔をあげると、ナイトレイの背後の暗がりから、何かが煌めいて躍り出てくるのが見えた。
 ナイトレイははっとして応戦しようとしたが間に合わず、振り下ろされたナイフに右の二の腕を切り裂かれた。反射的に彼を引き寄せようとした手は僅かの差で届かず、空しく空を切る目の前で、ナイトレイは敵に捕えられてしまった。
「お前が偽物を寄越した事なんか、ハナから分かってたンだよ!」
 息も荒くグレヴィッチがワイズマンに浴びせかけた。拘束は解かれたワイズマンだったが、グレヴィッチの登場に動転して仰向けになるだけで精一杯な様子だ。グレヴィッチは、腕をナイトレイの首に回して締め上げながら、反対の手で彼の手からネックレスをひったくってしまった。我々は動けないまま、それを見届けるよりほかはない。
「……大丈夫か、ナイトレイ」
 僕の問いかけにナイトレイが頷こうとしたのが見えた。けれどグレヴィッチがナイトレイの首をぐっと腕で絞めたのでそれは叶わず、辛そうな呻き声が聞こえてきて、僕は堪らず拳を握りしめた。
 感情的になって思考を放棄しかけるが、常に冷静でいる事の重要性を教えてくれたのは目の前のナイトレイだ。こんな時にこそ、アリジゴクの様に好機と言う名の獲物が来るのをじっと待ち、いざと言う時に一気にそれに食らいつかねばならない。落ち着け、ナイトレイなら大丈夫だ。それより、隣で鬼の形相のヤコフに気を配らないと、彼こそグレヴィッチに殴りかかってしまいそうだった。
「大丈夫なもンか、なあ?」グレヴィチはギラつく瞳をナイトレイに向けて、その頬に食いつかんばかりに近づいた。
「このナイフには毒が塗ってあるンだ。早く解毒剤を打たないと十分ともたない」
「どうりで、傷口が死ぬほど痛いわけだ」
 この状況でもナイトレイはおどけていたが、僕の方は頭にこん棒で殴りかかられた様な衝撃を受けた。毒、解毒剤、十分ともたない、これらの言葉が僕の頭の中で爆発し、正常な思考能力を奪っていく。
 早くしなければ、ナイトレイが死ぬ!
「この野郎……!」
「落ち着け、ローガン!」ナイトレイが苦しげに声を張り上げて僕を制した。先ほどまで生気に満ちていた彼の顔には脂汗が滲み、色が見る見る悪くなっていくのだが、それでも真摯な瞳に見据えられると、不思議と荒れ狂う心が凪ぐのだった。「まだ十分あると考えよう。お互い、論理的にいこうじゃないか。どちらにせよ、今私の命はグレヴィッチの手の中だ。それほど価値のある命でもないがね」
「頭の良い奴は話が早いから好きだぜ」グレヴィッチが歯を見せて笑った。
「誰か一人でも動けばこいつを刺し殺すし、俺の言う事を聞かずにこう着状態になったとしても、十分すればこいつは毒で死ンじまう。俺に従うしかないンだ、分かるな?」
「アンドレイ! この……っこの裏切り者! 何故こんな事ができるんだ!」
 ヤコフは、普段の彼からはおおよそ想像も出来ない程激高し、感情的に叫んだ。怒りもあるが、裏切られた悲しみや苦しみもまた大きく、その痛みが声を上ずらせている。
 彼が取り乱してくれたおかげで、僕は冷静さの中に留まる事が出来た。皮肉な事だが、人間、自分より慄いている者を見ると気丈さが湧き上がってくるものである。彼の杖が凶器になってしまわない様に気をつけつつ、ナイトレイの瞳を見つめた。何か策はあるのだろうか。僕にそれが見出せるだろうか。
「裏切るも何もあるかよ。俺は、お前らの下らないクラブなんかに興味ない」小馬鹿にした調子でグレヴィッチがヤコフを嗤った。「俺の爺様が本当にラスプーチンに命を救われていたとしても、そんな昔の事、知ったこっちゃねエよ。“神の人を守る会”だ? 気色悪ぃ! お前ら全員、気の狂ったカルト野郎だ!」
「ずっとそんな風に思ってたのか! 我々は皆兄弟だと誓いをたてた時も、お前は腹の内では舌を出していたのか!」
「誓いなんかクソ食らえだ! 俺が会に居続けた理由はただ一つ、金になりそうな貴重な物が転がり込んでくるからだ。金のために、今までじっと我慢してきたンだ。俺は、ラスプーチンにもお前らにも、一度も恩なんか感じた事はない」
「なんて救いがたい男だ……!」
「お二人とも、盛り上がっているところ悪いんだが」ナイトレイが不意に口をはさんだ。「腕がもげそうなほど痛むし、右半身が麻痺してきた。さっさと話を進めても良いかな?」
「俺を逃がせ」
 グレヴィッチの要求はシンプルなものだった。警察が周りを取り囲んでいる今、それは無理だと反論しても、聞きはしないのだろう。
 一体どうすれば良い。ワイズマンに全ての罪をなすりつけ、グレヴィッチはたまたま残っていた無関係な人間とでも我々が証言すれば、警察から逃れられるだろうか。万が一、外に出て、途端に警察にグレヴィチを逮捕させたとしても、解毒薬を棄てられてしまえばいっかんの終わりである。
「無事に逃げる手はずが整ったら、解毒剤をやる。さあ早くしないと、お前の命の砂時計の砂はどんどん落ちていくぞ」
「ああ、分かった。私がうまく誤魔化してやる。まずは離してくれ、これじゃあいかにも悪者と人質だ」
「馬鹿にするなよ、ホモ野郎っ」グレヴィッチは声を荒げて、ナイトレイの頬にナイフの切っ先を押し当てた。「狙撃手を呼んだろう、俺が知らないとでも思ってるのか? そこの窓から見られて、俺の顔はもう知れてる。お前は俺の盾になるンだ。警察との交渉は俺がやる。お前ら、そこのドアから先に行け」
 捕まりたくないと抵抗するワイズマンを僕が叩き起こし、言われるがまま我々は裏口から外へと出て行った。扉の近くにはトロント警察が控えていたが、この状況を見るや、彼らは理解して後ろへ下がってくれた。
 警官は四人いて、当たり前だが狙撃手の姿は確認できなかった。しかし、現れたグレヴィッチは宣言通りナイトレイの後ろに隠れていたので、どんなに腕の良い狙撃手でも、この状況で犯人のみを撃つ事は出来ないだろう。グレヴィッチは短時間で全てを終わらせようと、鬼気迫る様子だった。
「お前らの車を貰う。キーを寄越せ。でなきゃ、こいつが死ぬぞ。こいつは今毒に侵されてるンだ、後数分で死ンじまう。さあ早くキーを寄越せ!」
「アンドレイ」ヤコフがグレヴィッチの横から、低い声で言った。「いい加減、関係のない人を苦しめるのはやめなさい。そんなに人質が欲しいなら、僕がなる。だからナイトレイさんを離して、解毒剤を」
「黙ってろ、テメエの聖人気取りの態度にゃずっとイライラさせられてたンだ! ろくに歩けねえポンコツなんかに用はねえンだよ!」
 激高したグレヴィッチは、力任せにヤコフ青年の細い体を蹴り飛ばした。杖は飛び、ヤコフは倒れ、警官がハッと身構える。僕がヤコフを助け起こしている間に警官は目配せし合い、一人がキーを持った手を振りかぶった。
 ヤコフを後ろに庇いつつ、縋る様にナイトレイの方へ視線をやった瞬間、僕は息をのんだ。彼の灰色の瞳は、色を失った顔の中でも生き生きと輝いている。そして、ほんの僅かに彼の口端が吊り上ったのが見えたのだ。
 何かする気だ。僕はそれに協力しなければならない。僕は瞳を見開いて、どんなに一瞬の出来事も見逃すまいと、息を止めた。
 そしてそれは、まさに一瞬の出来事だったのだ。
 警官がキーを放ると、キーはかすかな金属音を響かせながら弧を描いた。その時、警官のはるか後方で、針でつついたような小さな明かりが一瞬チカっと瞬いた――ライフルのスコープだ! グレヴィッチがキーを手にしようと腕を伸ばした瞬間、銃声と悲鳴が同時に響き、奴の掌から血が噴き出した。それを合図に、僕は体中の筋肉を突っ張らせてグレヴィッチに突進し、地面に転がっていたヤコフの杖を掴むと同時、しなやかに体を伸び上がらせて、杖の持ち手でグレヴィッチの顎を目いっぱいの力で打ち抜いた。
 恐らくは、骨が折れた音だった。テニスのスイングのように杖は綺麗にグレヴィッチの顎に決まり、奴は状況を理解する間もなく地面へと――その体が倒れていく最中、放り出されたナイトレイに手を伸ばした僕の指先の向こうで、ナイトレイがするりと奴の手からネックレスを奪い返したのが見えた――。
 辺りは一瞬しんとなった。次の瞬間、警官が一斉にグレヴィッチを拘束にかかり、力尽きたナイトレイがばったりと僕の腕の中に倒れ込む。僕は彼を地面に用心深く横たわらせ、それから、自分でも無謀と思うのだが、警官の持っている銃をやにわに奪い取って、痛みに呻くグレヴィッチの胸倉をつかみ、その額に銃口を押し当てた。
「解毒剤を出せ!」
 グレヴィッチは口から血を溢れさせながらも、不敵に唇を釣り上げた。
 僕は、銃の撃鉄を下した。
「五、数える。そのうちに出せ!」
 グレヴィッチの薄ら笑いは消えない。出来ないと思っているのだろう。しかし、我が友であり、相棒であり、恋人である男を傷つけた相手に、慈悲などかける人間がいるか? 少なくとも僕は、そこまで薄情な男ではない。
 ほんの僅かの間、息の詰まるような探り合いの視線が僕らの間で交わされたが、僕はすぐに大声を張り上げた。
「五、四、三、二、一!」
 早口にまくしたてる僕の迫力に負けたグレヴィッチは、汚い悲鳴をあげながら死にもの狂いで自分のポケットから細いステンレスの箱を引っ張り出した。それをひったくり、銃の台座で横っ面を殴った後、僕は警官に銃を返してナイトレイの元へ駆け寄った。
「ナイトレイ、しっかりしろ! 解毒剤だ、打つぞ」
 ただでさえ痩せ気味な彼の体が、今は殊更細く思われる。膝の上に上半身を引き上げて、白い首筋を晒すように頭を傾かせた。震える自分の手に悪態をつきながら箱を開くと、中には頼りないほど細い、しかしたった一つの我らの希望である、解毒剤の入った注射器が固定されていた。
「……私にぶっ刺すのは、いつも君だな……」
 ふざけた言葉も、掠れた声で辛そうに呟かれれば、こちらの心を痛めるばかり。僕は返事もできず、彼の首に注射針を突き立て、薬をその体の中へと押し込んでいくのに必死だった。「うぅっ」と小さくナイトレイは呻き、耐える様に目をつむった。
 注射器が空になると、針を抜いてナイトレイの顔を覗き込む。顔色は悪い。体が恐ろしく冷たくなっている。まさか十分を過ぎてしまったのか。そもそも、今注射したのは本当に解毒剤だったのか。これ以上なにもすることの出来ない僕の頭の中には、暗い雲が立ち込める。
「……ナイトレイ?」
 祈るように呼びかけた。
 反応はない。
「ナイトレイ……解毒剤は打ったんだ、もう大丈夫だろう?――」僕は堪らず、彼を胸にかき抱き、きつく抱きしめた。「――おい、目を開けろ、ナイトレイ。しっかりしろ、息を吸うんだ、さあ! 大丈夫だ、絶対に助かる、僕には分かるんだ。家に帰ろう、なあ、ナイトレイ……ナイトレイ、頼むから、目を開けてくれ」
 ナイトレイの癖のある髪に顔を埋め、彼の耳元で、激情を抑えきれずに怒鳴ったり、絶望に負けそうになって囁いたりする。鼻腔に入り込む彼の匂いはいつもと変わらないのに、触れる頬は氷のようだ。
 ぴくりともしないナイトレイの体を抱きしめたまま、こみ上げる涙で歪んだ視界で空中を眺めていた。そんなはずはない。こんな事あり得ない。無意味な言葉が頭の中を駆け巡るが、恐ろしく分厚い現実と言う壁にぶつかって、粉々に砕け散るばかりだった。
「大丈夫です」何の前触れもなく、ヤコフ青年の声が聞こえた。優しい手が僕の肩を叩き、ヤコフが僕らを見下ろしているのが見える。彼は傍らに膝をついた。
「神は善人をけっして見殺しにはしません。ナイトレイさんが生き延びる事は、神のご意思であり、宿命なのです。祈りなさい、すぐに聞き届けられます」
 幼さの残るヤコフの手が、細いナイトレイの右手を取り、しっかりと握りしめた。そして彼はこうべを垂れ、一心に祈り出したのだ。
 僕は絶望をも忘れてその光景に見入ってしまった。何故と言われると困るのだが、魔法に魅せられたように目が離せない。ヤコフの微かに動く唇から紡がれる祈りの言葉が、解毒剤となって僕の中に染み込み、思考と心とを蝕む毒を浄化してくれた。
 急に既視感が湧き上がり、酷い混乱に陥った。しかし次の瞬間、この既視感の正体を知り、僕は更に強い衝撃を受けた。僕はこの光景を知っている。女性患者のために祈るラスプーチンの写真だ。あの息をのむ神聖なオーラ――それが現代に蘇り、他ならぬヤコフ自身から発せられ、その場を制しているのだ。これは奇跡か、或いは皮肉か。
 呆然としている僕の頬を、不意にナイトレイの癖毛が掠めた感触がした。ナイトレイの頭が揺れた?――いや、確かに揺れたのだ! そして、ナイトレイは絞り出すような声で呻きながら、ゆっくりと身じろぎし、とうとう目を開けて息を吹き返したのだ!
「ナイトレイ!」僕が叫ぶと、ナイトレイは覚束ない視線を暫く寄越した後、不意にへらりと笑った。
「目覚めた瞬間、君の顔が視界に入るのは気分がいいねえ」
 ああ、まったくこの男は!
「大丈夫なのか?」
「うん、間に合ったみたいだな。ありがとう、ローガン。それにヤコフさん、私のために祈ってくれたんですね。ぼんやりと聞こえていました」
「他にお役にたてなくて、申し訳ない……」と言いながら、ヤコフは頬を赤くして手を離した。解放されたナイトレイの手にも、首筋にも、顔にも、色が戻りつつあった。もともと色白な男だが、先ほどの血の気の失せた大理石のような顔色と比べると、雲泥の差だ。
「私を心配して泣いてくれるなんて、感動ものだね、ローガン」突然ナイトレイがそう言って笑ったので、僕はぎょっとした。
「な、泣いてなんか!」
「目が赤いぞ」
「煩い、緊張のせいだ!」我ながら妙な事を言ったものである。「元気になった途端にいつもの調子に戻りやがって。こっちは、間に合わなかったのかとか、本当に解毒薬だったのかとか、色々考えすぎて胃に穴があくところだったんだぞ」
「時間は私がちゃんと数えていたよ。それに、自作の毒を持ち歩く場合、そしてその毒性が強い場合、万が一自分がその被害者になった場合を考え、解毒剤を持っておくものなのさ。病院に運ばれても解毒できないなんて事態に陥る事があるからな。さあ、そんな事より、今回のヒーローを君たちにご紹介しよう」
 多少ふらつきつつ、ナイトレイは身を起こして地面に座った。彼の視線の先へ目を向けると、警官の向こうから数名の狙撃手たちがこちらへ向かってくるのが見える。そしてその中央に一際目立つ大きな体――……。
「ルスラン!」ヤコフが悲鳴の様な声をあげた。狙撃手たちに交じってライフル片手に歩いてくる男は、誰あろう、先ほど救急車で運ばれたはずのルスラン・アルスキーではないか。僕がぽかんとしている横で、ヤコフはもがくように立ち上がり、足を引きずりながら、アルスキーの腕の中へ飛び込んでいった。
「なんで、ルスランどうして、救急車で運ばれたのに……!」
「途中で降りちまった」アルスキーは悪びれず答えた。「血清は打ってもらったから大丈夫だ、俺が丈夫なのは知ってるだろ」
「気でも狂ったのか、何故そんな無茶を!」
「イヴァン」ほとんど泣き声のヤコフに、アルスキーは優しく声をかけて彼の肩を撫でてやった。「お前を守るのが俺の役目だ。例え幽霊になっても、お前を助けに来たさ」
 とうとうヤコフ青年はボロボロと泣き出し、アルスキーの大きな体に抱きついて、安堵と共に事件の終わりを存分に噛みしめた。無理やり気を引き締めて、気丈に振る舞っていた彼が恐ろしい呪縛から解放された瞬間だった。
「じゃあつまり、グレヴィッチを撃ったのは、アルスキーだったのか?」僕が問いかけると、ナイトレイは頷いて見せた。
「すみません、ナイトレイさん」と狙撃手の一人が声をかけてきた「あんなに犯人と近いと、どうしても撃つことが出来なくて……」
「いや、良いんだよ、君たちは悪くない」ナイトレイは彼らに笑いかける。「あそこのルスラン・アルスキー氏こそ、かつて第一次および第二次チェチェン戦争において、目覚ましい活躍をされたロシア陸軍伝説の狙撃手なのだよ。彼が凄かったと言うだけの話さ」
 ナイトレイがここまで言った所で、警察に拘束されたグレヴィッチとワイズマンがパトカーへと引きずられていった。ワイズマンは諦めたのか大人しく警察に従っていたが、グレヴィッチは顎を砕かれているにもかかわらずロシア語で呪いの咆哮を続け、三人がかりで押さえつけられていた。
「ヤー・ティェビャー・ウビユー(ぶっ殺してやる)!」そう叫びながら、地面に血の混じった唾を吐き、獣の様に暴れた。
「このサイコ野郎ども! てめえらみたいな頭のおかしい連中こそ、刑務所にぶちこまれるべきなンだよ! てめえらの大好きなラスプーチンなんざ、クソッタレなペテン師だ! そんなもン信じて何になるってンだ!」
 尽きる事のない罵詈雑言の中、やおらヤコフはグレヴィッチに向かって歩き出した。慌ててアルスキーが杖を拾い、彼の補助に回る。
「アンドレイ」
 ヤコフの気迫はすさまじい物だった。グレヴィッチはヤコフが目の前に来ると、途端に言葉に詰まってしまい、苦しげな顔で睨みつけるだけで精いっぱい。対するヤコフ青年は、睨むでもなく、凄むでもなく、罵るでもなく、ただじっと、グレヴィッチの目を見つめて言葉を続けた。
「お前が欲望に負けてしまうのを救えなかった事を残念に思う。――……さようなら兄弟よ。これからも、神のご加護がありますよう」
 静かに彼は十字をきり、パトカーに連れて行かれるグレヴィッチを見送った。ヤコフの言葉以降、グレヴィッチは一言も口をきかず、生気が抜けた顔で大人しく警察に連れていかれて行ったのだった。
 こうして、この貴重なネックレスにまつわる事件は幕を閉じた。ウィリアム・ナイトレイはまた一つ輝かしい功績を手に入れたが、恐らく世間がそれを知ることはないのだろう。
「さあ、ヤコフさん」ナイトレイはそう言って、ネックレスをヤコフに差し出した。ヤコフは丁寧にそれを受け取り、両手で握りしめてようやく、その年齢に見合った屈託のない笑顔を浮かべた。
「本当に有難うございました。会の代表として、僕個人として、お礼申し上げます。そういえば、謝礼は……」
「お金は要りません。私はこの仕事の他にもう一つ、もうちょっとまっとうな仕事を持っているので、お金には困ってないんです。ただ、仕事は仕事ですので、そうだな……捜査の諸経費位は頂きましょうか」
「そんな、それじゃあタダ働きも同じじゃないですか! そんなの駄目です、いけません。何かお礼をさせて下さい!」
「……そこまで言われるのなら」
 ナイトレイは暫く考えてそう呟き、ヤコフ青年を見上げると口端を持ち上げた。
「貴方の頭の中身を貰いましょう」
「あ……頭の、中身ですか?」ヤコフは困惑した顔で首を傾ぐ。ナイトレイは続けた。
「貴方が知っているラスプーチンに関する全ての知識です。なにせ貴方の頭の中に入っている歴史は、非常に価値のあるものでありながら、世間では知られていないレア物なんですから。私は民俗学と考古学を専攻していますので、お話を聞かせて貰えれば、大変役に立つと思います。学者にとってはね、ヤコフさん、知識こそが一番の報酬なのです。我々は、知識を食べて生きる生き物なのです。幸い、お話を聞く時間は、たっぷり……あり、そう……だ、し……」
「ナ、ナイトレイ?」
 突然ナイトレイが倒れ込んできたので、僕は慌ててそれを抱きとめた。見れば、顔が真っ青ではないか。ぎょっとしている僕をよそに、彼はうっすら笑って掠れた声を出した。
「解毒薬を打てば全快、とはいかないんだよ、ローガン……救急車を呼んでくれたまえ……」

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