ラスプーチンのネックレス
4
カナダでの入院生活は三日だけだったが、僕とヤコフにとっては目まぐるしい三日間だった。アルスキーも入院と言う事になったのだが、救急車を無理やり停めさせたと言う前科があるせいで、病院からのお説教と、看護師たちからの白い目と言う手厚い歓迎を受ける事となった。なんでも、血清を打ってもらって数分後、突然起き上がり現場に戻れと喚いた揚句、ほとんど暴力をふるう寸前の剣幕で車を停めさせ、暴走するイノシシのように飛び出していったとか。いくらヤコフが心配とはいえ、やり過ぎだろう。
僕らも彼らも外国人であるから、まず保険やらの関係で奔走し、病院に戻れば警察に今回の事情を話し、加えてヤコフは “神の人を守る会”への連絡と言うハードスケジュール。ただし、警察に関してはナイトレイの名声と実績のおかげで、病院内での質疑応答のみと言う措置をとってもらえる事になった。普通だったら、警察への対応で更に二週間はカナダに滞在しなければならなかっただろう。
ナイトレイは病院食がまずいと癇癪を起すわ、気に入った看護師だか医者だかを誑し込むわ、大学からの電話を僕に押し付けるわ、相変わらずの様子だった。ほんの数日前に死にかけていたとは思えない回復ぶりだ。アルスキーもその体に見合ったタフさで、入院した次の日には病院内をうろつき、世話を焼きたがるヤコフの世話を逆に焼こうとして、医者から怒られていた。
「ところで」とアルスキーが言ったのは、ナイトレイの病室に二人がやって来た時だ。
「狙撃チームに俺の事を説明しただろう。軍人あがりとは言ったが、何故分かったンだ?」
ナイトレイは、僕が買ってきたビスケットの山を、無慈悲なまでにぽんぽん口に放り込みながら、ふふんと鼻を鳴らした。
「簡単なパズルだよ。見るべき個所は二つ。まずは右の人差し指。その強張った様子を見れば、長時間トリガーに指を固定しなければいけない狙撃手である事がわかる。次に足。これはニューヨークで会った時に気づいた事だが、僅かに癖のある歩き方と、私が跨っている時に、足をソファに持ち上げて、踵に体重をかけていた事から、足の指が無いのだと分かった。チェチェン戦争では……特に、第二次だが……多くの爆破テロが行われた。その一つに巻き込まれたのだろう。という訳で、君はロシア陸軍に所属し、狙撃手としてチェチェン戦争に参加し、名誉の負傷をして退役、と言うのが分かったのだ」
ウィリアム・ナイトレイの手腕を見せつけられた二人のロシア人は、ただ目を丸くするばかりだった。
退院は朝早くに済まされ、我々はナイトレイの要望により事件現場となった博物館に寄って、彼が用事とやらを済ませてから、空港へと向かった。各々の国へ帰るべく手続きをしていると、突然現れた集団がヤコフに走り寄って、思い思いに抱き合ったり握手をしたりしだしたので、僕はびっくりしてしまった。
「彼らは誰だ?」
「会のメンバーだ」アルスキーが答えた。
「会のメンバー? “神の人を守る会”の? だって彼らは、ロシアに居るはずだろ」
「ああ、迎えに来たンだ。今回はイヴァンがかなり危ない目に遭ったからな、みんな気が気じゃねえンだ。あれでも選ばれたメンツなンだぜ? 残りはロシアでお留守番だ」
「迎えも何も!」僕は信じられなくて、声が大きくなった。「今からそのロシアに帰るんだろ! それじゃあ彼らは、わざわざ高い金を払ってロシアからカナダまで飛行機でやって来て、到着したそばからとんぼ返りするのか? ヤコフは子供じゃないんだぞ、何故ここまでやって来た?」
「茶化してくれるなよ、ローガン」
隣のナイトレイは、訳知り顔で笑ってそう言ってきた。それから、きらりと光る瞳をアルスキーへ向けて、こう言った。
「彼は、自分で分かっているのかい?」
あまりに突拍子もなく、理解不能な台詞だった。ぽかんとした表情で僕はナイトレイを見つめ、アルスキーもまた彼を見つめている。しかし、一瞬の間をおいて合点がいったのか、息をのんだ。酷く驚いた様子だった。
「……いや、面と向かってそうだと教えた事はない」アルスキーは驚愕が抜けきらない浮ついた声を出した。「だが、恐らくは気づいているンだと思う。何かそれと言う証拠を見たんじゃなく――ただ、あいつの心が、理解しているはずだ」
「だからこそ、君たちはあの青年に惹きつけられ、愛してやまないのだ」
「……ああ、そうだな」
「君たちは全員それを知っているのか?」
「勿論だ」
「おいおい」僕は我慢できず口をはさんだ。「何の話なんだ?」
「最後のピースだよ。ローガン」とナイトレイは笑った。
「ラスプーチンの性豪伝説を聞いた事はあるか? 彼の放蕩ぷりたるや、自らの女性信者から、はては売春婦まで巻き込んでの大乱交が日常茶飯事だったと言う。それを象徴する様に、彼のペニスが三十センチ近くあったと言うのは有名な話だ」
「……ラスプーチンの巨根が、この事件の最後のピースなのか?」
「つまりは、ローガン、彼はそれだけセックスしていたと言う事だ。一九〇〇年初頭に、厚さ〇.〇三ミリのコンドームがあったなら話は別だが、これだけ不特定多数の人間と関係を持ちながら、一度も妊娠させた事がないなんてあり得ない。ラスプーチンに子供が、公式非公式にかかわらず何人もいたはずだ」
ナイトレイは改めてヤコフの方を見つめた。
「……“神の人を守る会”か。そのままだったんだな。君たちの本当の目的は、ラスプーチンの事実を世に広める事ではなく、神の人――ラスプーチン――その血をひく者を守る事にあるのだ」
「じゃあ、つまり、ヤコフは――……」
「イヴァン・ヤコフこそ、ラスプーチンの末裔。彼らにとっての、神の人だ」
ヤコフは周りの人々に笑顔で話しながら、その手を取って安心させるように撫でている。手を取られた老婆の、なんと穏やかな笑顔だろうか。老若男女問わず、彼の為に異国の地まではるばる飛んできた人々はみな、疲れた様子も見せずヤコフの周りに集まり、幸せそうにしていた。
……ある人が、ラスプーチンをキリストの再来だと信じていたと言う話を聞いた事がある。世が世なら、彼は本当にキリストと同じ様な道を辿っていたのかもしれない。今になって僕はようやく、ヤコフをはじめとする彼らのラスプーチンに対する気持ちが理解できるような気がした。
「いつから気づいてたんだ」
僕があ然としてナイトレイに問いかけると、彼は事もなげに肩を竦めて見せた。
「我が家にやって来た時から疑っていた。組織のリーダーにしてはあまりに若すぎるし、カリスマ性がある訳でもない――失礼、アルスキー、君たちにとっては別だろうが、悪い意味にとらないでくれ。とにかく、彼がリーダーであるならば何かしら強烈な理由があるはずだと思ったんだ。ヤコフに対する君たちの態度は、指導者への尊敬と言うには度が過ぎている。……ぴったりくる言葉は、教祖を崇める信者といった印象だ。わざわざ迎えのために飛行機に乗ってやって来たのを見て確信したよ。みんなはヤコフの事を崇拝している。彼が自分たちのリーダーだからではない、彼が、かつて自分たちの祖先を救った者と同じ血を持つからだ」
「この会を作ったのは――」アルスキーがヤコフを見つめながら口を開いた。その瞳は慈愛に満ちて、ヤコフを見守っている。
「――俺のばあちゃんだった。ラスプーチンが殺された後、その子供がまわりに迫害されたのを知って保護したのが始まりだ。昔はそっと子供たちを守っていくのが目的だった。でも、子供たちは自分の子供に、ラスプーチンの血族である事を教えなかった。だから今となっては自分がラスプーチンの末裔だと知る者は居らず、俺たちもラスプーチンの歴史を訴える団体に変わった……と言う建前だ」
「ちなみに、現在ラスプーチンの末裔は何人居るんだい?」
「確認してるのは三人。自称が二十八人」
僕たちが笑っていると、ようやく人々から解放されたヤコフが戻ってきた。彼が歩くたびに、胸元でネックレスの十字架が揺れている。正当な継承者の元へ帰る事が出来て、ネックレスも心なし誇らしげに見えた。
「そろそろ行きます。ナイトレイさん、ローガンさん、今回は本当に有難うございました。ご迷惑おかけして、申し訳ありませんでした」
「いや、そんな。こちらこそ、貴方の杖を凶器に使ってしまってすいませんでした。もしどこか悪くなってたら、遠慮なく――」
「いいえ」ヤコフは力強くナイトレイの言葉を遮った。「杖は問題ありませんし、例え壊れたとしても、貴方を称えて、会で保管するでしょう。僕だけでなく、貴方は我々みんなの英雄なのです」
ヤコフの後ろに居る人々は、みな一様に僕らを感謝と敬愛のこもった顔で見つめていた。ロシア語で何かを言う者もいた。僕は分からなかったが、ナイトレイが珍しく困ったように視線を外して笑ったので、相当丁寧な礼を言われたのだろう。「パジャールスタ(どういたしまして)!」と精いっぱいおどけて、ナイトレイは彼らへ笑った。
「活動は続けるんですね?」ナイトレイが彼らを見つめて口を開いた。ヤコフは頷いた。
「でも、やり方を変えようと思います。今回の事件は良いきっかけになりました。いつまでも、秘密結社の様には過ごせませんから」
「頑張ってください。いつか、是非私のクラスで講義を開いて頂きたい。貴方に教わった話は非常に価値があったし、ドラマチックかつロマンチックで、普段死んだ魚の様な顔をしている女子生徒も、貴方の曾おばあ様に憧れて頬を染めることでしょう。……これをどうぞ、ほんの餞別代りです」
ナイトレイはそう言って懐から一枚の紙を取り出し、ヤコフへと差し出した。一番上には“契約書”の文字。その下には小難しい文章がつらつらと並び、最後には……ワイズマンと、ヤコフのサインが記されている。ヤコフは仰天した。
「こ、これ、ワイズマンに騙されて書いた契約書!」
「処分するなり、詐欺の証拠として提出するなり、使い方はお任せします。どちらにせよ、所有権は法的に貴方に戻ってきますよ」
感激のあまりヤコフ青年の頬に赤みが差し、純真な乙女が憧れの人を見つめて胸をときめかせる様な顔になった。なるほど、この紙をちょろまかしに博物館へ寄り道したんだな。
何度も何度もヤコフは熱心に礼を述べ、それを見ていたアルスキーがちょっとムッとしたのに気づいて、僕は笑ってしまった。恐らくナイトレイも気づいていたのだが、わざと知らないふりをしていた。嫌な男だ。
アルスキーがヤコフの肩に手をかけて、もう行く時間だと告げた。会員たちはもう一度僕らに礼を述べ、ぞろぞろとロシアへ戻るべく歩き出した。
「では、お二人とも。また会える日を楽しみにしています」
「お元気で、ヤコフさん」ヤコフの差し出した手を握り、僕は頷いた。暖かい手だった。
「貴方たちも。神のご加護がありますように」
「ありがとう。良い旅を(シチャスリー・ヴァヴァプティー)」
ナイトレイもヤコフとしっかり握手をする。途端、彼は眉根を寄せてぴくっと肩をはねさせた。だがすぐに、なんでもない表情になると、去っていく彼に手を挙げて見送った。
「あ、一つ聞きたいんですが!」ヤコフが立ち止まり、振り返る。ナイトレイは続けて大声を出した。「ロシアの博物館にあるラスプーチンのペニス、あれは本物なんですか!」
「馬鹿!」
大声でなんてことを言ってくれたんだ! 周りが一斉にこちらを見やり、とんでもない表情で睨んだり逃げたりしていく。僕も逃げたい。けれどナイトレイはどこ吹く風で、やっぱり驚いているヤコフを見つめていた。あっけにとられていたヤコフだったが、すぐに彼は笑ってくれた。
「あれはナマコです!」
こうして、ロシアの友人たちが去って行った。それを見送りながら、ナイトレイが右の二の腕をしきりに摩るので、僕は顔を顰めた。
「どうしたんだ、一体」
「いや、握手をした時に、ちくっと痛みが走って……」
「傷が開いたんじゃないだろうな! 見せてみろ!」
面倒くさそうにしながらも、彼は素直に半分上着を脱いでシャツの腕をまくった。患部を二人で覗き込む。傷が開いた様子は無かった。――……と言うより、傷が無かった。
「…………んん?」ナイトレイが眉根を寄せて唸る。
「……お前、ここ切られたよな?」と僕。
「……ああ」とナイトレイ。
「何故傷がない」
「厳密にはうっすらとある」
「こんなもん無いのと一緒だ」
「事実をおろそかにするのは愚かだぞ、ローガン。きちんと傷はある。うっすらと、パッと見では分からない程の、傷跡だが……」
「たったの四日でそこまで治るか。一体なんで……まさか……」
僕の脳裏に……いや、ナイトレイの脳裏にも、恐らく同じ考えが浮かんだのだろう。彼は大きな目を零しそうな程見開いている。
人々の病気や怪我を癒して回り、神の人とまで呼ばれたラスプーチン。そして、その血をひくヤコフ。毒に倒れたナイトレイの手を、ヤコフが握って祈ったら目が覚めた。そして今は、握手をしたら……。
「あり得ない!」ナイトレイは叫んで両手を振り回した。「オカルトだ、ナンセンスだ!」
「じゃあ説明はどうつける」
「医者が恐ろしく良い腕だったのさ! 私の自然治癒力と薬がすさまじい相乗効果を生んだのだ、これは生命の神秘だ!」
「奇跡が起きたと思わないのか? もしかしたら毒から救ってくれたのは、解毒薬じゃなくてヤコフなのかも……」
「私は現実主義者だぞ、ローガン。そんなもの信じるもんか。ラスプーチンが本当に、超自然の力で人々を治したと? そしてヤコフはその能力を受け継いでいると? ラスプーチンがまだ生きていると言われた方が、よっぽど現実的だ! 非科学的な物は一切信じないぞ! 奇跡なんか、あるもんか……!」
真相は闇の中だった。ナイトレイはしきりに小難しい言葉を用いて、この現実を論破しようとしていたが、結局答え合わせをすることは不可能なのである。
ナイトレイは助かった。僕にはそれだけで十分だ。
イヴァン・ヤコフがリーダーである所以は、彼がラスプーチンの血を受け継いでいるからだけではなく、もしかしたら、同じ能力を持っているから、なのかもしれない。今後、彼はどんな道を歩んでいくのだろう。ラスプーチンの様に人々を癒し、生きる希望を与えて回るのか、それとも己が運命を知らず静かに暮らすのか。どちらにしてもハッキリ言えるのは、ヤコフ青年の最期は、ラスプーチンの様にはなるまい、と言うことだけである。
「どうかしたのか、ローガン」
出し抜けにナイトレイが問いかけてきたのは、ようやく我が家に到着し、なし崩しに二人でベッドに倒れてからだった。僕は暖かい彼の体に安心し、その体を抱きしめては時折キスを落としたりして満足していた。
てっきりナイトレイがしびれを切らし、ちゃんと動けと文句を言おうとしているのだと思ったが、見下ろした先にあったのは予想外に優しい笑みだった。
「何の話だ?」
「いや、なんだか甘えてる様だったから」
「僕が?」そんな指摘がくるとは思わず、僕は驚いた。
「文句を言ってる訳じゃないよ。そりゃあ、快楽に身を任せるのも大好きだけど……こういう穏やかなのも悪くない。安心する」
彼は僕の首に腕を回し、真っ最中だとは思えない柔らかな笑顔で、僕の鼻頭に軽く口付けた。彼が抱きついてきた事でより素肌が密着し、お互いの体温から鼓動に至るまで全てが伝わってくる。この感覚を二人で共有するのは、酷く心地よい事だった。
口に出しはしないけれど、こんな事で安らぎを得るなんて、僕も大概この男の魔力にかどわかされている様だ。セックスと言うよりは愛撫の延長の様な行為を続け、ゆるゆると流れていく穏やかな時間を過ごす。幸せだと心底実感できるのは、こんな他愛もない瞬間だったりするものだ。
ああ、そうなんだ。結局僕はナイトレイを大切に思っているし、今回の事件は、今更気づいたが、恐ろしく心に負担をかけていた。それを彼に言う事はないが、それでも、今ナイトレイが腕の中に納まって息をしている事実に、堪らなく喜びを覚えるのだ。
「心配をかけて、すまなかった」
心を見透かすようなナイトレイの言葉に、僕はドキッとして目を丸くする。その表情を見て、彼は自分の台詞が間違っていなかったのを確信し、更に笑みを深めた。
「……目の前で死にかけてる人間を、心配しない訳ないだろ」癪に障った僕はつっけんどんに言い放つ。
「私だったから、あんなに心配したんだろ?」
「勝手にそう思ってろよ」
「思うさ」ナイトレイは微笑んだ。「だから今回の事は、反省してるんだよ。君は私を愛してくれているから、私が傷つくとどうしても心配させてしまう。それは不本意だからね」
「……お前のその自信の出所が知りたいよ」
「事実を述べたまでだ。君がどう言おうと勝手だが、事実、我々は愛し合ってるんだよ。現在進行形で人に突っ込んでおきながら、否定なんかさせない、んっン!」
「もう、黙ってろっ」
いつまでも勝者面で喋り続けるナイトレイを黙らせるために、僕は再び律動を開始した。今まで涼しい顔をしていたくせに、ちょっと動いただけで翻弄されて、いい気味だ。
とは言っても、やはりがっつくわけにはいかない。退院したばかり、数日前死にかけた人間だ。しかし時々、こちらの我慢が難しくて、ゆっくりではあるものの彼が苦しくなるまで深く入り込んでしまう。
「ハッあ、あ……っんんー……!」苦しげなナイトレイの声に我に返った。
「悪い、痛かったか?」
「平気……もっと、激しくしても良いのに」
「馬鹿、退院したばっかりの人間の台詞か」
「優しいね」
ナイトレイは微笑んで僕を抱き寄せ、キスをしてきた。じれったい程ねっとりと舌を絡め、唇を離すのが惜しくなる。キスの刺激でナイトレイが余計僕を締め付けて来て、たまらず腰が疼いた。
「ッナイトレイ……ハ…っ」
「あっあ…ん、ハァ、ローガン…気持ちいい……っ」
うっとりした声で、表情で、身をよじって僕を誘う。駄目だと分かっているのに、その痴態に欲望を優先させてしまいそうだ。
汗ばむ首筋に舌を這わせ、そのままつっと下へ滑らせると赤く色づく乳首に触れた。舌先で押しつぶし、唇で食んで弄ぶ。中が締まって、また堪らなくなり、思わず僕は彼歯を立ててしまった。
「んぁあっ……く、あぅ……!」
途端に大きな甘い悲鳴。我慢していたが、ここまで彼が楽しんでいるのなら、もうそんな気遣いもいらないのではと、本気で思えてきた。駄目なのに、ああ、くそっ。
「お前が煽るからだぞ、動くからなっ」
「ん、ん、早く、ローガン……」
その言葉を後悔させてやる。彼の細い腰を両手で掴むと、僕は気のすむまで腰を打ち付けた。乾いた音が部屋に響き、それに彼の嬌声が重なる。面白いほど僕の動きに合わせ、ナイトレイは喘ぎ、感じ入り、身悶えた。
「うぁっあ……っく、ハァ、あう、アっあっん……それっそこ……!」
「んっ……イきそうか?」
「うんっうんっ…だから、やめないで……あぁっ…そこ、突いて、そのまま……! もうちょっとで、イく、からあぁ……!」
懇願するナイトレイを見下ろして、僕は更に律動を速めた。快感に逃げようとするナイトレイを自分の体で押さえつけ、僅かな体格差を利用して彼を抱き込み、動けなくする。ナイトレイの声が一段と高くなった。
「やだっだめだ、これ…っああ! 強すぎ、て、ッヒ……うぅー……!」逃げ場を失った快楽が彼の中で暴れまわり、なす術もなく僕の下で身を震わせた。
「我慢しろ、僕ももうイく、から……っ。あ……っ気持ちいいんだろ、これが」
「良すぎて、あぅ……駄目だ、こんな…おかし、く、な……アッあ、だ、め……!」
「くっ……!」
お互いにきつく抱き合って、ほとんど同時に達した。強い快感の余韻に二人とも暫く動けず、呼吸を繰り返すのが精いっぱい。頭からつま先までを襲う心地よい痺れに、ただ身を委ねていた。
汗ばんだ暖かい体。伝わる早い鼓動。すぐそばでは乱れた呼吸が繰り返され、僕の耳をくすぐっている。ああ、生きている。ナイトレイは僕の手の中で、生きているんだ。湧き上がる激情に任せて抱き寄せると、彼はそれに応じるように僕の肩口に唇を寄せた。
「……ローガン」
その体勢のまましばらくして、掠れた声が僕を呼んだ。返事をする代わりに、こめかみに口付けると、ふ、とくすぐったそうな吐息が彼から聞こえた。
「……私は」ナイトレイは続けた。「非現実的な事は信じない質だ。これは理解の範疇を超えるから奇跡だと片付けるのは、ただの思考の放棄だからね。思考の放棄は、人間性の放棄だ。特に私みたいな人間にとって、考えるのを止めるのは死ぬのと一緒なんだよ。幽霊かUFOがやってきて大切な髪留めを奪っていった、なんて依頼が来たとしても、私は必ず、科学的な結論を導き出してみせるよ」
ピロートークにしては突飛すぎる話に僕がぽかんとしていると、ナイトレイはそれを察して緩く笑った。細い指先が、僕の頬に優しく添えられる。
「だけどね」とナイトレイは穏やかに付け足した。「運命だけは信じても良いかと思ってるんだ。だって、ただの偶然で出会ったよりも、運命が我々を巡り会わせたと考える方が、素敵だろう?」
……ああ、くそ。それは卑怯だろ。
胃の辺りから込み上げてくるもののせいで顔が歪み、それに気づかれたくなくて慌てて彼を抱きしめた。まだ繋がっているせいで、ナイトレイは鼻にかかった声を漏らす。それでも、いつものサキュバスもかくやと思わせる淫奔さは今ばかりはなりを潜め、大人しく僕の抱擁を受け入れてくれた。
僕には、そんなにはっきりと、そんなに的確に、自分の感情を伝えるなんて無理だ。生来の気質がそうなのだ。不器用なりに精いっぱいやってみようとするのだが、結局は全てナイトレイに持って行かれてしまう。ナイトレイの言葉こそ、僕が彼に与えたいと思っているものなのだ。畜生、睦言の一つも囁けないなんて、僕は情けない野郎だ。
「……そうだな、ナイトレイ」彼の耳に口付ながら、僕はそう囁いた。けれど、彼にこの声は届かない。聞こえない右耳に言葉を吹き込んでいるからだ。意気地が無くて、素直に愛してるも言えない僕にはこれが限界なのだ。
本当は言いたい事はいっぱいあるんだ。気づけばお前の事ばかり考えてしまって、その一挙一動に引っ掻き回されて、ああ、お前の目の前に居る頑固者は、本当はただの、愛に翻弄される一人の男でしかないのだと、どれだけ訴えたいか。けれどそれは、僕の愚かな脳みそが、憎たらしい血が、幼いプライドが、許してくれないのだ。
「――僕も信じるよ。お前との運命なら」
聞こえない右耳へ囁けば、言葉は鼓膜に邪魔されず直接中へ送られる気がする……ナイトレイにそう言ったら、きっと非現実的だと一蹴されてしまうのだろうけれど。
「今、何か言ったか?」
不意にナイトレイが言った。一瞬ドキリとしたが、僕は緩く笑って首を横に振る。
「いいや、何も」
聞こえないはずの言葉を、心が聞いている、なんて都合の良い妄想を信じてしまいそうだ。
お前の事だ、ナイトレイ。きっと僕のことなんてお見通しなんだろう? だから僕は、まだそれに甘えて、子供じみた意地を通させてもらうよ。
僕の人生を完成させる最後のピースが、お前みたいな自分勝手な猫だなんて、言えるのは当分先になりそうだ。